「思えば遠くへきたもんだ」・・・と、ふたりはお互いの文章を読みながら、つくづく感じていただろうか? 1944年(昭和19)に美術発行社から刊行された『美術』8月号には、下落合623番地の曾宮アトリエClick!で、ともに「どんたくの会」Click!を起ち上げ、近所の画好きを集めては画塾を主宰していた、曾宮一念Click!と鶴田吾郎Click!の文章が同時に掲載されている。「(第1次)どんたくの会」時代(1921年~)では、非常に緊密だったふたりの画家が、20年後にはどれほど遠く隔たってしまったものか、掲載されている対照的な記事を読むとよく理解できる。
 まず、鶴田吾郎の文章は、出だしからして“勇”ましい。鶴田の「軍需生産美術推進隊の初期行動」から引用してみよう。ちなみに「軍需生産美術推進隊」とは、工場や炭鉱などで働く「労務者」は、前線で戦う兵士と同様に“戦士”であると位置づけ、画家はあまねく「推進隊」となって彼らを戦意高揚・鼓舞し、ともに生産性の向上を図るために生産現場へと入り、彼ら“戦士”の姿を進んで描き称揚すべきである・・・といった趣旨のもとに結成された、従軍画家と同じようなコンセプトの部隊だった。当時、「転進」(退却・敗走)や「玉砕」(全滅)をつづける最前線へ、画家が出向いてスケッチをするというような悠長な余裕は、とうになくなっていた。鶴田が長崎のアトリエ村Click!をまわって、若い画家たちを“召集”していったのは、「推進隊」の部隊編成が目的だったのだろう。
  ▼
 芸術家たるよりも先ず画家、画家たるよりも先ず労務者とならん。絵を描きセメントで彫刻をなす労務者として、吾々は此一刻も疎かに出来ないところの軍需重要生産部門の工場、炭坑(ママ)、鉱場に向つて働く光栄を担つたのである。/国家を挙げて、国民総力のもとでなければ此大戦争が勝ち抜くこと能はざることは、既に明々白々である。美術家たるが故に、この総力戦に充分なる参加をなし得ざるといふが如きことは断じてない。美術家が日本人たる以上、筆を持たざれば銃をとれ、筆なければ手指を使つても出来得ないことはない。/軍需生産部門が前線に劣らず昼夜兼行を以つて、凡ゆる戦争に要するところの増強補給を為しつゝあるのを美術労務者は知らねばならない。無人飛行機がロンドンに飛来し出してより一週間、英国は軍需生産労務者の疲労と消耗とで既に戦争遂行に悲鳴をあげだしたではないか。
  ▲
 「推進隊」は、1944年(昭和19)4月8日に結成され、下町の工場などで「労務者」たちをモチーフに制作し、それら作品の多くを生産現場へ寄贈している。描いた絵を残らず上げてしまっても、軍部から資金が出ているので別に困らなかったのだろう。また、6月以降の夏に入ると、北海道の夕張、大夕張、赤平、蘆別の4炭鉱へ「推進隊」を4部隊も派遣し、鶴田は夕張「推進隊」の部隊長となっている。夏を迎えると、なぜか涼しい地方へ「推進隊」が出かけるというのは、なんとなく風景画家の“習性”が感じられておかしいのだけれど、鶴田が長崎のアトリエ村へ画家をかき集めにきたのは、部隊を4つも編成した、この北海道行きのときだったと思われる。
 
