大正期から昭和期にかけての洋画家というと、気の合う仲間たちと肩を寄せ合って貧乏生活を送りながら、身の内から湧きあがる繊細な美意識をキャンバスにぶつけて、一所懸命に表現しようとしている芸術家・・・というイメージがある。確かにそのような画家たちもいるのだが、大半の画家は家がもともとおカネ持ちでかなり裕福であり、生活の心配があまりいらない人たちだった。逆に言えば、だからこそ収入のあてなどほとんどない「画家」になれたのだ・・・ともいえるのだ。
 たとえば、1930年協会Click!のメンバーを見わたしてみると、生活破綻の心配がないおカネ持ちの「坊ちゃん」Click!たちが多く、絵が売れなくてもとりあえず餓死してしまうような画家はほとんどいない。確かに「貧乏生活」を送っているのだが、それはまさかのときには親族に泣きついて頼れる「貧乏」であり、周囲へ借金を繰り返していても、なぜかパリ留学へと旅立てる程度の「貧乏」暮らしだった。同協会の会員を眺めると、家庭の事情から餓死の懸念が現実に存在していた小島善太郎Click!や、明日をも知れぬフーテン生活から生涯離れられなかった長谷川利行Click!のような画家が、むしろ例外なのだ。多くのメンバーは、どこかで「貧乏」スタイルを楽しんでいるような気配さえ感じられる。見方を変えるなら、生活基盤に深刻な懸念や破綻がないからこそ、自身の好きな生き方で好きなだけ絵が描きつづけられ、自由な“表現主張”ができたのだ・・・とも言える。
 裕福な環境で育ったせいか、多くの画家たちは我が強くわがままだった。自身の思い通りにならないことがあると、すぐにあきらめて無視してしまうか、あるいは逆に熱中したり激昂したりする性格の人たちが多い。それが結婚して家庭をもったりすると、思い通りにならない感情をぶつける矛先は、すぐ身近にいる連れ合いや家族ということになる。
 
 以前、長崎村北荒井(現・豊島区要町)の培風寮や、新婚当時は池袋2丁目に住んでいた靉光Click!のDVについて触れたことがある。自身では収入がまったくないため、家計は連れ合いさんがすべて支えていたのだが、連れ合いさんへ当たり散らす靉光の姿は几帳面や神経質を通りこして、もはや病的ですらある。彼は、別にそれほど裕福な環境で育ってはいないけれど、表現できない苛立ちや思い通りにならない現実への怒りを、身近にいる他者へとぶつけずにはいられない性格だったようだ。家族は、靉光の笑顔をほとんど見たことがなかったらしく、死後に見つかった記念写真で微笑む表情を見て、感無量の想いにとらわれたらしい。
 「池袋モンパルナス」Click!の名づけ親であり、詩人で画家でもある小熊秀雄Click!は、もっとすさまじい。1927年(昭和2)1月に旭川新聞に発表された、小熊秀雄『殴る』から引用してみよう。
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 彼女は、三日もつゞけさまに、朝の味噌汁にキャベツを使つて俺を苦しめたのである。(中略) それに彼女は、片意地な自我を毎朝三日もつゞけて、その椀の中にまざまざと青いものを漂はして俺を脅迫したのが、たいへん癪にさはつた。/俺は激しく怒つて、男性的な一撃を彼女に喰らはした。/膳の上には革命がひらかれた。茶椀を投げつけた。茶椀は半円を描いて室中を走り廻つた。/女はかうした場合何時も無抵抗主義をとつた、寒い猫のやうに、自分の膝の中に頭を突込んで丸くなつた。/その惨めなさまが、尚更俺の憤怒の火に油をそゝいだ。
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 これは、小熊秀雄の作品の中における「創作シーン」・・・ではなく、ほとんど現実そのものだ。このときは、味噌汁の具にキャベツがつづいたことに対して激昂している。当然、家族には小熊の死後、もっていき場のない怒りや憎しみ、複雑な思いを残しているのだろう。
 
