この記事も、東日本大震災の直前に「劉生日記にみる関東大震災の予兆」Click!と同じく、「目白にあった八甲田の雪中行軍写真」Click!とシンクロして学習院大学に残る明治期の写真資料を調べながら仕上げていたものです。文章にはあえて手を入れず、そのまま掲載します。
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 池田米子(佐伯米子Click!)の実家があった新橋双葉町4番地の向かい、土橋の北詰めにレンガの灯台のような独特の塔を備えた店舗を開店していた、新橋丸屋町3番地の江木写真館Click!については、佐伯祐三Click!のスケッチとともにご紹介している。岸田劉生Click!も常連であり、家族写真を定期的に撮影するために、わざわざ藤沢・鵠沼から江木写真館を訪問Click!していたのだが、同写真館が明治時代に撮影した仕事を多数発見した。1891年(明治24)に撮影された、それらの貴重な連続写真は、近くの学習院大学の図書館(史料館)に保存されている。
 29枚の写真の裏面には、「早取本店江木商店ゴム印判製造」のシールが貼られ、「福山館★本店東京神田淡路町二丁目四番地★支店東京新橋丸屋町三番地★」の所在地が記載されている。また、写真の1枚には「東京神田淡路町二丁目江木松四郎」の、円形ゴム印が押されたものも現存している。これらの記録をつなげて推測すると、1891年(明治24)現在の経営者は江木松四郎という人で、神田淡路町2丁目でゴム印製造「江木商店(福山館)」の本店を経営しており、土橋北詰めの丸屋町にあった店舗は支店だったことがわかる。
 また、同年にはすでに写真撮影の仕事も請け負っているので、当初からゴム印判製造と写真撮影とを兼業していた店だったようだ。ひょっとすると、神田淡路町の江木商店本店ではゴム印判製造を、新橋丸屋町の支店ではスタジオを備えた写真館を経営しており、江木松四郎という人物の子弟あるいは姻戚が写真師(カメラマン)だった可能性が高い。そして、おそらく佐伯米子が記念写真を撮りに出かけたであろう、あるいは岸田劉生が家族を連れてよく利用した大正中期には、神田淡路町の本店から完全に独立して店をかまえ、看板も「江木写真館」として銀座西8丁目(旧・丸屋町)でそのまま営業をつづけていたのだろう。
 
 
 
 1891年(明治24)という年は、関東地方に住んでいるわたしにとってはあまりピンとこないが、中部地方の岐阜や愛知にお住まいの人たちにとっては忘れられない記憶として、いまに語り継がれているのだろう。日本の巨大地震のひとつ、いわゆる「濃尾大地震」が起きた年だからだ。同年10月28日午前6時38分ごろ、岐阜県本巣郡根尾村付近を震源地として、マグニチュード8.0以上の直下型大地震が発生した。活断層の大規模なズレによるもので、本巣郡根尾村の谷では大断層(現在は断層自体が特別天然記念物に指定されている)が出現し、谷の西側が約6mも隆起して南南東に約4mも移動するという、ケタ外れの巨大地震だった。
 その破壊力は、関東大震災Click!や阪神淡路大震災をしのぐといわれ、日本では最大クラスの地震だ。大地震の揺れは、北は東北地方の北端から九州南部にまでおよび、人口が密集した地域でないにもかかわらず死者7,273人、負傷者1万7,175人、被害家屋22万2,501戸という未曾有の大惨事となった。人口密集地の都市ではないのに、死傷者の比率が異様に高いことから、屋外へ逃げる余裕もなく一瞬で家屋を倒壊させる、猛烈な破壊力を想定することができる。
 大地震から約1ヵ月後の同年12月に、貴族院から政府に対して大地震の予知や被害防止について研究する「地震取調局」の設置案が提出され、翌1892年(明治25)6月27日には「震災予防調査会」が発足している。この調査会は、世界初の地震に対する本格的な研究機関だといわれており、日本の地震研究がいまでもトップクラスを走るきっかけとなった組織だ。
 
 
 江木商店写真部(いまだ専門の写真館として独立していない時期なので「写真部」と表現)は、おそらく濃尾大地震の発生直後に貴族院か、または帝大の地震研究者から依頼を受け、現地へロケーションに入っているものと思われる。江木商店写真部と同様に、地元の名古屋では同じく写真館を開業していたと思われる「尾張名古屋大須公園入口早取写真師中村牧陽」も、震災直後から惨状を撮影しつづけており、そのうちの16枚が学習院に保存されている。つまり、学習院にかかわりの深い貴族院で、「震災予防調査会」の設置を政府へ働きかけた人物(華族)が、のちにこれらの写真資料を学習院へ寄贈したのではないかと思われるのだ。
 東京の江木商店写真部と、名古屋の中村牧陽写真館とでは、それぞれ写真の撮り方がまったく異なっている。地元の中村牧陽写真は、まるで“震災絵葉書”のような安定した構図と被写角とで被災風景をとらえており、おそらく地元ならではの土地勘にもとづき撮影位置を入念に選定しながら、しっかり三脚をすえて撮影していると思われる。ところが、江木商店写真はスナップ風の撮影が多く、多少のピンボケやブレなども見られ、被災地の情景をリアルでドキュメント風にとらえている。こちらは、手持ちのカメラで撮影しているのかもしれない。
 中村牧陽写真が、少し離れた位置から“引き”で鳥瞰的に撮影されているのに対し、江木商店写真のほうは被災現場の中へ入りこんだ“寄り”のものが多い。ひょっとすると、この写真館2店は同じ人物から被災地の撮影をほぼ同時に依頼され、あえて事前に撮影意図を変えて差別化しつつ、お互いが撮影法を“役割分担”していたのかもしれない。
 

 江木商店写真の紙焼きを詳細に観察すると、「濃尾大地震」のすさまじい破壊力がリアルに伝わってくる。大きな地割れが随所に見られ、朝食の時間帯と重なったせいか火災もあちこちで起きていた。全壊家屋の前で撮影しているとき、生き残った子供たちがやってきて、カメラの前でくったくのない笑みを浮かべている情景にホッとするのだが、現在の都市化が進んだ岐阜・愛知地域で、同様の巨大地震が発生した場合の情景を想像するとゾッとする。

◆写真上:新橋駅の近く、旧・丸屋町3番地(旧・銀座西8丁目)の江木写真館跡。
◆写真中上:江木商店写真部が撮影した罹災地で、地名の字がわからずカタカナや当て字が多い。上左は「ナコヤ清水町」(名古屋市北区清水)、上右は「長間村」(岐阜県羽島市上中町長間)。中左は「一ノ宮」、中右は名古屋市街。下左は「ナコヤシミズ町」、下右は「キヨス」(清洲)。
◆写真中下:上左は「キタガタ」(北方村)、上右は「玉ノ井村」(一宮市木曽川町玉ノ井)。下左は「名古屋根木町」(「禰宜町」=名古屋市中村区)、下右は「竹ケ鼻 大垣ヨリ」(羽島市竹鼻町)。
◆写真下:上左は「キフ入口」(岐阜入口)、上右は「キヨス」。下は、地元名古屋の大須公園入口に開店していた中村牧陽写真館により、1891年(明治24)の震災直後に撮影された名古屋城。あちこちで白壁や屋根が崩れ、城郭全体が大破している。