池袋1021番地(一時期は1024番地で仮寓)に住んだ、童画家であり童話作家の武井武雄Click!は、太平洋戦争がはじまると『戦中気侭(きまま)画帳』(筑摩書房)という絵日記を残している。その中には、きわめて貴重な目撃情報が絵入りで記録されており、1944年(昭和19)秋から翌1945年(昭和20)の2月にかけ、米軍はB29からさまざまな発火兵器を投下して、東京の住宅街を効率的に焼き払う「燃焼実験」を、繰り返し行っていた事実がわかる。
 武井は、少数機のB29がやってきて、密集した住宅街へ散発的に焼夷弾などを落としていく爆撃を「ゲリラ」空襲と表現している。当時は、上空の敵機を照らす探照灯(サーチライト)も多くが機能していて、夜空に照らされる銀色に輝くB29と、投下される焼夷弾を「花火のよう」で美しいと感じていたようだ。焼夷弾の雨が「仕掛花火」のようだったとは、東京大空襲Click!と山手空襲Click!の双方を経験した、わたしの親父の感想でもある。この時期に投下された発火兵器は、のちに下町を焼き払うM69ナパーム焼夷弾Click!とは異なっていたようだ。焼夷弾のひとつひとつが、かなり大きな火球となって落下しており、上空で非常に細かく分散してバラまかれるのちのナパーム焼夷弾とは、明らかに形状が異なっている。これらの焼夷弾は、投下数が少ないことにもよるのだろうが、着弾して火災が起きても比較的短時間で消しとめられている。
 武井武雄は当時、児童文学や童画を描く仕事をしていた経緯から、疎開した学童たちの慰問をしに関東各地をまわっていた。でも、1944年(昭和19)も押し詰まってくると、サイパン島から飛来するB29による空襲Click!が本格化し、疎開児童の慰問にも出かけられなくなってしまった。そこで、男手が少なくなってしまった池袋町内の、隣組防空第32群の防空班長を引き受けることになった。防空役員の仕事は、空襲警報の発令とともに敵機の動きをラジオで把握しつつ、町民たちを防空壕へと退避させたり、敵機が投下した焼夷弾で町内に火災が起きれば消火活動を指揮したりと、空襲の間じゅう常に街の周囲を監視していなければならない。だからこそ、武井は空襲の様子を細かく観察でき、画帳へ記録することができたのだ。
 余談だけれど、以前の記事に東日本橋の防空役員で、実際に空襲がはじまると同時に「退避~っ!」と、自分が真っ先に防空壕へ飛びこんでしまい、あとで町民たちからさんざん吊るし上げをくった人物の話Click!をご紹介したけれど、これでは防空役員の意味がないのだ。その点、武井は空襲の間じゅう防空壕へは退避せず、2階のベランダなどからB29の動きを細かく観察しつづけており、かなりマジメに防空役員をつとめていたことになる。
 
 
 B29からは焼夷弾以外にも、発火した紙状のものを住宅地へビラのようにバラまく作戦や、大型の火炎放射器と思われる火柱状の「火の小便」(武井表現)を地上に向けて発射したり、上空からガソリンをまいて火をつけたりと、米軍は東京の街々を全滅させるために、さまざまな燃焼実験を繰り返していた様子がうかがえる。これら実験の集大成が、M69ナパーム焼夷弾とガソリン散布による、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!だった。
 画帳の中には、興味深い記述もある。池袋上空で、日本の迎撃戦闘機がB29に体当たりをして、双方が墜落するシーンを目撃していることだ。1945年(昭和20)1月9日の白昼、午後1時30分すぎぐらいの戦闘でのこと。以前、このサイトでご紹介した「迎撃戦闘機が椎名町に墜ちてきた」Click!で、椎名町6丁目(現・南長崎)の「仲の湯」釜場へ墜落した戦闘機は、同年5月25日夜半の山手空襲ではなく、この空襲時のものだった可能性もある。
 武井武雄の自宅兼アトリエは、建物疎開Click!計画にその一部がひっかかって建物の半分が壊されることになってしまった。池袋の同地域における建物疎開は、1945年(昭和20)の3月に具体化しているので、目白通り沿いの下落合や練馬街道沿いの建物疎開よりも数ヶ月ほど遅かったとみられる。同年4月2日、武井一家は上野駅から実家のある信州の岡谷へと疎開している。したがって、鉄道や河川沿いが目標となり、池袋駅とその周辺が焼き払われた4月13日の第1次山手空襲、長崎全域が絨毯爆撃された第2次山手空襲には、幸いにも遭わずに済んでいる。
 1945年(昭和20)4月13日の池袋駅を中心とする空襲では、武井の自宅とともに大切にしていたピアノやギター、ヴァイオリン、アコーディオン、マンドリンなどの楽器が全焼している。戦後に描かれた『戦後気侭画帳』には、「玉砕楽器招魂之会」として紹介されているのだが、武井は1918年(大正7)から池袋1021番地にアトリエを建てて住んでいるので、これらの楽器を持ち寄り、里見勝蔵Click!や佐伯祐三Click!たちが催していた「池袋シンフォニー」Click!にも参加していたのではないか?
 
