以前、江戸東京へ北と西からやってくる雷をテーマに、日光雷と大山雷Click!について書いたことがある。日本橋から見て、日光街道や大山街道に沿って接近してくるように見えたからそう呼ばれていたようだ。近世以前には、雷という現象の説明がつかず、その大音響の雷鳴と落雷による被害は、「神威」として受けとめられたのも当然だろう。関西(ことに近畿圏)では、落雷は天神の怒りによるバチ当たり、身におぼえのある人々には菅公の怨霊による祟りや呪いとして解釈されることが多かったようだ。現代でさえ、落雷があってなんらかの被害が出ると、「天罰が下った」ないしは「バチ当たり」というような感覚を口にする人がいまだにいる。(もともと西の方だろうか?)
 近畿地方の「天罰」観や「バチ当たり」観とは異なり、関東地方における落雷の解釈はちょっと・・・というか、かなりちがう。落雷すれば人が死ぬこともあるので恐怖感は同じだし、「神威」が示されたと解釈するのは東西を問わず同じだなのだが、関西が凶兆とみるのに対し、関東では本質的に瑞兆と解釈するのだ。このような解釈は、鎌倉期以前から関東に存在していたと思えるのだが、それを行政側が明確に瑞兆だと規定したのは鎌倉幕府の時代からだ。また、卜術の専門家である神祇官や陰陽師たちの独占により吉凶が占われたナラや京とは異なり、鎌倉幕府は合議制なので“変事”の解釈には幕臣をはじめ、巫女(神官)や卜師、故事に詳しい古老、僧、陰陽師などのさまざまな意見が求められ、議論のすえに解釈が決定されている。
 サギが屋根の上に集まっているとか、黄チョウの群れが海から鎌倉へ上陸したとか、ウシやハトが家の中に入ってきたとか、いろいろな“変事”があると凶兆とされ、すぐに陰陽師らによって加持祈祷が行なわれた。このような現象を凶兆だと主張するのは、京からやってきた陰陽師たちのようなのだが、面白いのは政所の合議制があるために、京ではそのまま通っていた陰陽師たちの意見や主張が、合議のすえに否定されてしまうことも多かったようだ。ウシやハトは、人が飼ったりエサをやったりするので、人の住む家に近づくのはむしろ当り前であり、「おきゃがれてんだ」Click!と一蹴されてしまったりw、自然の動物がどこへ飛ぼうが彼らの勝手であり、それをことさら凶兆だのなんだのとバタバタ騒ぎ立てるのは「マジですか? おまえらどうかしてんじゃね?」とかw、まことに合理的な意見が多数を占めて、『吾妻鏡』によればそのまま無視されることも多々あったようだ。
 
 京の陰陽師たちが、まず面食らったと思われるのは、彼らの意見や主張がOne of themであり、むしろ彼らよりも鎌倉に散在する古社の神官、すなわち巫女たちClick!の意見が尊重される傾向にあったことだろう。つまり、古代の日(陽)巫女(中国“魏”の蔑称では「卑弥呼」)の時代から、近世の大江戸の各町内Click!へとつづく原日本と同様の社会が、中世の鎌倉にも存続していたことがうかがわれる。「女に意見や解釈を訊くなんて」・・・と、陰陽師たちは文化人類学レベルにまで根ざす、東西の文化のちがいに馴染まず、気に食わなかったにちがいない。ただし、幕府のCEOは政子さんだったので、そんなことは決して口にできなかっただろうが・・・。
 さて、承久の乱Click!の真っ最中に、執権・北条義時の館へ雷が落ち使用人が被害を受けるという“変事”が起きた。さっそく政所で合議が行なわれたが、大江広元は1189年(文治5)の奥州藤原氏との戦闘のときも、幕府軍の陣営へ落雷があった前例を根拠に、戦を勝利に導く最高の佳例=瑞兆であると主張している。大江ひとりの意見では不安だったものか、念のために各方面へ吉凶を占わせたところ、あらかた「吉」と出たようだ。もちろん、政子さんの命を受けた東日本の幕府軍のほぼ全軍が、京へ向けて進撃している最中のことでもあり、少なからず政治的な判断も働いたのだろう。このとき、念のために呼ばれた陰陽師も「最吉」と占っている。
 通常ならば、京からやってきた陰陽師たちは落雷を「天神の怒り」、あるいは「祟り」「バチ当たり」と解釈し凶兆と判断するのが自然だと思われるのだが、政所の合議制をさんざん経験してきた彼らには、われわれの卜術は一部の参考意見にすぎないので「なにを言ってもムダ」と諦めていたか、それとも世代を経るにつれ関東の文化に染まっていったのかもしれない。かくして、承久の乱は幕府軍が完勝し、落雷を「最吉」と占った陰陽師たちの「信任」も厚くなったと思われる。
 
