1925年(大正14)7月1日付けの陸軍省受領第1318号書類に、内閣書記官長・江木翼から陸軍次官・津野一輔あてに提出された、「戸山ヶ原陸軍射的場移転ノ件請願書」が現存している。陸軍省軍事課は7月8日に、同歩兵課は7月20日にそれぞれ受領している。
 これは、大久保射撃場Click!周辺の大久保町、戸塚町、中野町、淀橋町、そして落合町Click!が結束して、住民の代表者189人が当時の衆議院議員だった石川安次郎(憲政会)を介し、陸軍省を飛びこえ衆議院を通じて当時の加藤高明内閣へ、直接提出している。請願書といっても、内容は強い「抗議書」の趣きも含まれており、「談判書」と表現したほうが適切かもしれない。ちなみに、請願書を議会へ持ちこんだ石川衆議院議員は、大久保射撃場の巨大なコンクリート製「射撃隧道」Click!の完成を見ずに、この年の11月に自宅で死去している。
 周辺の住宅地では、明治末から射撃場の流れ弾や騒音に悩まされており、そのたびに各町ごとに陸軍省へ抗議と再発防止の請願をしていたのだが、それではラチが明かないと判断したものか、ついには5町の町議会議員や町会役員、住民代表らが結束して射撃場の「撤廃移転」を強く要請するまでに問題がこじれている。当時の新聞を見ても、流れ弾による被害の記事は年々大きく扱われるようになり、大正末には社会問題化していたのがわかる。
 たとえば、1926年(大正15)7月13日発行の東京朝日新聞には、流れ弾が市谷余丁町や若松町に近い位置の住宅にまで飛びこんでいたのがわかる。これは、おそらくその方向へ向けて撃った弾ではなく、なにかに跳ね返って放物線を描きながら、西大久保の端まで飛んできたものだろう。大久保小学校も近く、弾丸は高千穂小学校の目の前の家に飛びこんでいることから、射撃場からはだいぶ離れているにもかかわらず、この一帯の住民も強い危機感を抱いたと思われる。
 また、射撃の方角にある上戸塚、上落合、中野、柏木(東中野)などの住宅街では、なにかに当たって反射した弾ではなくそのまま標的を逸れた、勢いのある弾丸がまっすぐに飛んでくるので、危機感はより強かったにちがいない。事実、被弾地から逸れた弾丸が中野の住宅地にまで達する事件が発生していた。外で遊んでいる子供たちが被弾しやしないか、あるいは戸山ヶ原へ出かけて撃たれないか、親たちは気が気ではなく生きた心地がしなかっただろう。


