先日、学習院馬場Click!へおじゃましたとき、近くの戸山ヶ原Click!に近衛師団の騎兵連隊Click!が駐屯している関係から、戦時中、学習院馬術部から軍馬の供出(徴用)が行なわれているのではないかと想像し、居合わせた方へお訊ねしてみたのだが、古い話なので当時の様子はご存じではなかった。改めて、同馬術部の歴史を詳しくひもといてみると、はたして敗戦間際の1945年(昭和20)に、2頭の馬が徴用されていることがわかった。
 学習院から馬を徴用したのは、陸軍ではなく海軍砲術学校の陸戦隊だった。2頭は、1945年(昭和20)7月28日に徴用されているので、おそらく本土決戦に備えた砲台建設のためと推測されている。敗戦を迎える、わずか18日前の出来事だ。以下、当時の記録を2000年(平成12)12月に出版された、『学習院馬術百二十年史』(学習院馬術百二十年史編集委員会)から引用してみよう。
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 「朝雪号」(昭和四年生まれ)と「雲雪号」(昭和十一年生まれ)は、終戦直前の昭和二十年七月二十八日付けで海軍砲術学校陸戦部隊に貸出されている。当時の馬匹不足(本土決戦に伴う砲台建設等)に対する補充と思われるが、古馬の朝雪号が選ばれたのは、司令官用に芦毛で性格がおとなしい馬を求められたためとも推測される。なお、この二頭は終戦直後の昭和二十年八月二十七日に帰院している。 (同書「動員された馬」より)
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 朝雪号は、馬匹一覧によれば1937年(昭和12)に学習院へ入厩しているアラブ種の小型馬だが、書かれているように1929年(昭和4)生れの「古馬」なので、敗戦時にはすでに16歳になっていた。また、雲雪号もアラブ種の小型で、こちらは前年の1944年(昭和19)に学習院へやってきたばかりの馬だった。どちらも、食糧さえ満足にない真夏の使役はさぞ辛かっただろう。
 学習院馬術部では、1941年(昭和16)12月に太平洋戦争がはじまってから、馬の食糧不足や学徒動員による部員の減少などにより、通常なら厩舎に15~16頭はいた馬が、4年後の1945年(昭和20)8月15日はわずか4頭にまで激減していた。厩舎にかろうじて残っていたのは、雲霧号と筑波号、家月号、伯井号の4頭だ。ようやく戦争が終わり、軍隊に徴用されていた馬たちももどされてきたのだが、学習院の厩舎では食糧不足にともなう戦後の飢餓が待っていた。
 戦争からもなんとか生きのびて、最後まで学習院厩舎に残っていた伯井号は、当時としてはまだめずらしかった鹿毛のサラブレッドで、かなり暴れて部員たちを手こずらせた元気な馬だったが、戦後は食べるものが充分でなく栄養失調にかかり、1946年(昭和21)10月17日に安楽死させられている。戦争で次々と学習院から馬が減っていく様子も含めて、再び同書から引用してみよう。
 
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 戦争に伴う正課授業の中止、学徒出陣、学徒動員、馬糧不足等により、常に十五、十六頭いた馬匹を減少せざるを得なかった。昭和十九年の離厩馬は松緑号、伯明号、華暁号の三頭だけであったが、昭和二十年四月には青山号、金笛号、山秋号などの七頭、同五月には久純号、勉留号(引用註ベイルート号)などの四頭が離厩し、終戦日、馬場にいた馬は、雲霧号、筑波号、家月号、伯井号の四頭だけであった。しかし、馬にとっては厳しいのはこれからで、馬糧不足や栄養失調等これ以上に過酷な日々が続くのであった。 (同書「馬匹の減少」より)
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 太平洋戦争の開始とともに、ほとんど行なわれなくなってしまったが、1941年(昭和16)までは逆に軍隊から学習院へ馬か寄贈されることが多かった。これは退役や除役になった軍馬を、「学生訓育資料」として学習院へ寄付し「保管」してもらうわけだが、「寄贈」というと聞えはいいけれど、当初はエサ代や飼育経費はすべて学習院が持っていたため、軍隊側にしてみれぱ世話いらずで体のいい軍馬の「処分先」だったといえるだろう。
 学習院としては、退役した馬を次々と押しつけられてはたまったものではないので、1935年(昭和10)より「有償保管」、すなわち馬が生きている間の馬糧費(エサ代)はすべて軍隊持ちという条件なら、退役馬を「保管」してあげてもいいという姿勢に転換している。学習院へ退役馬の「保管」を依頼していたのは、陸軍省軍馬補充部と陸軍騎兵学校、そして陸軍大学校の3ヶ所だ。以下、国立公文書館に保管されている1935年(昭和10)11月2日に結了した、陸軍省の審案「除役馬有償保管転換ノ件」(陸普六二〇〇号)から、その全文を引用してみよう。
 

