1936年(昭和11)2月26日に起きた、陸軍皇道派の「国体原理派」Click!による二二六事件Click!で、ときの岡田啓介Click!首相が下落合の佐々木久二邸Click!にかくまわれていたエピソードは、これまで何度か記事にしている。でも、首相官邸を秘書官・福田耕とともに佐々木久二の運転手付きクルマで脱出した岡田は、まっすぐ下落合へやってきたわけではない。きょうは、下落合へ逃げてくるまでの、岡田首相と福田秘書官の軌跡を追いかけてみよう。
 まず、モーニングを着こんで弔問客に化け、永田町2丁目3番地の首相官邸を脱出したとき、福田秘書官が玄関でクルマを呼ぶと、なぜか官邸へ弔問に訪れていた佐々木久二(政友会)のクルマがやってきた。これは、あらかじめ福田が手をまわしていたものか、「自動車!」と彼が叫ぶとすぐにクルマが走りより玄関に横づけしてしている。でも、このことはクルマの持ち主である佐々木久二自身はまったく知らされておらず、のちに官邸から帰ろうとして自分のクルマが運転手ごと消えていることに気づき愕然としている。佐々木は、岡田首相が生存していることも、また自分のクルマが官邸からの脱出用に使われたことも、まったく知らなかった。ましてや、あとで自宅に生きていた岡田首相が現れることになろうとは、想像だにしえなかったようだ。
 このときの切迫した状況を、『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社/1977年)から引用してみよう。
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 玄関口に出ると同時に、福田が「自動車!」と呼んだ。するといきなり目の前に走ってきて止まったのは、佐々木久二の車だ。この人は福井の出で、尾崎行雄の婿に当たる。そのときはだれの車なのか確かめようともしない。福田がしゃにむにわたしを押しこんで「すぐ行け」と運転手に命じた。走りだしてから、その車の持ち主がわかった次第で、あとで官邸からみんなが帰るだんになって車がなくなっていることに気がついて、これはどうしたことか、とあっけにとられたそうだが官邸を出るのと入れ違いに、迫水が宮内省からやって来て、とりつくろったらしい。
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 官邸をあとにしたクルマは、雪で滑りやすい坂道を永田町2丁目6番地にあった鉱山監督局(現・溜池山王駅5番出口前)から溜池通りへと出て、佐々木久二の運転手は福田秘書官の指示どおりにクルマを走らせている。ところが、福田があまり道路に詳しくなかったせいか、あるいはできるだけ「蹶起部隊」の占拠エリアから遠ざかろうと気が急いていたためなのか、クルマは「蹶起部隊」の拠点だった麻布の新龍土町(現・六本木7丁目)へと出てしまう。いうまでもなく、六本木は第一師団の麻布第一連隊と第三連隊の本拠地であり、クルマは新龍土町12番地の第三連隊兵営前へと出てしまった。あわてた福田は、乃木坂方面へクルマを走らせて北上し、赤坂郵便局を右折して赤坂3丁目へと入っていった。この間、岡田首相はしきりに「参内」して天皇へ詫びと報告をすると言い張るのだが、福田は危険なのでもう少し時間をおくようにと説得している。
 
 クルマは、ちょうど赤坂3丁目14番地の「蹶起部隊」によって惨殺された蔵相・高橋是清邸(現・高橋是清翁記念公園)前へとさしかかったため、岡田と福田は車内から邸を向いて合掌している。クルマは、そのまま神宮外苑へと走りつづけ、青山北町2丁目1番地の外苑入口(現・青山2丁目)へたどり着いたとき、ようやく「もう大丈夫」ということでクルマを停めてひと息ついている。淀橋区(現在の新宿区西部)の角筈1丁目(新宿駅東口近く)にあった岡田啓介の私邸はすぐそこだが、「蹶起部隊」の手がまわっていると危険なので近寄れない。
 岡田自身は、再び「参内する」と言い出したので、福田は「参内するとなれば、まず、からだを清めてから」にすべきだとなだめて、クルマを知り合いだった本郷の蓬莱町23番地(現・向丘2丁目)の真浄寺へと案内している。福田が結婚した当初、真浄寺の借家に住んでいたので、気心が知れた寺だったようだ。真浄寺で、ようやく岡田が食事と休息をとったのは、2月27日午後1時ごろ。事件が起きてから、すでに丸1日半が経過していた。
 そのころ、「蹶起部隊」が占拠している首相官邸へ弔問に出かけたところ、クルマが運転手ごとどこかへ消えてしまった佐々木久二Click!は、カンカンに怒っていた。迫水の「とりつくろい」に納得しなかったのは、首相救出のことはいっさい表に出さず、別のもっともらしい理由(ウソ)を聞かされたからだろう。おそらく、官邸からかなり歩き「蹶起部隊」の占拠エリアを抜けてから、ようやく円タクをひろって下落合へ帰り着いていると思われる。運転手が自分をおいて、なんの断りもなく勝手にどこかへ行ってしまったと思っていたのだから、「あいつは~、クビだ!」と言っていたかもしれない。具合が悪くなった弔問客のふりをした岡田首相を抱え、福田秘書官が手を上げて「自動車!」と叫んだとき、なぜ佐々木久二の運転手はとっさに“反応”したのだろうか? 呼ばれたときの条件反射のようにも思えるけれど、あらかじめ誰かから因果を含められていた・・・と考えるほうが自然だろう。
 
