佐伯祐三Click!の風景画に、1922年(大正11)ごろの作品とされる『秋の風景』が現存している。個人蔵の作品のため、画集などに載せられることが少ないけれど、2008年(平成20)に横浜のそごう美術館Click!で開かれた「没後80年・佐伯祐三展-鮮烈なる生涯-」には出品され、実物を目にすることができた。佐伯の表現の様子から、こちらでも何度かご紹介Click!している『目白自宅附近』Click!(1922年ごろ)と、ほぼ同時期の作品であることは間違いなさそうだ。
 佐伯は下落合661番地にアトリエClick!を建てたあと、自宅周辺の風景を写しに下落合を散策している。そのころのタブローとしては、少なくとも当作『秋の風景』と『目白自宅附近』、そして降雪後の斜面を描いた『雪景』Click!(1922年)の3作が現存している。各作品の制作時期を想像すると、樹木の葉が落ちきった『目白自宅附近』や『雪景』の冬景色より以前に、『秋の風景』は描かれているように思われる。このとき、下落合のあちこちを散策して風景モチーフを求め歩いた経験が、のちに連作「下落合風景」Click!の下地として活かされているようにも感じる。目白崖線沿いに展開する地形の全的な把握とともに、下落合をスケッチClick!しながら「下見」したこの時期、周辺の風情も含め佐伯の頭の中へ、「下落合」がインプットされたのではないだろうか。
 さて、きょうのテーマは佐伯が『秋の風景』を仕上げた、下落合の描画ポイントを捜査してみようということなのだが、これがなかなか思ったよりもむずかしい。なぜなら、1926年(大正15)から1927年(昭和2)にかけて描かれた「下落合風景」は、当時の実景を憶えている方がいらしたり、わたしが70年代に見ていた実景(おもに戦災から焼け残った区画)と重なっていたり、さらには道筋や地形などから現在でもその面影を色濃く残している風景が多いのだけれど、関東大震災前の下落合、つまり大正中期から後期にかけての風景は、さすがに憶えておられる方もかなり少なく、また写真や記録資料もそれほど多くはないからだ。
 『秋の風景』の画面を観察すると、小川ないしは池に石造りとみられる小さな橋が架かり、両岸は河原や草地ではなく雑木林が拡がっている。中央に描かれた小橋は、明治末から大正期に造られた公園の池や小川などでよく見られるデザインであり、当サイトでは西武電車の1927年版「沿線案内」に掲載された、玉川上水に架かる同じような小橋の写真Click!をご紹介している。地形的にみると、小川の左岸が切り立った崖線の斜面のように見え、右岸は比較的やや平らな地面がつづいているようだ。左岸はよくわからないが、右岸には水辺沿いか橋へと通じる道が見えている。
 
 わたしは最初、渓谷に架かった小橋をイメージしたため、林泉園Click!から流れ下っていた谷戸の渓流かと想像した。しかし、それにしては右岸に描かれている道や地形が平坦すぎるのだ。この作品が制作されたのとほぼ同時期に、旧・近衛篤麿Click!の邸跡に東京土地住宅Click!による近衛町Click!の建設がスタートしている。その近衛町と御留山Click!の相馬邸Click!とを結ぶ古い時代の渓流橋かとも考えたのだが、地形的にどう見ても合致しない。林泉園から南へ下る谷戸Click!であれば、両岸が急斜面でV字状に切り立っていなければならず、『秋の風景』の風情とは合致しない。また、林泉園の渓流は早い時期から土管の中を流れるよう工事が行なわれており、このような地上に露出した部分は少なかったというお話も何度か耳にしている。
 では、落合地域を流れる河川に架かっていた橋梁はどうだろうか? まず、描かれた小川が神田上水(1960年代から神田川)の流れとは、ちょっと考えにくい。川の規模や流量が、神田上水にしてはあまりに小さすぎる。では、雨さえ降らなければ「小川」と呼ばれていた、下落合西部を流れる妙正寺川はどうだろう? 風情としては、大正期の妙正寺川によく合致しているのだけれど、このような小橋が架けられていた場所は存在するだろうか?
 大震災の前、妙正寺川に架けられていた橋は、今日のように多くはない。1922年(大正11)現在で確認できるのは、妙正寺川と神田上水が合流する直前に架けられた西橋(西ノ橋)Click!(現・下落合駅前の橋)、最勝寺の北東側に位置する寺斉橋Click!(現・中井駅前の橋)、現・三ノ坂下にある島津家Click!寄進と思われる無名橋、バッケ堰の上に板をわたしただけのバッケ橋Click!、そして御霊下の近くに水車小屋があった水車橋Click!の5橋だけだ。しかし、いずれも橋の形状、または周辺の地形や風情が一致しない。妙正寺川沿いは、比較的両岸とも平坦で見とおしがきき、当時は氾濫するエリアは原っぱ、それ以外は田畑が拡がっていたはずだ。地図を見ても、これらの橋の両岸に樹林が繁る記号は存在せず、川沿いギリギリまで草原か田畑のいずれかになっている。それに、なによりもこれら5橋は木橋であり、石造りの橋として地図には採取されていない。
 では、当初想定していたような公園、あるいはどこか風致地区などにみられる庭園や遊園地などの小流れ、ないしは池はどうだろう? 落合地域には、それに類する場所が大正中期に何箇所か存在しているけれど、草地や田畑ではなく、このような雑木林に囲まれるような谷あいに、池ないしは渓流のある箇所はそう多くない。わたしが想定できるのは、とりあえず2つのポイントだけだ。ひとつは、先にも登場した林泉園(明治期には落合遊園地Click!)の湧水源、東西に細長い池に架かる橋のひとつであり、もうひとつが目白文化村Click!の第一文化村が開発される前から、前谷戸(大正後期から「不動谷」Click!)の源流域にあった細長い弁天池に架かる小橋だ。

