これまで、西武鉄道による西武電車が下落合駅を起点(終点)とし、客車運行をスタートする以前に陸軍の軍用貨物を運んでいたのではないか?・・・というテーマを、地元下落合での目撃情報や初期の氷川明神前下落合駅Click!に関する取材などをベースに、5年間にわたって記事にしてきた。西武鉄道関連のマイクロフィルムに残された資料類Click!や、国立公文書館に保存された陸軍省資料Click!を詳細に当たってみると、その可能性が限りなく高いことがわかる。わたしは、その軍用貨物とは、昭和初年から戸山ヶ原Click!へ次々と建設される、大規模なコンクリート建築の資材=セメントや玉砂利ではないかとも、これまでの記事で何度も書いてきた。
 しかし、従来判明した事実は、上記の仮定を証明する直接的な“証拠”ではなく、あくまでも周囲情報、じれったくて婉曲な“傍証”にすぎない。いくら陸軍省工兵課が、西武鉄道の審案を最優先Click!する便宜をはかろうが、陸軍の鉄道連隊が線路敷設工事に協力しようが、軍需調査令による同鉄道の調査を信じられないほど簡略化しようが、西武線の上を貨物列車がセメントや玉砂利を載せて運んでいたという、ストレートな証明にはならない。もっとハッキリとした事実、西武線が上記の建築資材を貨物輸送していた“証拠”を見つけなければ、いつまでたってもこのテーマは仮説の域を出ない。ところが、答えは思わぬところから出現した。貨物を輸送していた西武鉄道の資料でもなく、貨物を受け取っていたであろう陸軍資料でもなく、貨物を送り出していた地域、すなわち東村山駅のある「東村山市史」(東村山市史編さん委員会)の資料類だ。
 1995年(平成7)3月に出版された『東村山市史研究』第4号(ぎょうせい)には、当時は法政大学教授だった野田正穂の論文、「旧西武鉄道の経営と地域社会」が掲載されている。同論文には、大正期の西武鉄道の会社定款や営業報告書に、「鉄道事業」や「土地経営事業」とともに、「砂利の採掘・販売事業」が記載されていたことが指摘されている。余談だけれど、2008年に亡くなった野田正穂教授は、このサイトでは中村彝Click!関連の記事で何度も登場している、洋画家・野田半三Click!の子息であり、また参考資料としてお世話になっている『目白文化村』(日本経済評論社/1991年)の編者でもある。日本の鉄道史研究と、鉄道沿線に開発された観光・遊戯施設や住宅街造成の研究では、おそらく第一人者のひとりだろう。
 西武鉄道が、自社事業として本格的な砂利採掘・輸送に乗り出したのは、1923年(大正12)の関東大震災Click!前後からだった。鉄道沿線に拓かれつつある住宅街の造成や、観光・遊戯施設の建設を見こした事業拡大であり、震災後は焼けてしまった東京の市街地で、耐火建築のビルや家屋の建設用として、大量のセメントや砂利の需用が高まった時期でもある。
 だが、西武鉄道はそれ以前から、セメントや玉砂利など建築資材の大規模な輸送を手がけてきていた。1916年(大正5)5月からスタートする、東京市の水がめとして期待された村山貯水池のダム建設だった。同論文から、大正中期には建築資材のターミナルと化していた、東村山駅の様子を引用してみよう。ちなみに、文中の「村山線」とあるのは、今日の西武新宿線のことだ。
 
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 村山線が開通をみた同じ一九二七年(昭和二)の三月、二〇〇万東京市民の「水がめ」として一六年(大正五)五月いらい工事が進められてきた村山貯水池が完成した。この村山線と貯水池という二つの建設工事の拠点となったのは東村山駅であり、約三〇万トンといわれた貯水池の建設資材(砂利、セメントなど)は西武鉄道の東村山駅を経由し、二〇年(大正九)六月に東村山駅前から清水村までの間(三・七キロ)で開通した東京市専用の軽便鉄道で現場へ輸送されたのである。また、東村山駅構内は村山線の建設資材(砂利、レール、電柱など)の集積地となった。こうして二七年までの数年間、東村山駅は資材の搬入、関係者の乗降りなどで「建設ブーム」を呈し、駅前には飲み屋、カフェー、下宿屋などが軒を並べることになった。