 余談だが、文中のロンドンへ飛来した「無人飛行機」とは、ナチスドイツが開発したV1/V2ロケット(ミサイル)のことだろう。そして、鶴田は最後に次のように書いて締めくくっている。
  ▼
 恁うした仕事が炭坑(ママ)側にどれだけの感激を与へたかといふことは吾々として多くを云ふ必要はない。寧ろ日夜生産に敢闘する労務員が、これだけの仕事に感激と喜びを感じて呉れたことに対して、吾々推進隊員は何れもその純真なるものに却つて感激を与へられたのであつた。
  ▲
 これに対し、同誌へ寄稿した曾宮一念は、いつものように細々とした身辺雑記のような、鶴田とはまるで正反対の文章を書いている。緑内障が悪化したのか、相変わらず体調が思わしくないので、避暑と転地ついでに疎開もかねてどこかいい場所はないかと、かなりノンビリとした調子で書き出している。身近な出来事が淡々とつづられる、曾宮一念の「駿河吉原」から引用してみよう。
  ▼
 私自身は風来坊となつて京都に居たり、信濃にゐたり、東京にゐる元来家郷無き姿となつて数年を過ごさう、不自由ではあつても風景画家の本懐かも知れぬと思つたら寧ろこれが望ましくなり、五月十九日に家族を実家に出発させた。それと殆ど同時に吉原町に手頃の貸家があつたため私の所謂画家の本懐なるものは実現せずにしまつたのである。この間、家の有無は諦めて左程の焦慮を感じなかつたが、荷の発送にはさんざん手古摺つた。一ヶ月半も荷造のまま家内に山積の揚句絶望となり、やむなく木箱や包にして毎日一個づゝ駅と局とに叱られ乍ら行列を幾日も続けた。実はこの荷造と発送の過労が今にたたつて臥床してゐるのである。
  ▲
 
 曾宮は、日本橋浜町Click!の生まれで故郷が東京のため、避暑をかねた転地療養先+疎開先が決まらなかった場合は、しかたがないので日本じゅうを「風来坊」になってさまよい歩きながら風景を描こうとしていたようだ。1944年(昭和19)の初夏になると、ますます物流事情が悪くなっていたらしく、家財道具をまとめて配送することさえ不可能となっていた。そこで、目白駅の貨物受付係や下落合の郵便局員に、おそらく「またあんたか! この非常時に、いったい今度はなに持ってきたの!?」と毎日叱られながら、ひとつひとつ梱包しては長い行列に並んでいたのだ。曾宮のこの根気がなければ、佐伯祐三Click!からプレゼントされた簡易イーゼルClick!も、翌年5月25日のB29による山手空襲Click!で、アトリエとともに焼けてしまっていただろう。
 最終的に落ち着いたのは、妻の実家(田子浦村)がある静岡の吉原町だった。曾宮は、周辺の風景を見わたしながら、今後の制作についてさまざまな想いをめぐらしている。
  ▼
 どこで写したかつむぢ曲りの北斎だけは爛れた赤富士をかいてゐる。雷雨とか未明とかにはきれい事にならぬ富士も見せてもらへようか、今からこの有難きお山を何とかしてきたなく描く工夫を考へてゐる。
  ▲
 風景画がテーマの曾宮一念は、富士山を目の前にして暮らしながらほとんど描かなかったのだが、それはこのころから一種の“こだわり”があったからだろう。後年、画家が富士山を描くことは、いかにも「どこでも売れそうな絵」あるいは「誰もが買いそうな絵」を、ことさら媚びて制作しているようなのでイヤだ・・・というようなニュアンスの想いを述べている。
 
 一方では、富士山をどうやって「きたなく描く」かにあれこれと想いをめぐらし、また一方では軍需生産現場において戦意高揚の「推進隊」が、いかに「異状(ママ)なる感激をうけしめた」かを東條英機ばりの文体で総括する、『美術』8月号の対照的なふたりの文章・・・。遠く離れてしまった曾宮と鶴田は、お互いの記事を同号で読みながら、いったいなにを想い、感じていたのだろうか?

◆写真上:1943年(昭和18)発行の『新美術』(旧・みづゑ)に掲載された、前年にアトリエで『神兵パレンバンに降下す』Click!を制作中の鶴田吾郎。(撮影・大竹省二)
◆写真中上:左は、同誌に掲載された『神兵パレンバンに降下す』のデッサン。右は、1944年(昭和19)発行の『美術』12月号に掲載された林唯一Click!の素描『炭坑夫』。
◆写真中下:左は、1942年(昭和17)に『山下、パーシバル両司令官会見図』を描く宮本三郎。(撮影・同前) 右は、1944年(昭和19)発行の『美術』12月号で表紙画は川口軌外Click!。同誌の紙質や印刷が、戦争末期を反映してかかなり悪化している。
◆写真下:かつて、曾宮は下落合623番地(左)に、鶴田は下落合645番地Click!のちに下落合804番地Click!(右)にアトリエを建てて住んでいた。両者のアトリエは200mと離れていない。