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 副官ヨリ軍馬補充部本部長ヘ通牒(案)
 貴本部本年度定期除役馬中三頭ヲ学生訓育資料トシテ学習院ヘ有償保管転換スルコトニ定メラレタルニ付依命通牒ス 追テ之カ授受ニ関シテハ同院ヨリ照会アル筈ニ付申添フ
 同件副官ヨリ学習院長ヘ通牒(案)
 十月二十一日付学習院発第三二〇号ヲ以テ願出ニ係ル首題ノ件 軍馬補充部本部ヨリ三頭ヲ有償保管転換方承認セラレタルニ付及通牒候也 追テ之カ授受ニ関シテハ直接軍馬補充部本部ヘ照会相成度申添ヘ候
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 このとき、軍馬補充部から「有償保管」を依頼された、3頭の退役馬のうちの1頭が、1945年(昭和20)8月15日にいまだ厩舎に残っていた雲霧号(アングロアラブ)だった。ほかの2頭は、賽王号(サラブレッド)と三鉾号(洋種)だったと思われる。このうち、雲霧号と賽王号は1935年(昭和10)の暮れに学習院へ入厩し、三鉾号のみが翌1936年(昭和11)に寄贈されている。
 「除役馬有償保管転換」の審案が陸軍省で決裁されたことにより、学習院ではホッと胸をなでおろしたことだろう。それまでは、「学生訓育資料」として馬を寄付するのだから、エサ代は学習院で持つのが当然・・・というのが、陸軍側の姿勢だった。この調子で、毎年数頭の退役馬を押しつけられては、厩舎はすぐにいっぱいになるし、エサ代も年々ふくらみつづけてしまう。学習院としては、「じょうだんじゃない、目白は高田の馬々棄て山じゃないぞ!」(ちなみに学習院は高田町にあり、高田馬場は戸塚町にある)という思いだったろう。学習院の荒木寅三院長から、陸軍大臣・川島義之あてに出された願書(学習院発三二〇号)も現存している。
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 除役馬有償保管転換ノ件願
 当院学生訓育ノ資料トシテ軍馬補充部本部ヨリ殿下並名将ノ乗馬ニシテ本年度除役セラルヘキ馬匹三頭ヲ有償保管転換相受度ニ付 何分ノ御配慮相煩度右及願出候也
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 陸軍における退役(除役)馬は、年間かなりの頭数にのぼっただろう。その中で“処分”をまぬがれ、「有償保管」で学習院へ贈られる軍馬は、皇族や有名な将軍などが騎乗したものに限られていた。それ以外の、将兵が乗って退役になった軍馬は、すぐに民間へ払い下げられていた。

◆写真上:学習院のバッケ(崖地)から眺めた、学習院馬場の西側。
◆写真中上:左は、築100年以上を誇る学習院厩舎の天井。右は、学習院馬場の南側築垣。
◆写真中下:上左は、学習院馬場のバッケ中腹に通う小路。上右は、先の記事でご紹介した「咬む蹴る。体格大きい。人を故意に落とす」クセのあるサラブの綾桜号(スター・ウィン号)。下は、昭和初期の撮影とみられる学習院馬場。中央にいる白馬が、鳥取県の牧場経営者・佐伯家から乃木希典に贈られた「乃木号」で、乃木院長の体躯に合わせたためか驚くほど小型だ。
◆写真下:左は、陸軍省が1935年(昭和10)10月に作成した審案書「除役馬有償保管転換ノ件」。右は、学習院長・荒木寅三から陸軍大臣・川島義之あてに出された願書。