だいぶ前に、佐々木邦が1926年(大正15)に書いた『文化村の喜劇』Click!(講談社)についてご紹介したことがあった。その中で、東京郊外(当時)の「文化村」へ物件を下見にきた人たちが、豪雨とClick!の大嵐に遭遇してしまい、東京市街のわが家を心配するシーンが描かれている。ふだんは、駅から「近い」し東京市街へ出るのも「便利」だと、郊外へ引っ越してくるようしつこく奨めていた文化村の住民が、ひどい嵐を心配するお客たちへ「東京は大丈夫でございますわ。遠いんですもの」と、つい慰めてしまう場面には思わず笑ってしまった。東京の中心部(当時)と、山手線が走る外周部とでは、どれだけ天気が違うのかがきょうのテーマだ。
 いまでも、不思議な天気に出遭うことがある。飯田橋は大雨が降っているのに下落合は降っていない、あるいはその逆というケースを何度も経験している。渋谷が雨で、下落合は曇りという天気も同様だ。つい先の冬にも、港区は雪が降っているのに、下落合は薄陽が射していたということもあった。江戸東京は面積的に広いから・・・といってしまえばそれまでなのだが、これらのちがいは別に現地から現地へと移動しながら体験しているのではなく、リアルタイムで同時に、つまり相手のいる電話やIMなどで話している最中に経験していることだ。
 明治末から大正期の東京郊外、いまでいうところの山手線の池袋、新宿、渋谷、目黒各駅の内外に住宅街が形成されはじめたころ、当時の東京市の中心部とこれら郊外の地域とでは、かなり天候のちがいがあったのではないか?・・・と、かなり前から興味を抱いていた。その具体的な比較検証が、岸田劉生Click!の日記を読んでいて可能なことに気がついたのだ。このところ、劉生の日記を明治末から昭和の初めにかけて通読している。彼は、下町の銀座Click!生まれだが、明治末に家を出て独立し、小石川音羽町7丁目14番地へ下宿している。そして、1913年(大正2)10月16日から代々木117番地、次いで1915年(大正4)4月に代々木北山谷129番地、さらに1916年(大正5)7月に駒沢村新町へと引っ越している。すなわち、1913年(大正2)の秋以降、東京郊外(現在の渋谷区代々木や世田谷区駒沢界隈)で転居を繰り返していた。
 
 劉生が日記をスタートするのは1907年(明治40)2月1日(金)<晴>なのだが、当初は毎日ではなく飛びとびに書いていたり、半年Click!や1年間まったく筆をとらなかったりすることが多かった。彼がほぼ毎日、日記を几帳面に書きはじめるのは、1917年(大正6)2月に神奈川県の藤沢・鵠沼(くげぬま)へ引っ越してから数年ののち、1920年(大正9)1月1日(木)<晴>からだ。劉生が、代々木あるいは駒沢で暮らしていたときに日記へ記載した天気と、東京市永田町の参謀本部Click!近く中央気象台(現・気象庁)が記録した天候とをつき合わせれば、当時は一括して「東京の天気」とされていた「公式」記録だが、市内と市外の気象のちがいを探れるのではないかと考えた。
 1913年(大正2)の代々木117番地から、1917年(大正6)2月に鵠沼へと転居するまでの4年間、劉生は日記を熱心に書いてはいない。ときどき思い出したように連続して書きつづけるのだが、そのうち飽きてしまうのか、何ヶ月も放りっぱなしの状態だったようだ。この間、もっとも連続して日記が書かれ、なおかつ天気の記載も多くあるのが1916年(大正5)の4月、つまり代々木北山谷129番地に住んでいたときの日記だ。以下、劉生の日記と気象台の記録とを照合してみよう。

 こうして比較してみると、市街地の永田町と郊外の代々木とでは、微妙に天気がちがっているのがわかる。特に、4月9日は郊外が曇っているのに対し市街は快晴、翌10日は郊外が曇りなのに対して市街では雨が降っている。また、もっとも大きく異なるのは4月11日で、郊外では晴れているのに市街では小雨が降っていた。(赤文字の部分)
 以前から、佐伯祐三Click!や中村彝Click!が描く下落合の風景画にみる空模様と、東京中央気象台が記録している当日の天候との間で多少のズレを感じてきたのは、どうやら相対的に面積が広い東京の地域差によるものだと想定することができる。永田町では「快晴」のはずなのに、佐伯の『下落合風景』Click!では薄雲が多く描かれているのも、おそらく劉生日記の記録からうかがえる気象差と同様のものなのだろう。また、今日では同じ都内の微妙な気象差により、雨や夕立の降りやすい地域(特に雷雲の通過ルート)では、土壌の酸性度Click!や福島第1原発によるCi(セシウム137)の値が微妙に異なる・・・といった現象も見られるのかもしれない。
 劉生が湘南・鵠沼海岸へと引っ越したあと、1920年(大正9)からは毎日欠かさず日記へ天気を記載しているので、東京の市街地と湘南の海っぺりとではどれだけ天気が異なるのか、ついでに同じ4月の天気をピックアップして調べてみた。

 同じ関東南部なのに、東京市街と神奈川の海岸地域とでは天候に差があるのがわかる。東京に比べ、神奈川の南部は夏は涼しく冬は暖かい。エリアによっては、東京と4~5℃も気温差があるだろう。東京から横浜までが雪なのに、鎌倉や湘南は雨という天気を子供のころから何度も経験してきた。海辺で湿度が高いせいだろうか、天気が変わりやすいのも海辺の特徴だ。
 
 劉生は、療養のつもりで鵠沼に住むようになったのだが、湘南の水や風情は身体に合っただろうか? 津波が押し寄せ大仏Click!が傾いた大震災で、劉生の鵠沼生活Click!は終わりをつげる。

◆写真上:1916年(大正5)4月8日に、新宿・角筈で描かれた岸田劉生『早春』。青空がのぞく薄曇りだが、比較表のとおり当日の劉生は「晴れ」と記している。でも、雲が出ているので快晴(劉生の表現は「好晴」)とは呼べず、市街の東京気象台が記録した「快晴」とは微妙に異なっている。
◆写真中:左は、1923年(大正12)に撮影された霞ヶ関から大手町へ移転後の東京中央気象台(現・気象庁)。右は、東京中央気象台(永田町)から西北へ約6km離れた降雪後の下落合。
◆写真下:西ノ橋から上流を見た、晴れの日の妙正寺川(左)と雨もよいの同川(右)。曇りか小雨なのに急な増水がみられる場合は、妙正寺川の上流域で大雨が降っているのだろう。