1927年(昭和2)3月に起工し、翌1928年(昭和3)7月に竣工する、当時は「東洋一」とうたわれていた大久保射撃場Click!の設計図面を入手した。西武線の奥に蓄積された建築資材、すなわち河川敷の砂利やセメントが下落合駅Click!から軍需貨物として運びこまれ、もっとも多く活用されたのではないかとわたしがにらんでいる巨大な建造物だ。
 高田馬場駅から約400mほど南へ下ると、1874年(明治7)6月に陸軍用地となり、1882年(明治15)11月から近衛連隊射撃場として使用されはじめた、戸山ヶ原の中央部に位置する大久保射撃場の敷地に入る。この敷地は、全体を練兵場あるいは射撃場として陸軍が使用していたようだが、明治末から大正期にかけて、流れ弾や騒音などのクレームClick!が陸軍省へ数多く寄せられるようになり、射撃場施設をすべて分厚いコンクリートで覆ってしまうという案が決定された。それらのクレームは、大久保町をはじめ戸塚町、落合町、中野町と射撃場周辺の全地域におよび、1925年(大正14)2月には各町の有力者や町会が中心となって、大久保射撃場の全廃運動へと発展していく。まもなく議会で予算が通り、建設費は204万528円で1926年(大正15)と翌年の2回に分けて予算を付けることが、1926年(大正15)11月10日に近衛師団経理部長案として決裁されている。おそらく、この時期あたりから西武鉄道による建築資材の輸送がスタートしていると思われる。
 また、大久保射撃場から山手線をはさんだ西側の丘を被弾地と指定し、銃砲弾を撃ちこむ演習も行なわれていたのだが、砲弾が飛ぶ下をダイヤの密な山手線が走っていて危険きわまりないため、昭和初期にはおおよそ中止されているようだ。また、被弾地の南には陸軍科学研究所の施設が建ち並んでおり、時代とともに同研究所の施設建物が拡大して北側の被弾地へ迫ってきていたという事情もあるのだろう。事実、国立公文書館の陸軍資料を調べてみると、科学研究所の設備拡充とともに、被弾地の面積が削られていく記録が残っている。
 カマボコ型のコンクリート射撃隧道が建設される前の様子を、大久保近辺に在住していた随筆家で英文学者の戸川秋骨が、『そのまゝの記』(籾山書店/1913年)に記録している。
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 その自然と野趣とは全く郊外の他の場所に求むべからざるものがある。凡そ今日の勢、苟も余地あれば其処に建築を起こす。然らずともこれに耒耜(らいし)を加ふるに躊躇しない。然るに如何にして大久保の辺に、かゝる殆んど自然のそのまゝの原野が残つて居るのであるか。不思議な事には、此れが実に俗中の俗なる陸軍の賜である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部は戸山学校の射的場で、一部は練兵場として用ゐられて居る。併しその大部分は殆ど不要の地であるかの如く、市民若くは村民の蹂躙するに任してある。騎馬の兵士が、大久保柏木の小路を隊をなして馳せ廻はるのは、甚だ五月蝿いものである。否五月蝿ではない癪にさはる。
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 戸川秋骨は、射撃場を陸軍戸山学校のものだと思っていたようだが、実際に設置したのは近衛連隊(師団)であり、戸山学校や砲工学校の生徒たちも演習授業に使用したものだろう。


 新たに建設された大久保射撃場の設計図は、上から見た平面図と、カマボコ型の射撃隧道(トンネル)を横(南側)から見た側面図および断面図が残っている。射撃場の敷地は、東西に400m(諏訪通りに面した北側は約410m、南側は約385m)ほどあるが、コンクリートで覆ってしまった東西の幅は300mもあった。この300mという数値は、当時の小銃の弾がほぼまっすぐに飛ぶ距離をめやすにしているのだろう。300mもあるカマボコ型の射撃隧道が、中間叉路を1本はさんで、南北に7本も建ち並ぶことになった。コンクリートの厚さは、おそらく50cmほどだったと思われ、1945年(昭和20)のB29や戦闘爆撃機による激しい空襲にさらされても、最後まで破壊されることはなかった。設計は近衛師団経理部で、施工は橋本工業合資会社が担当しているのだが、この橋本工業の設立へ西武鉄道が出資していやしないだろうか?
 竣工の直後、おそらく1928年(昭和3)に低空飛行で斜めフカンから撮影された空中写真には、敷地内の様子が鮮明にとらえられている。(下写真) 左側の兵舎のような、カマボコ型のコンクリート構造物が射撃隧道で、その右側に拡がる空地は砲撃演習場、あるいは練兵場だ。演習の流れ弾が敷地外へ飛ばないよう、非常に高い土手が築かれていたのがわかる。山手線は写真上を走っているが、近隣の住宅を含め流れ弾による事故が絶えず死者まで出ている。
 また、写真の右枠外には、いまだ細道の諏訪通りが通っているのだが、その南側で地面へかなり広範にわたって手を入れ、なにやら工事が行なわれているらしい点に留意していただきたい。トロッコの軌道と思われる線路が、何本も敷設されているのが見てとれる。このあたりの敷地は、先に書いた地下鉄「西武線」Click!の敷設ルートに近接し、現在では幅広の諏訪通り(補助72号線)の下になっているエリアだ。1928年(昭和3)現在、陸軍省工兵課や騎兵課などの全面協力のもとで西武鉄道が地下鉄工事を進めていたとすれば、その“現場”がとらえられた貴重な写真の可能性がある。