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 村山線の東村山駅には、大正初期から膨大なセメントや砂利などの建築資材が集積され、貨物の一大ターミナルと化していた様子がうかがえる。これら資材の調達・輸送・管理などの業務に従事するために、建設工事の従事者を含めて駅周辺には数多くの人々が集まり、駅前商店街らしき「街」までが形成され、建築資材の物流拠点としての東村山駅が存在していた。
 でも、1916年(大正5)にはじまった貯水池建設工事は、大正後期になるとコンクリート用の建築資材の需用には先が見えてきただろう。関東大震災の被害による、セメントや砂利などの大量需用も、大正末ごろには徐々に減少してきたと思われ、そのままいけば先細りなのは目に見えていた。東村山駅に形成された、建築資材の物流ターミナルを収益の“ドル箱”としてそのまま存続・活用していきたい西武鉄道としては、是が非でも建築資材の新たな市場を開拓しなければならなかった。それには、沿線における観光地・遊園地の建設や住宅地造成などの微々たるニーズではなく、もっと規模の大きな需要を見つけなければならなかったのだ。
 そこで目をつけたのが、広い戸山ヶ原に建設が予定されている、陸軍の巨大なコンクリート建築群だった・・・と、わたしは考えている。いや、これは見方が逆なのかもしれない。確かに西武鉄道は、官公庁が計画している当時の大規模工事プロジェクトへアプローチをかけていたのだろうが、東村山駅に形成された建築資材ターミナルの軍事利用に目をつけたのは、陸軍省のほうだったのかもしれない。それは、明らかに戸山ヶ原の近辺へと西から徐々に延びてくる、西武鉄道の敷設計画を陸軍省がなにも考えずに次々と審案の決裁を下し、漫然と眺めていたとは考えられないからだ。計画に注目していたからこそ、起点(終点)を山手線・目白駅から高田馬場駅へと変更させ、西武電車の最終区間=井荻~高田馬場(実質は下落合の氷川明神前まで)間の線路敷設工事へ、陸軍省工兵課が全面的に協力し、1926年(大正15)11月に朝鮮鉄道鎮昌線の線路敷設演習からもどったばかりの鉄道連隊を、そのままつづけて投入している・・・との解釈もできるだろう。
 
 
 西武鉄道が、自社で砂利の採掘・輸送・販売を手がけるようになったのは、下落合で目白文化村Click!の第一文化村が販売されたのと同じ年、1922年(大正11)の11月からだ。それまでの村山貯水池建設では、おそらくどこかの砂利業者から調達していたか、あるいは鉄道輸送と東村山駅における集積・管理などの業務のみ手がけるだけだったと思われる。でも、自ら砂利事業を手がけたほうが、利幅がケタちがいに大きいと考えたにちがいない。再び、同論文から引用しよう。
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 西武鉄道は一九二二年(大正一一)の一一月、川越線(旧川越鉄道の国分寺・川越間)、大宮線(旧川越電気鉄道の川越・大宮間)、新宿線(旧西武軌道の淀橋・荻窪間)の三つの路線をもって営業を開始した。また、新たな兼営事業として、関東大震災からの復興のため需要が急増していた砂利の採掘・販売にのり出した。まず、二五年(大正一四)二月にはそのための貨物線として南大塚・安比奈間(砂利線)を開通させ、二七年(昭和ニ)八月には砂利鉄道として知られる多摩鉄道(現多摩川線)を四七万五,〇〇〇円で買収した。/第二次大戦前の私鉄は、日本の東西を問わず、電燈・電力の供給、遊園地経営、土地の分譲、デパート経営などの副業を重要な収入源としていたが、西武鉄道の場合は、当時の営業報告書が「兼業」の項目に「土地経営」と「砂利営業」の二つをあげていたことからも明らかなように、砂利の採掘・販売は重要な副業となっていた。
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 大正末、東村山駅に集積された砂利やセメントの需要に蔭りが見えてくると、西武鉄道は事業を順調に継続させるために、新たな大口顧客を見つけなければならなくなった。それが、戸山ヶ原にさまざまな建設プロジェクトを抱えた陸軍省だったのだ。村山貯水池よりも、さらに膨大な砂利やセメントの需用が見こめ、山手線の内外に展開している戸山ヶ原へ、西武鉄道はなんとしても路線を乗り入れなければならなかった。それには、当初の計画である目白駅が起点(終点)Click!では都合が悪く、どうしても高田馬場駅Click!を考慮しなければならなかった。こうして、西武鉄道と陸軍省の利害がピタリと一致したうえでの、陸軍による井荻~下落合までの線路敷設「演習」と、念願だった山手線内側までの西武電車乗り入れ、さらに地下鉄工事の認可だったのだ。