 きわめつけは、またしても岸田劉生Click!が登場するのだが、岸田家の事情はちょっと・・・というか、かなり特殊だ。他人や家族を問わず、すぐに「殴ってしまう!」の“DV王”的な劉生なのだが、連れ合いの蓁(しげる)や娘の麗子、藤沢では同居していた妹の照子など、家族に深い恨みや憎しみを残してはいない。さんざん暴力をふるっていながら、逆に妻や娘から愛惜をもって語られるところが、劉生ならではの“人徳”なのだろう。片や気に入らないと暴力をふるいながらも、彼女たちを少しでも喜ばせようと、芝居や美味いもんを食べにせっせと連れ出したり、きれいなプレゼントや土産(アクセサリーや着物類)を欠かさなかったりと、劉生はいろいろと細かなことにまで気を配っていた様子がうかがえる。1979年(昭和54)に出版された、『岸田劉生全集』第6巻(岩波書店)から引用してみよう。
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 夕方、長与へ帰り、九時頃帰らうと云ふのに蓁おちついて帰らず皆で、耳ジヤコなどして遊ぶ中おそくなりとうとう十一時の電車でなくては帰れぬ事になり、余かんしやくおこし、蓁とけんかし、夜ねしなに蓁が生意気なので、少しなぐつたりする。 (1921年7月30日)
 蓁は今日は昨日からのけんかにて不貞寝して一日ねてゐる。イヤな女なり。少しイヤになつた気がするが別にその事淋しくもなし。この女の生意気が一番閉口なり。人妻らしい夫に対してひかへめの感じなし。気がつよくて、しかも不精にて、美点にともし。別れるのなら別れろといふ気がしてゐて別に心に浪も立たず。/夕方より丸山と椿へ行き角力とり帰宅、入浴し夜食の時ビールのみ急に腹立ちて蓁をナイフにて打つ。少し乱暴すぎてあとで淋しい気がした。あまり自分が野蛮な気がして、夜、結局、仲なほりした。(同年7月31日)
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 ・・・と、もう好きでたまらない恋女房を口をきわめて罵り書いているそばから、仲直りしてホッと安心している8月の劉生がいる。江戸東京の女性Click!に「ひかへめ」を求め、「気がつよく」ないことを願っても、そんなことが不可能な注文であることは、下町Click!育ちの劉生がいちばんよく知っていただろう。岸田蓁は殴られても蹴られても、夫への尊敬の念とその仕事を誇りにしていた様子がうかがえるのだが、しょせん男女(夫婦)間の心のありようや機微は、外部からはまったくうかがい知れない。
 
 よく、男が家庭的にも対外的にも窮地に陥ったり困難な状況に立ちいたったりすると、「影」で糸をあやつり足を引っぱる「悪妻」や「悪女」「女ギツネ」のせいにするステレオタイプ化された見方を、中国や朝鮮半島の儒教思想が教育へと直接持ちこまれた明治以来、いまだたまに見かけたりするのだが、男がパートナーに選んだ主体的な「選択」責任を丸ごとスッポリ欠落させ、すべてを他者=異性(女)のせいにする幼稚なご都合主義は、わたしには見苦しくて薄らみっともない視座(解釈)のように感じてしまう。男の連れ合いやパートナーをことさら貶めることは、そのまま「擁護」し「救済」するはずの男の側も、相対的に同じように貶めていることになるからだ。
 さて、妻への暴力をほんの少し反省したはずの劉生なのだが、その舌の根(愛用万年筆のインク)も乾かないうちに、今度はご飯を炊くのが遅れたといってかんしゃくを起こしている。
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 今日は仕事しやうと思つてゐる矢先き、いつもめしをたべないと落ちつかぬくせがあるのでそれからかんしやくになり、蓁とけんかし、蓁が又たてついて戸外に逃げ出したので、とび出して、倒して引きづつて玄関へ来た。蓁はそのため、ひざその他をすりむいてしまつた。けんかも少し下火になつた頃椿来訪。(中略) それにしても今日のけんかと余の乱暴は少しひどすぎる。考へると少し淋しくなる。浅ましい気がする。俺はこれから怒るのをやめる修行をしなくてはならないと思ふ。今日のけんかがそのキツカケになれば、まあいいと思ふ。自分の中にあんな狂暴なものがあるのを考へると淋しい。自己厭悪の気持ちになる。(1921年8月22日)
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 1930年協会の林武Click!は、逆に連れ合いさんからのDVに悩まされたという話を以前、どこかで聞いたことがある。しばらく仕事をしないでブラブラ遊んでいると、幹子夫人から手を思いっきりつねられたらしい。手にアザができるたび、林武は避難がてら波太(太海)の江澤館Click!か、富士山を描きに出かけていたのだろうか?(爆!) こういうDVなら、ちょっとほほ笑ましい気もするのだけれど、愛妻家の林自身にしてみればとっても深刻な、誰にも言えない悩みだったのかもしれない。

◆写真上:1930年代に黒インクで描かれた、小熊秀雄のスケッチ『小熊夫人像』(部分)。
◆写真中上:左は、1934年(昭和9)制作の靉光『女』(部分)。右は、同年の『自画像』(部分)。
◆写真中下:左は、1918年(大正7)制作の岸田劉生『岸田蓁像』。右は、藤沢鵠沼で撮影された岸田家(1920年ごろ)で、劉生のDVがもっとも激しかったころの記念写真だが幸せそうだ。
◆写真下:左は、1929年(昭和4)制作の林武『婦人像』(部分)で、もちろんモデルはちょいと怖い幹子夫人。右は、1930年協会第5回展(1930年)の会場前で懐手(ふところで)の林武。w