1929年(昭和4)10月13日、戸山ヶ原にできたばかりの「東洋一」を誇る大久保射撃場Click!の真新しいトイレで、さっそく落書きが発見された。それが「上を見ろ→馬鹿が見る~」程度の、他愛ない落書きであれば、すぐさま消して終わりだったと思うのだが、内容が「不穏落書」だったために陸軍省まで報告が上げられている。近衛師団司令部Click!から、陸軍省の兵務課調査班まで報告された、マル秘の密受第579号「不穏落書発見ノ件報告」より、少し長いが引用してみよう。
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 不穏文落書発見ノ件
 一、場所 大久保射撃場東北隅厠内側羽目板
 ニ、発見者及月日 昭和四年十月十三日牛込憲兵分隊所属憲兵上等兵同所巡察ノ際発見ス
 三、落書ノ内容
   軍隊ハ資本家ノ番犬ナリ
   我等ハ真ノ国民ノ番犬ノ軍隊ナランコトヲ望ム
   黙リ
   近衛兵ナルモノモ一部◎◎◎番犬ナリ
 四、処 置
  右牛込憲兵分隊ヨリ通報ヲ受ケタルヲ以テ十月十四日午前当師団司令部ヨリ大工ヲ差遣シ同所保護担任部隊タル近衛騎兵連隊週番副官篠塚曹長及牛込憲兵分隊中島曹長立会ノ上詇落書記載ノ羽目板ヲ取除ケシメタリ
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 落書きの内容は、明らかに“階級観”をもった将校または下士官兵のものであり、しかも近衛師団の人間である点が、師団司令部および陸軍省へ大きな衝撃を与えたのだろう。近衛師団は、もちろん天皇を守護する軍隊であり、落書きの文中にある「国民ノ番犬」などではない。また、文中の「◎◎◎」には、政界や財界との利権がらみで癒着が著しかった陸軍省、すなわち「近衛兵ナルモノモ一部陸軍省番犬ナリ」とでも入るのだろうか。これは、おそらく左翼思想の影響を受けた将校、あるいは下士官兵による落書きではない。陸軍部内では「皇道派」と呼ばれた人脈の中でも、「原理主義的社会主義」思想(特高警察Click!はなぜか「民主主義的思想」と表現することがある)に影響を受けた、のちに「国体原理派」を名乗った人物による落書きではないか。
 「国体原理派」の中心的な思想家には、北一輝Click!や西田税などがいるのだが、当時の憲兵隊あるいは内務省特高警察は、彼らの動向を執拗にマークしていた。なぜなら、彼らの思想や著作から「天皇」という文字を消しさえすれば、ほとんどマルクス主義と変わらない社会主義思想であり、革命をになう形成主体をプロレタリアートや農民による「前衛」とするか、階級観にめざめた「国民ノ番犬」たる軍隊=「昭和維新」部隊とするかだけの相違だったからだ。


 北一輝の著作で有名なものに、1906年(明治39)に出版された『国体論及び純正社会主義』、1921年(大正10)に相次いで書かれた『支那革命外史』と『日本改造法案大綱』があるが、中でももっとも有名な『日本改造法案大綱』から少し引用してみよう。
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 (人類は原始より)道徳的生物にして、将来に進化し行くべき神と過去に進化し来れる獣類との中間に位する経過的生物(類神人)なり。(中略) 又曰く、社会と云ふ大なる個体の生物が其の生命を維持せんが為に経済状態の異なるに従ひて其の組織と及び組織を繋ぐ道徳とを其の目的に従ひて其れ其れ変化せしむるは当然のことなり。(中略) 凡ての善悪は進化的善悪なり。社会の進化は階級闘争をなして漸次に上層に進む。政に凡ての善悪の決定は社会的勢力なり。
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 大正期に書かれた、古い時代の革命思想家らしくダーウィンの「進化論」と結びつけ、階級闘争を通じて国家が変容していく必然性を説いていて、マルクス主義者のようにヘーゲル弁証法には触れられていない。北一輝の思想が「教科書」的に語られるとき、この『日本改造法案大綱』があたかも彼の帰着点の思想のように記述されるのだけれど、同書は大正中期の古い著作であって、昭和に入ってからの彼の思想は文字どおり「進化」していった。
 二二六事件Click!が起きるころの彼の思想ベースには、ちょうどサルトルの60年代型実存主義における「神」の扱いのように、「天皇」さえあってもなくてもいい存在に変貌していたといわれ、おそらく「国体原理派」による昭和維新が実現したとしても、それはあくまで過渡的な政治形態であり、革命の初期段階であると規定されていたように思われる。パリコミューンの中に身をおき革命状況を実体験した西園寺公望Click!や、京大時代は「マルクス主義者」だった近衛文麿Click!が、「昭和維新」Click!を唱える陸軍の将校や下士官たちの思想を「弁証法的唯物史観」のようだと直感したのは、『日本改造法案大綱』以後の北一輝の変貌や、「国体原理派」の言動を知悉していたからだろう。