 

 岡田首相と福田秘書官、それに運転手は夕方まで真浄寺で休息し、再びクルマで本郷通りから白山通り(現・旧白山通り)を経て、おそらく不忍通りへと入り、そのまま西へクルマを走らせたと思われる。不忍通りから、目白台あたりで目白通りへと合流し学習院前から目白駅Click!前、目白福音教会Click!前を通過して、さらに西へ走りつづける。やがて、できて間もない補助45号線(聖母坂)を左折した。大雪ですべりやすい聖母坂を、国際聖母病院Click!を右に見てノロノロ下ってくると、やがて鎌倉街道のひとつである雑司ヶ谷道Click!へとさしかかった。西坂の徳川邸Click!のバッケClick!下をクルマはゆっくりと右折し、途中からやや下り坂になった道筋を抜けると、ようやく下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸の門前へとたどり着いた。夕方になって気温が下がり、クルマのマフラーからは雪道へ白い水蒸気がもうもうと出ていただろう。
 このとき、クルマが邸内へもどる音を聞きつけたのか、佐々木久二が怒って出てきたようだ。玄関先で運転手に向かって、「おまえは~、クビだ!」と言ったかどうかはわからないが、クルマから岡田首相が降りてきたのを見て、にわかに茫然となった。首相の幽霊を見たのかと思い、ギョッとしたようだ。同じようなことは、岡田が翌日「参内」した際に「宮中」でも起きている。廊下を歩いてくる岡田を見た「舎人」たちは、おびえて逃げ散っていった。では、再び岡田啓介の証言を聞いてみよう。
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 その寺にいたのは夕方までだ。車を止めたままにしておくと、人に不審を起こさせるおそれがあるといって、わたしはまた福田に案内されて自動車に乗り、こんどは車の持ち主である淀橋区下落合の佐々木さんの家へいった。車が官邸で行方不明になっておこっていた佐々木さんは、車といっしょに死んだと思っていたわたしが姿を現したのでびっくりしていたが、参内までのわたしの滞在を快く引き受けてくれた。
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 岡田首相は、翌2月28日の午後まで佐々木邸ですごすことになるのだが、外へ出て目の前にそそり立つ目白崖線の坂道を上れば、同じ淀橋区で自邸のある角筈1丁目が新宿御苑とともに見わたせただろう。この間、彼は佐々木邸から各所へ連絡をとりながら、情報収集を行なって状況を見きわめつつ、一方ではすぐにも天皇のもとへ「参内」したくてジリジリしていたのだろう。
 
 
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 要するに、みんな常識人なんだから、その常識がわたしの足がかりなんだ。いくら激している人間にも常識的な一面はあるんだからね。そこを相手にする。狂人だったら別だ。ただ逃げる、これがわたしの兵法だ。
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 のちに岡田は、欧米諸国を相手に戦争をはじめてしまった東條英機Click!内閣の打倒を画策し、後輩の米内光政Click!らとともに戦争を終結させる工作を本格化させている。戦争では「逃げる兵法」を使えない岡田は、どこかで「負けるが勝ち」だと敗戦間際に考えていたのかもしれない。でも、「ただ鈴木や米内たちの努力で終戦を見たときは、国土は見るかげもなくこわされていた」のだった。

◆写真上:現在は新目白通りの下になってしまった、佐々木久二邸の門前へと下る坂道。
◆写真中上:左は、1934年(昭和9)に誕生し軍縮を推進した岡田内閣。前列中央が蔵相・高橋是清で、その左が岡田啓介。右は、1936年(昭和11)に起きた二二六事件の山王ホテル前。
◆写真中下:上左は、二二六事件が起きた1936年(昭和11)の空中写真(真フカン)にみる佐々木久二邸。上右は、1941年(昭和16)の空中写真(斜めフカン)にみる同邸。中左は、戦後に撮影された晩年の岡田啓介。中右は、昭和初期に撮影された佐々木久二邸の母屋。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる岡田首相の下落合避難ルート。
◆写真下:雪ではなく雨の聖母坂(上左)から、雑司ヶ谷道(新井薬師道)を右折すると西坂と雑司ヶ谷道の分岐(上右)に出る。雑司ヶ谷道をそのまままっすぐ進むと(下左)、下り坂を経て佐々木久二邸の門前へと着く(下右)。佐々木邸は、1930年協会の外山卯三郎Click!の実家隣り。