 昭和に入ってからも、東村山駅は西武鉄道における最大クラスの貨物集積駅として、そのまま機能しつづけることになる。軍部とのつながりは深まり、建築資材の供給ばかりでなく、陸海軍に納入する糧秣(おもに近郊で採れる野菜類)の集積駅としても発展していくことになった。同論文の孫引きになるが、1939年(昭和14)に出された西武鉄道の「第三十三回報告書」から引用しよう。
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 当期間ノ営業ハ旅客ニアリテハ沿線住宅ノ増加及軍需工場ノ新増設ニ起因スル電車利用者ノ激増並国民体位向上運動ニ伴フ村山山口貯水池方面行諸団体客其他「ハイキング」客ノ増加ニヨリ又貨物ニアリテハ砂利輸送数量ノ増加ニヨリ前年同期ニ比シ近時ニ於ケル記録的増収ヲ示シ之ニ地方鉄道補助法ニヨル政府補助金ノ交付、利率引下ニ依ル支払利息額ノ減少・・・(以下略)
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 西武電鉄が開業する直前の大正末から昭和初期にかけ、同線上で目撃されていた貨物列車に満載されていたのは、陸軍省が発注して西武鉄道が調達し、東村山駅から送られてきた大量の砂利やセメントだったろう。その積み荷である砂利自体も、同鉄道によって採掘されたものだ。これらの貨物は、のちに開業する氷川明神前の下落合駅あたりで貨車から下ろされ、トラックあるいは荷馬車などによってすでに鉄筋コンクリート化された強固な田島橋Click!を経由し、戸山ヶ原へと運びこまれたのだろう。当時、周辺のあちこちが工事中だったため、この一連の輸送はそれほど目立たなかったかもしれないのだが、開業前の線路上を走る貨物列車だけは、地元住民から頻繁に目撃されることとなった。陸軍は、西武線の輸送能力だけでは、戸山ヶ原に展開したあまたのコンクリート建築の工事をまかない切れないと考えたとすれば、中央線から山手線へと通う省線の貨物線による建築資材輸送ルートも、並行して動員していたのかもしれない。
 そして、1928年(昭和3)の東洋一とうたわれた陸軍大久保射撃場Click!の完成を皮切りに、2年後の1929年(昭和4)には陸軍東京第一衛戍病院Click!が竣工し、つづいてさらに大規模な軍医学校Click!や戸山学校、幼年学校、科学学校、軍楽学校、科学研究所などが竣工し・・・と、山手線をはさんだ広大な戸山ヶ原には、次々と大規模なコンクリート建造物が増えていくことになる。では、陸軍の鉄道連隊による西武線の線路敷設演習とは、実際にはどのようなものだったのだろうか? 次回の記事では、当時の陸軍記録からその様子を具体的に見ていきたい。

◆写真上:山手線のガードをくぐり最終カーブにかかる西武新宿線で、前方は下落合の目白崖線。
◆写真中上:左は、陸軍戸山学校にあった鍛錬用の人工岸壁で巨大なコンクリート塊で造られている。戦後はロッククライミングのトレーニング場として、1972年(昭和47)まで使用された。右は、大久保射撃場の跡地に建つ西戸山中学校で、新宿区立中央図書館の移転予定地だ。
◆写真中下:上左は、1940年(昭和15)の東村山駅で当時も貨物輸送の一大ターミナルとして機能していた。(野田論文より) 上右は、1927年(昭和2)に完成した直後の村山貯水池(絵葉書)。下左は、1912年(明治45)ごろに制作された野田半三『神田上水』で、遠景に描かれているのは目白崖線。下右は、その子息の法政大学教授で鉄道史研究で高名だった野田正穂。
◆写真下:1927年(昭和2)の鉄道地図に描かれた、射撃場付近の陸軍専用引き込み線。この引き込み線は山手貨物線用だが、右上へすでに描かれている西武線に注目したい。西武鉄道は陸軍用地の地下へ延々とトンネルを掘り、東京市営地下鉄と結ぶ地下鉄「西武線」を計画していた。大久保射撃場のコンクリート建造物(射撃隧道)は、工事中でいまだ描かれていない。