昭和に入ってから第二文化村Click!に建つClick!と、「主婦之友」の家づくり記事を見ながら、1921年(大正10)に鎌倉雪ノ下へ自宅を新築した石橋湛山Click!については、ここで何度もご紹介してきている。でも、それ以前の早稲田に建っていた同邸については、「百八塚」Click!をめぐる記事でかろうじて写る空中写真Click!をご紹介したのみだった。今回、さらに低空飛行の元・石橋邸と思われる建物が間近にとらえられた写真を、見つけた方がわざわざお送りくださった。
 早稲田の石橋邸は、大正中期の正確な住所でいうと牛込区戸塚町下戸塚602番地、明治末から大正初期は同町下戸塚352番地で、位置的には早稲田大学キャンパスに隣接し、同大学運動場(早大グラウンド=のちの安部球場)や、三神記念コート(テニスコート)に接した隣りの区画ということになる。お送りいただいた1923年(大正12)の写真は、早大グラウンドで開催された野球の試合を上空から撮影したもので、同年に発行された「アサヒグラフ」6月号に掲載されたものだ。当時、野球人気はうなぎ登りであり、東京のあちこちのグラウンドでゲームが行われていた。この年も、東京五大学リーグ戦が行われており、最後に加盟した東京帝大野球部を加えて東京六大学野球連盟が発足するのは、2年後の1925年(大正14)になってからのことだ。
 ちなみに、先の関東大震災のまとめ記事Click!でもご紹介したが、民間や軍部を問わず大正期にも盛んに空中写真が撮影されており、落合地域も確実に上空から撮影されていると思われるのだが、いまだそのような写真を発見できないでいる。撮影されているとすれば、旧・落合地域の東部、目白駅に近いエリアのような気がするのだけれど・・・。
 早大グラウンドの写真は、1923年(大正12)6月14日の野球大会を撮影したものだが、キャプションには「最期決戦野球戦」とあるので、同年の五大学リーグ決勝戦である明治大学と早稲田大学の試合を写したものだろう。この年、明大野球部は早大を破り念願の初優勝を果たしている。観客の多さからもわかるように、当時の大学野球はゲーム結果が全国へ速報されるほどの人気があった。ただし、この時期には慶應大学も早大もリーグに参加しているにもかかわらず、早慶戦は行われていない。両校の対決は、球場の応援団ばかりでなく世間的にも異常興奮を巻き起こし、社会不安をまねきかねないというので1906年(明治39)以来、中止されたままだった。
 球場の上に見えているテニスコートは、日本へ初めて硬式テニスを紹介した早大の三神八四郎を記念するコートだ。このコートと、早大グラウンドとの間には道路ができかかっているが、のちの早大グラウンド坂となる道筋であり、拡幅前の早稲田通りと市電・早稲田駅とを結ぶ坂道だ。画面の右手へ向かうと早稲田通りの商店街へと出て、逆に左手へ向かうと市電・早稲田駅があり、江戸川橋から飯田橋方面へと向かうことができる。


 画面の上部左手に見える4階建てのビル群が、キャンパスの西側に建つ早大校舎群の一部で、この写真が撮られてからわずか3か月後の9月1日、関東大震災で大きなダメージを受けることになる。そして、興味深いのは校舎群の上方にこんもりと繁り、画面には収まりきれない森がとらえられている。この森こそ、「百八塚」の伝承が残る昌蓮にゆかりの宝泉寺境内(森の左手)と、大正期に水稲荷社のあった「高田富士」(たかたふじ)のある同社境内であり、考古学的に表現するなら前方後円墳・富塚古墳Click!の姿だ。
 見えているのは、「高田富士」の築かれた墳丘部(後円部)ではなく前方部の北西面なので、手前に写る4階建ての早大校舎と比較すると、富塚古墳の規模がよくわかる。関東地方では中小規模Click!の前方後円墳だが、同古墳の南に接する毘沙門山(現・龍泉院)、さらに早稲田通りの拡幅でだいぶ削られた、江戸期に古墳の羨道Click!とみられる横穴が発見されてから通称・穴八幡Click!と呼ばれる高田八幡(たかたはちまん)と、南北に連続する3つ子の古墳だった可能性がある。
 さて、複葉機の翼が写る画面の右側を見ていこう。上翼と下翼にはさまれるように、元・石橋湛山邸と思われる2階建ての住宅がとらえられている。当時としては、洋風建築Click!の範疇に入る意匠だが、このあと鎌倉雪ノ下の家、そして終の棲家となる下落合の家と西洋館つづきなので、石橋の洋風生活好みがうかがわれる。この家は、大正末の早大グラウンド坂の敷設工事にひっかかるため、大震災の被害を受けていなかったとしても、おそらく大正末には解体されているものと思われる。元・石橋邸の周囲に見えている、「ロ」の字型の中庭がある建物は、急増する学生を収容するための大学寮か、このころから増えはじめた学生下宿だろう。
 

