再三にわたる防止策の申し入れにもかかわらず、死傷者をともなう流弾被害が止まなかった戸山ヶ原Click!では、周辺各町村の住民189名が結束して射撃場の「撤廃移転」を強く要求する「請願書」Click!を政府へ提出した。実は、このようなクレームや「出ていけ」運動は戸山ヶ原のみに限らず、陸軍施設のある東京市の各地域で起こっていたのだ。
 まず、周辺住民たちのたび重なるクレームに動かされた陸軍省は、1921年(大正10)6月に青山射撃場(練兵場)Click!の土地2万坪を東京市へ売りわたす決定をしている。青山の場合は、東京市と射撃場周辺の住民とが連携して、陸軍省に働きかけたケースだ。東京市は、買い取り予算の100万円をすでに予算へ組み入れて、陸軍省へ早期売却を迫っている。
 この青山のケーススタディに触発されたのだろう、全国各地の自治体でも陸軍の練兵場(特に危険な射撃場)の廃止・移転運動があちこちで活発化している。また、移転先の代替地が見つからない場合には、射撃場自体へ流弾防止の堅牢な施設を増改築するか、あるいは射撃場周辺に高い土塁をめぐらして流弾が外部へ飛び出ないようにするなどの施策が計画された。1923年(大正12)2月には、衆議院で次年度の予算審議が行なわれているが、これら危険防止のための陸軍省予算は、ほぼ原案のまま同院をスムーズに通過している。
 1923年(大正12)度予算で陸軍省が進めた危険防止策の具体例としては、青森練兵場と射撃場の市外移転をはじめ、佐世保小銃射撃場の移転、熊本歩兵第二十三連隊と射撃場の移転、山口歩兵第四十ニ連隊その他の火薬庫周辺の土塁増築、木村・上野・室などにあった小銃射撃場の増改築などが挙げられる。これらの案件に対して用意された予算は、総額356万2,861円と莫大なものだった。同年2月5日に発行された読売新聞は、これらの陸軍省の危険防止策について報じたあと、「右の計画に依り久しく叫ばれたる都会地所在兵営の移転は先ず熊本、青森、佐世保の三市から着手された訳であつて今後東京、大阪等の大都市に在る兵営も逐次市外に移転の余儀なきに至るであらうと陸軍当局も覚悟して居るさうである」と、今後の情勢を予見して結んでいる。