 実際、その被害は深刻なもので、実弾演習の増加とともに周辺住民の死傷者の数も増え、同請願書の文面には、再三にわたって危険防止や再発防止を(陸軍へ)訴えてきたにもかかわらず、ほとんどなんら安全確保の施策がなされないと、あからさまに怒気を含んだ表現となっている。それは、射撃場の「撤廃移転」の要求のみならず、たとえば移転によって射撃場と駐屯する兵営との距離が離れて不便であるなら、隣接する近衛師団ごと出ていけとする激烈なものだった。請願書の主文を、当時の状況や陸軍の対応の実態などがよくわかるので、長いが全文引用してみよう。
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 戸山ヶ原陸軍射的場撤廃移転ニ関スル請願
 戸山ヶ原陸軍射的場ハ隣接大久保町、戸塚町、淀橋町、中野町、落合町ト東京市牛込区トノ中間に介在シテ 其面積実ニ十三万八千三百六十坪ノ厖大ナル地域ヲ占有ス 為ニ各町村相互ノ交通ヲ遮断シ経済上ノ発展膨張ヲ阻止スルノミナラズ 最近ニ至リテハ人口ノ密度日ヲ趁フテ稠密ヲ加フルニ及ヒ 射的場ノ誤発流弾ハ屡々付近ノ住宅ヲ襲ヒ 或ハ庭園ニ或ハ道路ニ落下シテ家屋ヲ毀損シ 又ハ児童通行人等ヲ殺傷シタル実例頻々タリ 今ヤ前記隣接五ヶ町ニ於ケル二十万ノ住民ハ経済上ノ不利 交通上ノ不便ハ猶忍ブ可シトスルモ 流弾落下ニ依ル生命財産ノ危険脅威ノ前ニ直面シ 日夜戦々恐々トシテ安住ノ地ヲ失ハントスルノ状態ニ置カルゝハ 断シテ忍ブ能ハザル所ナリ 而シテ上述ノ事情ハ機会アル毎ニ隣接各町ヨリ夫々ノ手続ヲ以テ政府当局ニ陳情スル所アリタルニ拘ラズ 未ダ満足ナル回答ニ接シタルコトナシ 只陸軍当局ハ数年前之等ノ実状ニ鑑ミ 射的場ノ施設ニ多少ノ改善ヲ施シタルガ如キモ 被害ハ頻々相亜イデ起リ改良以前ニ比シテ寧ロ激増ノ傾向アリ 既ニ施設ノ改善ニ依リテ此ノ危険ノ絶対的防止ヲ図ルコト不可能ナル以上 之ヲ他ニ移転シテ人道問題化セル付近住民二十万人ノ危急ヲ救ヒ 併セテ年来隣接町村ノ熱望シツゝアル交通経済ノ障礙ヲ除去スルノ途ヲ講スル外 他ニ執ル可キ方法アル可ラズト信ス 殊ニ同射的場ノ始メテ設置セラレタル明治五年当時ニアリテハ 周囲ハ広漠タル原野ニシテ人家稀ニ散在シ被害ノ程度モ亦極メテ寥々タルモノナリシナランモ 今日ノ状勢ハ実質ニ於テ隣接町村ニ東京市ノ延長ヲ実現シ利害共通ノ大東京市街ヲ形成シ居リテ 射的場ハ実ニ其ノ中央部ニ位セルガ為メ 銃声市井ノ騒音ヲ壓シ兵馬紅塵ヲ揚ケテ街路ヲ駈駆シ 日常婦女子ノ危険亦言語ニ絶セリ 若シ夫レ射的場ノ撤廃移転ヲ以テ兵営トノ距離上不可分ノ問題ナリトセハ 兵営ノ移転ハ素ヨリ付近住民ノ望ム処ナリ 仍テ本会ハ左記四ヶ町(ママ)ノ町会及町民ノ決議ヲ尊重シ 茲ニ貴院ニ請願候也 /大正十四年二月十二日
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 以下、戸山ヶ原に隣接した各町ごとの住民名の署名および捺印、計189名がズラリと並んでいる。落合町が戸山ヶ原に接しているのは、小滝橋のほんの一部にすぎないのだが、小銃の流れ弾は射撃場の隣接地ばかりでなく、中野や淀橋(現・新宿駅西口方面)、東大久保の南(現・新宿)にまで達する状況であり、当然、落合町も「射程距離」の範囲だった。銃声がほとんど聞えない、射撃場から数km離れている市街地でも決して安全ではなかったのだ。
 落合町で署名をしている人々は、『落合町誌』Click!(1932年)で確認すると旧家や町会議員などが多く、すべて上落合の住民だ。おそらく、上落合にも流れ弾が飛んできた事件が実際に起きているのだろう。署名している上落合の住民46名のうち、『落合町誌』に掲載されている人物が17名、また町誌には同一住所で苗字もそのままだが、名前が変わっている子息(次世代)あるいは兄弟、ないしは姻戚関係と思われる人物が6名の、計23名を確認できる。つまり、『落合町誌』に掲載される旧家や町議会議員など、“土地の有力者”といわれる人たちの割合が、署名のちょうど50%を占めているということだ。以下、署名者を一覧表にしてみよう。

 この請願から7年後、のちに『落合町誌』へ掲載されるような上落合の旧家、あるいは有力者たちがこぞって署名していることになる。また、落合町以外もまったく同様で、戸山ヶ原に接した町の旧家や町議会議員、町会役員などがほとんど署名しているといっても過言ではない。それほど、流れ弾や騒音の被害はひどく、強い危機感を持っていたことがうかがわれる。

 請願書の署名を見ていて面白く感じるのは、海軍軍人が少なからず署名に参加している点だ。落合町の署名では、上落合544番地に住んでいた平井三郎という海軍軍人が署名に参加している。家庭へいつ流れ弾が飛びこんで家族を殺傷するかわからない状況では、同じ軍隊同士といってもむしろ当然の署名参加だったのだろう。                           <つづく>

◆写真上:諏訪町の南側に拡がる、大久保射撃場の練兵場敷地跡の現状。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)7月13日発行の東京朝日新聞に掲載された、大久保町西大久保352番地の住宅へガラスを破って飛びこんだ流弾記事。このときは、幸いにも死傷者は出なかった。下は、明治末の地図にみる西大久保352番地の位置で市ヶ谷の住宅街が目前だ。
◆写真中下:1947年(昭和22)の空中写真にみる、大久保射撃場周辺に拡がる流弾被害地域。
◆写真下:東京朝日新聞より、大正末に晩秋の戸山ヶ原で遊ぶ子供たちの情景写真。