 
 巨大なコンクリート製カマボコ型射撃隧道の様子を、同じく西大久保に住んでいた歌人・前田夕暮Click!が書きとめている。『素描―自叙伝短歌選釈―』(八雲書林/1940年)から引用してみよう。
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 私が明治末から住んでゐた大久保の地、隣接戸山ヶ原射場も、時代の推移に伴ひ、新しい白亜の累々たる円屋根の工作物が出来た。それは露天射撃が近郊にいろいろ危険を与へるので、絶えず問題化した果てに、その危険を防備するために、海狸の巣のやうなコンクリートの円屋根の工作物が、何個も原つぱに建てられた。これは全く新しい近代的な風景であつた。
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 射撃隧道を「海狸(ビーバー)の巣」と表現しているけれど、言いえて妙だ。1940年(昭和15)に発表された作品なので、国家総動員体制と軍国主義化が極端に進む中、戸川秋骨とは異なりどこか陸軍へおもねっているような文章であるのは否めないが・・・。
 戦時中、戸山ヶ原にはあちこちに高射砲陣地と、敵の爆撃機を照らす探照燈(大型のサーチライト)が設置されたが、1945年(昭和20)の4月からB29による徹底的な絨毯爆撃、および戦闘爆撃機によるピンポイント爆撃が繰り返し行なわれ、ほとんどの陸軍施設および周辺にあった病院は壊滅した。でも、頑丈なコンクリート建造物である大久保射撃場だけは、繰り返し直撃弾や至近弾を受けながらも、崩落することはなかった。戦後は占領軍に接収され、そのまま射撃演習場として利用されたが、警察予備隊(自衛隊)も訓練所として使っていた。

 

 1958年(昭和33)に米軍から返還されると、射撃場跡地の利用に手を挙げたのは、住宅不足を解消するため宅地開発を行なっていた住宅公団、公務員住宅が不足していた大蔵省、交通公園を企画していた東京都、小学校建設と公園を計画していた地元の新宿区、そして医学部設置を予定していた早稲田大学だ。跡地利用は競合入札ではなく、各団体や法人と折衝のすえ分割して払い下げられた。1965年(昭和40)に、早稲田大学の理工学部キャンパスClick!の建設がスタートすると、最後に残されていたカマボコ型の射撃隧道は、すべて姿を消すことになった。
 大久保射撃場が完成した翌年、1929年(昭和4)にさっそく施設への落書きが発見され大問題となっている。「不穏落書」とされた事件は、近衛師団司令部まで報告書が上がり陸軍を震撼させた。のちに起きる事件を予感させる、とてもラディカルな落書きなのだが、それはまた、次の物語。

◆写真上:1957年(昭和32)に撮影された、米軍から返還直前の大久保射撃場。
◆写真中上:射撃隧道の全体平面図(上)と、側面図および断面図など(下)。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)の竣工直後に撮影された大久保射撃場全景。山手線の際、左上に見えている工場は東京製菓工場(現・ロッテ工場)※だ。下左は、射撃隧道の途中にあった中間叉路で、人物と比較するといかに巨大な建造物だったかがわかる。下右は、射撃隧道の内部。
※東京製菓とロッテ製菓の工場は同一敷地ではなく、ロッテ工場が南へ50mほど下がった位置にあることがm.h.さんのご教示で判明した。(コメント欄参照) 戦後のロッテ工場となる敷地は、戦前には高級住宅街だったようだ。ご指摘ありがとうございました。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる大久保射撃場。中左は、射撃場跡地の戸山公園。中右は、1979年(昭和54)に拡幅された諏訪通りで、昭和初期は北側車線よりもさらに狭い道路だった。下は、1926年(大正15)11月10日決裁の「大久保及戸山小銃射撃場改築工事実施ノ件」の審案書。1926年(大正15)に110万7千842円、翌1927年(昭和2)には93万2千686円の予算が付き、合計すると204万528円で射撃隧道が建設されていることになる。