 右端に見えている庭園は、江戸期には徳川清水家あるいは水戸徳川家Click!の下屋敷だった甘泉園の南東角であり、1923年(大正12)当時は相馬永胤邸の庭園となっていた。甘泉園の相馬家は、彦根を基盤とする相馬家の系統であり、下落合の御留山Click!で暮らした相馬家Click!とは直接関係はない。ただし、タイムスパンを長めにとって眺めれば鎌倉時代は関東出自の同祖であり、彦根相馬家は早い時期に相馬本家から枝分かれした分家ということになる。甘泉園の上方(南側)に見えている、家々が建てこんだエリアが、徳川幕府の練兵場である高田馬場Click!(たかたのばば)の東端であり、さらに上方には、いまだ拡幅されていない大正期のめずらしい早稲田通りと、松の湯Click!が開業する通りへと入る鋭角のクラックが見てとれる。
 カメラを積んだ撮影機は、現在の十三間通り(新目白通り)の上空、都電・早稲田駅と面影橋駅の中間あたりから南を向いてシャッターをきっており、右翼(北側)の眼下には蛇行する旧・神田上水と、目白崖線の深い緑が見えていただろう。早大周辺の家々を改めて眺めてみると、かなり洋風の住宅が多いことに気づく。学生街として発展した街なので、特に時代の先端をいくシャレた雰囲気が好まれたせいだろう。それらの洋館は、大正期のハイカラな街並みというよりも、いまだ明治期の匂いが残る、どこか重々しいデザインの建物が多そうだ。でも、和風住宅の前庭いっぱいに造成されたテニスコートは、明治期には見られない、いかにも大正時代を感じさせる風情なのだ。


 
 この写真撮影から20年後の1943年(昭和18)、眼下の早大グラウンドでは文部省や軍部の圧力に抗しきれない早大当局の反対を押し切って、戦時下の早慶戦が開かれている。当時、「敵性スポーツ」として弾圧されつづけた東京六大学の野球部は次々と解散し、かろうじて残っていたのは早大と慶大の野球部のみだった。そんな早慶野球部のバッテリーを呼び、目白文化村チームと陸軍軍楽隊チームによる野球大会Click!が、目白通りをはさんだ立教大学の長崎グラウンドで、同年に開催されたことはすでに記事にしている。「学徒出陣壮行会」が神宮外苑で行われる直前、いわゆる“最後の早慶戦”がこのグラウンドで開かれることになるのだが、それはまた、別の物語。

◆写真上:1923年(大正12)6月14日に撮影された、関東大震災直前の早大グラウンド周辺。
◆写真中上:上は、「アサヒグラフ」6月号に掲載された同写真の左(東側)半分。下は、1925年(大正14)現在の1/10,000地形図にみる空中写真の撮影ポイント。
◆写真中下:上は、画面内にとらえられている家屋や施設。下は、同写真の右(西)半分。
◆写真下:上は、翼の間にとらえられた元・石橋湛山邸と思われる西洋館。中は、早稲田通り沿いの商店街。下は、明治末に撮影された早大運動場(左)と富塚古墳後円部の「高田富士」(右)。