 
 さて、周辺の住宅や電車(山手線など)へ頻繁に小銃の流れ弾が飛びこみ、死傷者までが出ていた大久保射撃場Click!では、1924年(大正13)になると周辺住民たちの射撃場「撤廃移転」の決起集会があちこちで開かれ、同時に「射程距離」にある近隣の町々との連携運動がスタートしている。1924年(大正13)11月12日に発行された、読売新聞からその様子を引用してみよう。
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 流弾を浴びる町の大会/射撃場を移転させよと
 先頃から度々起つた戸山ヶ原射撃場の流弾騒ぎは 其の後一向埒が明かないので大久保百人町の自治制度研究機関の正交会では 十一日午後六時から同町長光寺で町民大会を開き 同射撃場の移転問題の火蓋を切り夫々熱弁を揮(ふる)つたが 主催者側では「陸軍に一向誠意がないので今後は中野町とも合同して飽く迄目的を果すつもりだ」と意気込んでゐる
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 このあと、周辺町の住民たちが激怒して結束し、陸軍省を飛び越えて政府へ直談判するほどにまで問題がこじれていったのは、住民に死傷者が出ているにもかかわらず近衛師団が管轄している大久保射撃場へ、なんら対策らしい対策がほとんど講じられなかったせいだ。他の部隊とは異なり、近衛師団は特別な存在として尊大Click!にふるまいタカをくくっていたものか、問題を放置したせいで東京市内に駐屯してこそ意味のある師団にもかかわらず、市外へ追い出されそうになってから初めてコトの重大さに気づき、大急ぎで対策を立てているようなありさまだった。
 流れ弾の被害が、ほとんど毎週のように発生し日常茶飯事化していたことは、当時の新聞を見れば明らかだ。たとえば、大久保百人町で町民大会が開かれた1924年(大正13)だけでも、相当な記事数にのぼる。同年3月14日発行の、読売新聞の三面から引用してみよう。
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 流弾頻りに付近人家を脅かす/昨日も戸山ヶ原付近で発見
 近来戸山ヶ原の陸軍射撃場から付近に盛んに実弾がとんで頗る危険だつたが 十三日午後零時半大久保百人町二五三武藤松太郎方縁側に 実弾が飛んで来たので所轄署に届け出た、目下憲兵隊で取調中であるが 流弾らしいが何とか出来ぬものかと付近の人々は夫に憤慨してゐる
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 大久保射撃場では、小銃の扱いに慣れた現役の兵士たちが射撃訓練をするばかりでなく、銃の扱いに慣れていない陸軍戸山学校の生徒たちや、まったく銃に触れたことのない東京市内の一般人や学生などを対象に、「素人射撃大会」のようなことまで実施していた。だから、射撃の反動を支えきれず実弾が的を外れてどこへ飛んでいくかわからない、危険きわまりない状況だったのだ。換言すれば、全国でもっとも人口が密集した地域で、もっとも危険な射撃が行なわれていたのが大久保射撃場だった・・・ということにもなる。
 陸軍省は、大久保百人町の町民大会が開かれるわずか2週間前、1924年(大正13)10月29日に大急ぎで策定したとみられる「地下トンネル式射撃場」計画を発表している。射撃場と近衛師団Click!の敷地が、このままでは丸ごと移転させられそうなのにようやく危機感を抱き、技術本部教育総監部が立案した苦肉の施策だったようだが、これで住民運動をある程度沈静化できると考えたにちがいない。でも、それまで住民たちのクレームや請願に口約束ばかりつづけてきたせいか、この発表によりかえって火に油を注ぐ結果となってしまった。陸軍がこのようなアドバルーンを揚げて、とりあえず住民たちの怒りをかわし、提示した構想や対策計画をいつまでたっても実施しないという状況が、何年も前からエンエンとつづいていたからだ。
 翌1925年(大正14)2月20日、ついに大久保射撃場周辺の全町が連名で「戸山ヶ原陸軍射的場移転ノ件請願書」を議会へ提出してしまった。陸軍施設と周辺住民との“局所的問題”が、国政レベルの社会問題として提起されてしまったのだ。近衛師団は、射撃場の改築や改善レベルの話ではなく、「撤廃移転」という住民側の強硬な姿勢にたじろいだだろう。さらに、射撃場が遠くなって不便を感じるのなら、ついでに近衛連隊とその他の施設もこぞって出ていけ・・・とする、要求はきわめて苛烈な内容だった。こうして、近衛師団と陸軍省では「移転」という最悪の事態を避けるために、同年の夏から「地下トンネル式射撃場」計画の具体化と予算の確保を本格的にはじめている。
 ただし、「地下トンネル式射撃場」が完成するまで数年を要することが自明のため、住民側はその間にも具体的な対策を講じるよう陸軍省へ迫っている。たとえば流弾防止の射門や防弾場、鋸歯の増設あるいは修理増強をはじめ、300m以上の長距離射撃の全面禁止、射撃演習の回数制限などだ。改善費用だけでも数十万円、また大久保射撃場の「コンクリート射撃隧道」建設にいたっては約205万円もの予算が使われたのだが、陸軍省や近衛師団では、むしろ「移転」せずに戸山ヶ原へ残れたことにホッとしていたのかもしれない。

 「コンクリート製射撃隧道」の竣工後Click!、陸軍省や近衛師団では積極的に大久保射撃場Click!を公開して、周辺住民はもちろんマスコミや一般市民へ広く安全性をアピールしようとしていることからも、「撤廃移転」要求へいかに危機感を抱いたかがうかがわれるのだ。

◆写真上:1917年(大正6)1月8日発行の読売新聞に掲載された、「東京帝大学生の初射撃(七日早朝より午後四時まで戸山ヶ原にて挙行)」の記事。このように近衛師団の兵士ばかりでなく、小銃に不慣れな学生などによる「射撃大会」が恒常化していたため流弾事故が絶えなかった。
◆写真中上:上は、1921年(大正10)6月11日の読売新聞に掲載された青山練兵場の廃止移転記事。下左は、明治末の青山練兵場。下右は、青山練兵場跡に建つ神宮外苑の絵画館。
◆写真中下:上は、市街地から次々と射撃場の移転を伝える1923年(大正12)2月5日の読売新聞。下左は、1924年(大正13)3月14日の読売新聞に掲載された戸山ヶ原の流弾記事。下右は、同年11月11日に開かれた大久保百人町の町民大会を伝える翌日の読売新聞。
◆写真下:1924年(大正13)10月29日の読売新聞に掲載された、「地下トンネル式射撃場」計画を発表する陸軍省の記事。すっかり信用をなくしていた陸軍は、翌1925年(大正14)2月20日に周辺住民から大久保射撃場の「撤廃移転」要求を、改めて突きつけられている。