この文章を書こうか書くまいか迷ったが、やはり、いまだからこそここへ書きとめておきたい。わたしが、いま置かれている“現在地”を確認する意味でも、記録に残しておきたいのだ。
 1985年(昭和60)の夏から秋にかけ、わたしはシベリア鉄道に乗って途中下車を繰り返しながら、ロシア(ゴルバチョフ政権下の旧・ソ連)にいた。佐伯祐三Click!の中国ハルピン経由とは異なり、ウラジオストックから乗車したかったのだが、当時は立入禁止の軍港都市としていまだ開放されておらず、空路でハバロフスクまで飛んで乗りこんだ。途中まで、抑留者墓地の慰霊を行なうシベリア墓参団といっしょになり、クラスノヤルスクまで同行することになった。
 当時のロシアは、旧・ソ連の共産党政権下といっても開放感がかなり拡がっており、シベリア鉄道では迷彩を施した戦車を50台ほど乗せた長い長い貨物列車が通りかかり、カメラを向けても特に咎められない時代に入っていた。軍人の一団へ向けてシャッターを切れば、笑顔で手をふるような時代に変貌していたのだ。シベリア墓参団に付き添っていたロシア人通訳によれば、「別に、どこをどのように撮られてもかまいません。ご自由に」と、国内鉄道の時刻表(少し前ならマル秘資料)までくれる変貌ぶりで、こちらがかえってとまどうほどだった。
 シベリア鉄道の旅では、もちろん終点モスクワで下車して、現在のベラルーシ共和国の首都ミンスク(当時はソ連西部の大都市)などに寄り道しながら、フィンランド湾に面したペテルブルグ(当時はレニングラード)へモスクワから「レッドアロー」号でたどり着き、やがて東ヨーロッパへと抜けていった。いまもつづいているらしいが、当時もロシアは日本語学習ブームのただ中にあり、街を散歩していると軍人や市民を問わず、あちこちから「すみません、ライターを貸してください」とか、「こんにちは、いま何時ですか?」などと日本語で声をかけられた。わずか6ヶ月ほどののち、その穏やかだった街角や風景を一変させる、ロシアは未曾有の危機にみまわれることになる。
 1986年(昭和61)4月26日、ウクライナ共和国(当時はウクライナ地方)の、チェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた、史上最悪の爆発事故だ。この事故では、硬直化した共産党政権の組織が円滑に機能せず、情報の遅れや隠蔽により厖大な数の被曝者を出してしまった。
 いまだに、同原発の周囲は高濃度の放射線に汚染されたまま、立入禁止区域があちこちに拡がっている。事故から数年後、放射線測定器を片手に現地入りしたジャーナリスト・広河隆一の報告を、確かスタートしたばかりのTBS「筑紫哲也のニュース23」で見た記憶がある。原発からかなり離れているにもかかわらず、カウンターが強い警告音を立てて反応する中、取材をつづける姿が衝撃的だった。そして、さらに驚いたのは立入禁止区域の村へともどり、農牧業を再開しながら「ふつう」の生活をしている村人たちの姿だった。彼らは故郷の家と、親しい知人たちと、自分たちの土がなければ、生きてはいけなかったのだ。広河隆一はいま、放射線カウンターを手にして福島にいる。
 