 大久保射撃場の便所の落書きは、真崎教育総監更迭事件や永田軍務局長斬殺事件=相沢事件(ともに1935年)の6年前、そして二二六事件Click!(1936年)の7年前の出来事で、陸軍内部ではマルクス主義と紙一重の「国体原理派」の思想が少しずつ、しかし確実に浸透・拡大しはじめていたころにあたる。世の中は世界大恐慌のさなかで、日本資本主義が抱える矛盾が一気に噴き出し、あらゆる分野での階級闘争が激化していた時期に「不穏落書」は書かれているのであり、北一輝をはじめとする“原理主義的社会主義”者の思想が先鋭化するとともに、陸軍内では「昭和維新」断行へのリアリティが、徐々に高まりつつある状況下で発見されたのだ。
 陸軍省としても、そのまま放っておくわけにもいかず、調査チームを編成して「不穏落書」犯人を捜索したようなのだが、報告書が付随していないところをみると、結局は見つからずウヤムヤになってしまったのだろう。落書きを書いた将校あるいは下士官兵は、おそらく7年後に起きた二二六事件Click!へ、なんらかのかたちで関わっているのではないだろうか? 将校や下士官だとすれば、ひょっとすると近衛師団から「蹶起」に参加したひとりなのかもしれない。
 特高警察資料の中に、「不穏文書」の統計をとった「昭和十年以降頒布セラレタル不穏文書調」という報告書が残されている。特高が把握していた「不穏文書」数は、1936年(昭和11)末までの間にぜんぶで212件。そのうち、共産党(マルクス主義者)によるものと思われる「左翼関係」文書が78件なのに対し、二二六事件Click!に直結する「国体原理派」を含む「社会主義」関連文書と思われるものは実に121件と、左翼文書数を大きく凌駕している。同報告書に収録された、北一輝などの「民主革命思想」を糾弾する「不穏文書」に対し、特高が添えた概略を引用してみよう。
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 北一輝、西田税一派ノ民主革命思想ヲ批判ス
 北、西田一派ノ革新理論ニ国体上容認スベカラザル民主主義的思想ヲ包蔵シ因テ軍部等ニ不祥事象ヲ醸生セシメタリトシ之ガ排撃ヲ高調シ全般的ニ嬌激ナル記述ヲ為セルモノ
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 この時代の「民主主義思想」の位置づけは、今日この言葉のもつ概念とはだいぶ異なっていると思われるが、大正中期に書かれた『日本改造法案大綱』のころの北一輝とは、思想的にも変異してきていることを示唆する表現であるのはまちがいなさそうだ。思想統制を推進する特高や憲兵隊は、軍隊というかたちで暴力革命の主体を手に入れようとしている、すでに“武装済み”の彼らをマルクス主義者と同等か、あるいはそれ以上の危機感をもってとらえていただろう。
 余談だけれど、二二六事件に参加した将校のひとりが、上落合の住民だったという伝承が地元には残っているが、いまだにそれが誰で、どこに住んでいたのかを突き止められないでいる。※ 岡田啓介首相Click!が身を潜めた下落合の隣りに、「蹶起部隊」の将校が住んでいたことになり、前々からずっと気になっているのだけれど、なにか判明ししだいこちらでご紹介したい。
※その後の調査で、上落合1丁目512番地の豊橋教導学校歩兵学生隊付きだった、竹嶌継夫中尉の実家Click!であることが判明している。竹嶌邸から600mほど離れた下落合3丁目1146番地の佐々木邸に、岡田啓介首相は身を潜めていた。

◆写真上:大久保射撃場のカマボコ型隧道跡を南北に通う、早大理工学部裏の並木道。
◆写真中上:1928年(昭和3)の完成時に撮られた大久保射撃場の北東部写真(上)と平面図(下)。近衛騎兵連隊用の駐馬建屋の裏で、赤い丸印のあたりに落書きされた便所はあったものか。
◆写真中下:国立公文書館にある、マル秘の密受第579号「不穏落書発見ノ件報告」文書。
◆写真下:左は、大久保射撃場の射撃隧道天井部。右は、大正期撮影と思われる北一輝。