 
 林泉園Click!のほうは、若山牧水が記録しているように、おそらく早い時期から近衛家によって設置された遊園地(自然公園)だったと思われ、「落合遊園地」のプレートの存在が同家による意識的な庭園造りだったことをうかがわせている。当然、園内はあちこち庭園風の造作がなされていただろうし、池にわたす橋にも庭園を意識したデザインがほどこされていただろう。
 第一文化村の開発によって消えてしまう前谷戸Click!の、当時は細長い弁天池Click!に架かる小橋のほうはどうだろうか? こちらは、特に庭園ではないのだが、林泉園と同様に雑木林に囲まれた谷戸だったようだ。ただし、湧水源から南東へ150mほど下った渓流沿い、落合小学校Click!(現・落合第一小学校Click!)の前あたりは果樹園になっており、『秋の風景』のような風情ではなかっただろう。1923年(大正12)の早い時期に撮影されたとみられる、第一文化村から前谷戸にかけての「目白文化村絵葉書」Click!では、すでに箱根土地による大規模な宅地造成工事が進められたあとであり、弁天池の姿や谷戸に繁っていた雑木林の風情は大きく変貌していただろう。ただし、前谷戸の弁天池に架かっていた橋は石橋ではなく、木橋の記号で地図には採取されている。
 このように見てくると、『秋の風景』に描かれた情景は、古くは「落合遊園地」と呼ばれ、大正期には林泉園と呼ばれた池に架かる庭園橋のひとつを描いたのではないかと思えてくる。ちょうど、中村彝アトリエClick!のすぐ南あたりにあった、東西2橋のうちのどちらかだ。光線は左手から射しているので、画面左が南だとすれば、北側である右岸に小路が描かれているのも、当時の林泉園の様子と一致している。この場所は、東京美術学校へ入学したとき同級生だった二瓶等Click!アトリエにもほど近く、目白駅へ向かう佐伯には見なれていた風景のひとつだろう。
 でも、佐伯は下落合の目白駅寄り東部(現・下落合地域)を、のちの「下落合風景」シリーズではほとんど描いておらず、薬王院から西へ偏った風景モチーフの選び方をしている。それは、華族の豪華な屋敷や別荘が林立していた、下落合東部の風景が佐伯の気に入らなかったのか、別の理由によるものなのかはわからないけれど、1922年(大正11)当時から同じような風景に対する好みがあったとすれば、佐伯としては非常にめずらしい下落合東部の風景作品ということになる。
 
 あと1ヶ所、気になるポイントがある。西坂の徳川家Click!が、1921年(大正10)前後に青柳ヶ原Click!の南側低地に造った、南北に細長い池だ。この池は、大正末には場所をやや西へ移して消滅しているようなのだが、この細長い池にもやはり橋が架かっていたのかもしれない。どの庭園橋についても、あまりに古い話なので記憶されている方がおらず、あくまでも想定にすぎないのだが、『秋の風景』はいまのところ大正中期の林泉園を描いたもの・・・というのが、わたしの感触なのだ。

◆写真上:1922年(大正11)ごろに制作された、佐伯祐三『秋の風景』。
◆写真中上:左は、同時期に制作された佐伯祐三『(東京)目白自宅附近』。右は、大正期に建造された桜並木の玉川上水に架かる、コンクリート製と思われるアーチ橋。(1927年撮影)
◆写真中下:上は、1921年(大正10)現在の妙正寺川に架かる5橋。下左は、1932年(昭和7)ごろに撮影されたコンクリート橋の工事が完成した寺斉橋。下右は、1921年(大正10)現在の前谷戸で目白文化村の第一文化村はいまだ建設されていない。
◆写真下:左は、1921年(大正10)現在の林泉園。東西に細長い池には、二本の庭園橋が架かっていたことがわかる。右は、1935年(昭和10)ごろの林泉園。(提供:堀尾慶治様)