美術史の分野では「学芸員の父」とも呼ばれる森田亀之助Click!だが、下落合が気に入っていたのか、ずいぶん早くから同地に住んでいる。(城)下町Click!は京橋生まれの森田は、戦時中も疎開せずに下落合にいて、1945年(昭和20)5月25日夜半の山手空襲Click!で罹災している。佐伯祐三Click!の「森たさんのトナリ」Click!として知られる、下落合630番地へ転居する以前、森田は1922年(大正11)ごろまでは、下落合丸山323番地に住んでいた。
 下落合323番地は、ちょうど相馬邸Click!のすぐ西側、現在の地理でいうと落合第四小学校Click!と落合中学校にはさまれた地番ということになる。通称「権兵衛山(大倉山)」Click!と呼ばれる尾根筋の一画で、ちょうど2005年に店じまいをしてしまった文具店「はとや」さんClick!のあたりだ。当時は、落四小も落中も存在せず、広大な相馬子爵邸の西側に拡がる森の中に森田宅は建っていたことになる。のちに、「森たさんのトナリ」の同じ下落合630番地Click!に引っ越してくる里見勝蔵Click!が、1920年(大正9)に描いた『下落合風景』Click!のような風情だったろう。
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、ちょうど下落合323番地のあたりにテニスコートが造られている。ひょっとすると、大倉財閥の地所だったと思われる同地にテニスコートを造成するため、森田宅は解体されることになり立ち退きを迫られたのかもしれない。その直後から、北西へ500mほど離れた下落合630番地へと転居している。森田が下落合へ住むようになったのは中村彝と同じころ、かなり早い時期の可能性がある。
 
 森田亀之助は、1906年(明治39)に東京美術学校の西洋画科(本科)を卒業している。1903年(明治36)11月に行なわれた、東京美術学校設立15周年を記念する「美術祭」では、鉛管の着ぐるみ姿で「鉛管踊り」Click!を披露する森田のひょうきんな姿を、以前、ものたがひさんClick!がサイトでわざわざご紹介くださった。下町育ちの森田なので、かなり軽妙洒脱な性格の側面もあったのだろう。美校在学中は、特に西洋美術史と英語を学んだようで、卒業直後から同校の助手として英語の授業を受けもっている。1915年(大正4)からは、英語のほか美術史の担当教諭となり、1917年(大正6)には助教授に就任している。したがって、この時期に在学していたたいがいの学生たちは、英語または美術史を森田から教授されていることになる。佐伯祐三が森田と親しかったのは、語学ないしはは美術史の担任教諭だったからだと思われる。
 森田が美校を卒業し、助手として英語の教諭をしていたころ、1909年(明治42)にイギリスからバーナード・リーチが再来日する。武者小路実篤Click!や岸田劉生Click!、志賀直哉Click!など雑誌「白樺」の同人たちと親しく交流したリーチだが、当初は日本語が不自由で通訳を必要とした。そのとき、高村光雲Click!が通訳としてリーチに紹介したのが、美校の森田亀之助だった。リーチが日本語に馴れるまで、森田とともにどのような生活をし、またどのような活動をしていたのか、おそらく森田側とリーチ側双方の著作の中に登場しているのだろうが、わたしは不勉強で知らない。
 
 森田が中村彝Click!と知り合ったのは、自身の記憶によれば1923年(大正12)に死去した柳敬助Click!の紹介によるもので、おそらく明治末か大正初期のころと思われる。1922年(大正11)に下落合634番地へ転居後、目白駅へと向かう道のちょうど途中に中村彝アトリエが建っていたので、森田は美術書を中心に彝へ本をたびたび貸していたようだ。1925年(大正14)1月発行の『木星』Click!(第二巻第二号)に掲載された「中村彝君を想ふ」にも、彝へ貸していた本のことが出てくる。
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 (前略) 併し其後、近所に居ながら、かへつて近所だけにいつでも行けると思つて、長いことご無沙汰になつて居たが、近年又、落合倶楽部のことだの、柳君の追悼展覧会のことだので、一二辺中村君を訪ね、又昨年中は、福田君や鈴木君を通じて私の持つてゐる本を観たいといふ話だつたので、其本を持つて行つて喜ばれたことがあつた。其時でも言伝てがあつて直ぐ持つて行けばよかつたのを、特に出懸けなくつてもドーセ外出の往き帰りには中村君の家の側を通るから序に届ければよいと、気易く考へて居た為、いつも家を出る時に、却つて忘れてしまい、中村君の家の側を通ると、サテシマツタ忘れたと気の付くことを繰返したのであつたが、今になると、早く持つて行つてあげればよかつたと、甚だすまなく思ふ。今日の自分の心持ちでは、あれは書物を縁にして、永の別れに私を呼ばれたのではないかといふ風に感じられる。
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 彝が死去した翌年の1925年(大正14)、森田は東京美術学校から欧州留学を命じられて渡欧、1927年(昭和2)に帰国している。その間、ヨーロッパでは佐伯祐三をはじめ滞欧中の教え子たちといっしょに行動しているのは、以前にもこちらでご紹介した。1929年(昭和4)に同校の教授に就任し、のち1941年(昭和16)には下落合の画家たち4人を集めて「湶晨会(せんしんかい)」Click!を結成。日本橋高島屋で、翌1942年(昭和17)まで展覧会を企画・開催している。
 
 その後、1944年(昭和19)に美校の教授を退職したのち、同年からは板橋にあった澤藤電機の教育顧問として再就職している。でも、山手空襲で下落合の自宅にあった作品や蔵書類がすべて灰になってしまったため、東京にイヤ気がさしたものか、戦後の1946年(昭和21)から金沢の美術工芸専門学校の初代校長として、北陸へ移り住むことになった。現在の金沢美術工芸大学のことだ。

◆写真上:落合第四小学校と落合中学校に接した、下落合323番地の現状。
◆写真中上:左は、1918年(大正7)作成の早稲田1/10,000地形図にみる下落合323番地。ちょうど家が1軒描きこまれているので、これが森田邸の可能性が高い。右は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」で、すでにテニスコートが完成している。
◆写真中下:左は、1913年(大正2)に制作された岸田劉生『B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)』。右は、1948年(昭和23)に制作された竹沢基『森田亀之助像』。
◆写真下:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合323番地界隈。右は、空襲直前の1944年(昭和19)に撮影された下落合630番地の森田亀之助邸。