 もうひとつ、鎌倉新仏教の影響も大きいのだろう。鎌倉幕府の当時、法然や親鸞、日蓮などによる新仏教の流布は、それまでの卜術や陰陽道などを「迷信」だとして次々に否定していった。親鸞の『教行信証』(化身土巻)から、『般舟三昧教(はんじゅざんまいきょう)』も含めて引用してみよう。
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 『般舟三昧教』に言はく、「優婆夷(うばい)、この三昧を聞きて学ばむと欲せむ者は、自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事ふることを得ざれ、天を拝むことを得ざれ、鬼神を祀ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」と。/またのたまはく、「優婆夷、三昧を学ばんと欲せば、天を拝し神を祠祀(しし)することを得ざれ」と。
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 要するに、これからの時代は神ではなく仏を信じようと言っているのだが、鎌倉幕府の中後期、いつまでも昔の「迷信」にとらわれるのを止揚する、ある意味で合理主義的な教義であるこれら新仏教の影響を、幕臣たちは少なからず受けていたのではないかと思われる。
 でも、落雷現象については、雷神による瑞兆の表われとする感覚が、その後もエンエンとつづくことになる。落雷現象は、神によってことさら選ばれためでたい土地や組織、人、物の上に起きるのであって、「祟り」や「バチ当たり」とするのは大間違いだとする考え方だ。ときに、人命を奪うほどの怖ろしい現象ではあるけれど、恐怖が大きければ大きいほど守護神として“味方”に奉れば、その神力もケタちがいに大きい・・・とする信仰だった。相模(神奈川県)の足柄山で生まれた金太郎伝説で、金太郎が雷神との関連が深いのも関東らしい英雄譚だ。
 雷神がいる浅草寺の雷門(神鳴門)を例に出すまでもなく、近畿地方が天神信仰のもと、落雷現象を災いの「最凶」ととらえたのとは対照的に、関東地方では180度正反対に「最吉」とする雷神信仰が、いにしえの昔から今日まで連綿とつづいている。それは、干ばつを嫌う農民たちが雨降りの神として、「雨乞い」を願う奉神にことさら雷神を尊重した影響も大きいのだろう。もっとも、オオカミ(大神)伝承と習合したらしい、落雷で現れる雷獣伝説も関東にはあちこちに残っているのだけれど。
 
 さて、下落合にあった近衛旧邸の玄関、車廻しの双子のケヤキClick!に落ちた雷だが、落雷したケヤキには注連縄が張られている。江戸東京流の、というか関東風の解釈をすれば、雷神がこの地を「お選びになった」瑞兆でまことに「最吉」の現象となるのだけれど、関西風に解釈すれば天神による「最悪のバチ当たり」の証しで「最凶」の出来事となってしまう。
 もちろん、関東人のわたしは「最吉」の兆しであり、落雷したケヤキの幹に注連縄(結界)を張って守るのは当然で、選ばれた近衛町がちょっとうらやましくも感じるのだが、旧住人だった近衛家(藤原氏)から見れば、「もうそろそろカンベン」してほしい「最凶」の出来事に映るのかもしれない。

◆写真上:季節の変わり目になると、東京へ北や西からやってくる雷。
◆写真中上:落雷した近衛町のケヤキで、もうひとつのケヤキは少し南側の道端へ移植された。
◆写真中下:左は、堀潔Click!の制作とみられる双子ケヤキを描いた作品。右は、道の中央にあるケヤキが落雷したほうで、手前の道端に移されているのが双子ケヤキの片割れ。
◆写真下:左は、浅草寺の雷門。右は、横須賀市追浜本町にある雷(いかづち)神社。1581年(天正9)に12人の「乙女」たちが集っていた場所に落雷したが、雷神に「選ばれた」彼女たちはかすり傷ひとつ負わなかったことから勧請された縁起のいい社で、天神古墳の上に築かれている。