 
 昨年、貝原浩Click!の下落合風景Click!を探していたとき、展覧会などをまわっている際、知人から1冊の画集をいただいた。2010年に出版された貝原浩画文集『風しもの村―チェルノブイリ・スケッチ―』(パロル舎)だ。貝原浩は、事故から7年後にベラルーシを訪れている。子どもたちへの医療支援などをつづける、日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)のメンバーとともに現地を二度にわたって訪れ、帰国後、わずか2ヶ月ほどの間にチェルノブイリ・スケッチを仕上げている。大判和紙10枚に描かれた作品は、貝原浩の生前、本格的な大判画集になることはなかった。
 チェルノブイリ原発事故の際、風下になってしまったベラルーシでは事故後、医師たちが避難してしまって足りなくなり、また医薬品の不足が深刻化していった。1991年より、日本からの本格的な支援活動が、医師を中心とした市民レベルのJCFによって行なわれている。そのせいだろうか、ベラルーシ共和国はとうにロシアから独立しているが、今回の東日本大震災ではロシアの反応は早く、同国としては最大クラスの救援隊を組織して派遣している。同画集の巻末に昨年寄稿された、JCFの神谷さだ子事務局長による、「チェルノブイリは語り続ける」から引用してみよう。
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 湖と森が散在するこの地区は、かつては、サナトリウムがあり、保養地だったと言う。しかし、ほかの地域の放射能マークが、いつの間にか無くなっていく中で、この地には、いたるところに危険を報せる看板がある。汚染の無いほかの地域に移住していった医者達も多い。子ども達の甲状腺がんは、一九九五年以降、欧米レベルに戻ったが、四六歳以上の大人の甲状腺がんは右肩上がりで、増え続けている。子どもの時に、甲状腺を摘出した青年達が、ホルモン剤を飲み続けることで、問題が出ないだろうか、と懸念される。女性達は、汚染地に暮らし続けていることで、出産に不安を抱えている。/事故後の緊急支援の時は過ぎたが、放射能の半永久的被害についての解明が、長崎大学・京都大学で続けられている。現地の人々は、私達を“広島・長崎を経験した日本人”として、信頼と共感を寄せてくれる。汚染の大地に住み続ける人々と共に歩むことが、今という時代を共有していることなのかもしれない。/私達は、四半世紀前の事故から、今の暮らしの有り様について、問い返し学ぶことができる。
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 「今の暮らしの有り様」をもう一度問い返せないうちに、今回の東日本大震災に起因する取り返しのつかない、「想定外」の大事故は起きてしまった。TVでは盛んに、「チェルノブイリ原発の事故とはちがう」ことが強調されていたけれど、原子炉の構造やしくみ、事故の要因や形態こそまったく異なってはいても、大気中へ決して漏れてはならない大量のセシウムやヨウ素などの放射性同位元素がバラまかれるという、いまこの国で現象化している状況は、まったく同じなのだ。3号炉の建屋が水素爆発を起こしてふっ飛んだ時点で、原子力資料室で会見した元・原発設計者の後藤政志工学博士が言及していたように、「レベル5」などではなく「レベル6.5」の深刻さであり、チェルノブイリ事故の「レベル7」に限りなく近いという規定は正しかったように思う。
 祖父の世代が経験した関東大震災や、1995年に起きた先の阪神・淡路大震災がそうであるように、猛烈な自然災害は時代の経過とともに「過去」の悲惨で哀しい、そして口惜しい記憶として心の中に織りこまれ語り継がれていくが、原発の放射能事故は、どこまでいっても「現在進行形」のままになるのが、なんとしてもやり切れない。それは、「広島」や「長崎」を経験しているわたしたちが、世界の国々のどこよりも、いちばん熟知していたことではなかったか。
 1990年代の半ば、わたしの文章をロシア語に訳してくれた翻訳家が来日した。すでにソ連は存在せず、多様な国々が誕生していた時代だ。阪神・淡路大震災の話題からチェルノブイリ原発事故のことへ話が及ぶと、当時、彼女は事故現場から800km以上離れたモスクワ大学にいたのだそうだ。それでも、「日本語ができますでしょ、だから日本へ一時避難しようかと真剣に考えてましたのよ」と、目白の喫茶店でコーヒーを飲みながら、ちょっと古風な山手言葉で語っていたのを思い出す。
 
 モスクワの南に滞在しているとき、毎朝、郊外で採れたての野菜や果物を売りにくるお婆さんがいた。料理するまでもなく、細くてかわいいニンジンは生でかじっても驚くほど柔らかで甘く、三角に折った新聞紙に詰めてくれるベリー(コケモモ=ハックルベリーだろうか?)は、日本に持ち帰ってパイにしたいほどの美味しさだった。それから半年後、あのお婆さんもおそらく政府の放射線情報など気にもとめずに、生まれ育った大地で森のめぐみを採集し、畑を耕しつづけていたにちがいない。
★貝原浩作品展/「風しもの村」原画展
  -「チェルノブイリ原発事故から25年、もう一度、考えてみたい大切なこと」(仮題)-
・日程:2011年4月19(火)~5月1日(日) 月曜定休 
    火曜~土曜11:30~23:00/日曜11:30~18:00(変更の可能性あり)
・場所:space & cafe ポレポレ坐Click!
    〒164-0003  東京都中野区東中野4-4-1-1F space & cafe ポレポレ坐
・詳細/最新情報:「絵描き・貝原浩」公式サイトClick!

◆写真上:貝原浩画文集『風しもの村-チェルノブイリ・スケッチ-』に描かれた少女。これらの作品画像は、連れ合いさんの世良田律子様からご了解を得て掲載している。(写真類を除く)
◆写真中上:上左は、昨年(2010年)夏に出版された、貝原浩画文集『風しもの村』表紙。上右は、ロシアの平原になかなか沈まない初秋の弱々しい太陽。下は、貝原浩画文集『風しもの村』より。
◆写真中下:貝原浩画文集『風しもの村』の部分画像。上右は、平原で放牧される牛の群。下は、現在では廃炉になった旧・チェルノブイリ原子力発電所だが、コンクリートの「石棺」で覆われた原子炉からの放射線漏えいはいまだ止まらず、逆にコンクリートの劣化とともに増大している。
◆写真下:美味しい野菜や果物を売りにきたお婆さん(左)と、シベリア鉄道勤務で乗務員のおねえさん(右)。言葉がなかなか通じにくい旅の途中で、気が合ったふたりの女性。