 
 長野に疎開して、再びヒマになってしまった武井武雄は、県内に疎開してきた学童の慰問活動を、児童文学の仲間とともに再開している。そこで遭遇した、池袋第五小学校の児童たちが疎開した須坂の国民学校へ寄ったときのこと、沈着で冷静な武井にしては、めずらしく激昂している。
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 午後ハ小山の国民学校 池袋第五の生徒との事にて我子に逢ふ様な気持で臨んだのに児童生色なく全く笑はず気味悪き程なり 須坂増屋に泊る 池五の学寮なり 蚊帳は軍に召上げられたとの事にて専ら蓬で部屋をいぶす 児童は穢い部屋に押し込め先生ハ離れの高殿に大名然とおさまる 生徒と食事を共にせざる先生の寮は他に類例なし、試みに女教師に訊ねてみたら席が狭いからしないがその内に寮母に一緒に食べさせるつもりだとの事 あきれたもの也 夜ハスイトンを出す、これも他に例なし その上我等の寝室の隣りにて夜おそくまで女教員等とワイワイ騒いでゐて眠れず避暑地気分全く唖然たり 生徒の生活と全く遊離してゐる (1945年7月22日)
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 戦争末期には、教師たちも自暴自棄となっていたものか、子どもたちの面倒をあまりみなくなっていた様子が記録されている。教師たちの名前こそ記していないが、池袋第五小学校と明記しているので、学童疎開先を多く慰問してまわっていた武井には、よほど異様な光景に映ったのだろう。
 
 
 武井武雄の『戦中気侭画帳』は、天皇によるポツダム宣言受諾のラジオ放送から5日後、1945年(昭和20)8月20日の日付けで終わっている。画帳最後のページには、これからの「日本を背負ふもの」として、女の子と思われる赤ん坊の寝顔が大きく描かれている。

◆写真上:1944年(昭和19)12月20日の空襲を描いた、武井武雄『戦中気侭画帳』。
◆写真中上:上左は、池袋1021番地の自宅でくつろぐ1924年(大正13)の武井一家。上右は、1926年(昭和元)に発行された「西巣鴨町事情明細図」にみる池袋1021番地の武井アトリエ。下左は、1944年(昭和19)12月30日の焼夷カードによるバラまき空襲実験。下右は、1945年(昭和20)1月1日の「火の小便」空襲で、おそらく空中からの火炎放射器実験だと思われる。
◆写真中下:上左は、1945年(昭和20)1月9日の迎撃戦闘機によるB29への体当たり。上右は、武井が描く墜落したB29の姿だが、いまだ同機の姿を正確に把握しておらずB17のように描いている。下は、同年3月9日夜半の東京大空襲で下町方面の大火炎を望む。
◆写真下:上左は、豊島区立仰高小学校の学童疎開の様子。同校では、教師が生徒といっしょに食事をしていたようだ。上右は、池袋駅近くの退避壕から遺体を掘り出す警防団で、おそらく1945年(昭和20)4月13日の空襲時だと思われる。下左は、同空襲で灰になってしまった武井武雄の楽器類。下右は、『戦中気侭画帳』の最終ページに描かれた赤ん坊。