落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目306番地)にあった、死去したばかりの松下春雄Click!のアトリエを借りて、油彩画『Kの像』を描いた柳瀬正夢Click!の名前は、上落合のマヴォClick!やプロレタリア芸術運動などの記事がらみで、こちらでも何度か登場している。きょうは、柳瀬正夢が描いた「K」こと、編集者で出版人、またのちには画家でもある小林勇の側からの証言を聞いてみよう。柳瀬のことを、「ねじ釘の画家」と名づけたのは小林勇だ。
 小林勇と柳瀬正夢が知り合ったのは1928年(昭和3)ごろ、ちょうど小林が岩波書店を退社して自分で出版社を起ち上げ、科学雑誌を発行しようとしていたころだ。(のちに復職して戦後は社長・会長) 小林は26歳、柳瀬は29歳のときで装丁の依頼から付き合いがはじまっている。柳瀬は仕事が遅く、いつも締め切りに間に合わないため、小林はわざわざ高円寺の柳瀬宅に泊まりこんでは、装丁や挿画制作の催促していたことから、やがて家族ぐるみで親しくなったようだ。
 1932年(昭和7)の暮れ、柳瀬が治安維持法違反で特高Click!に捕まり、世田谷警察署へ引っ張られたときに支援したのが、小林勇と家族たちだった。柳瀬と同じ運動仲間は、支援をしようにも逮捕されるので面会や差し入れには行けなかった。その間、残された柳瀬の家族は、小林の住む東中野の近くへ引っ越してきている。翌1933年(昭和8)8月に、柳瀬が市ヶ谷刑務所を仮出所するときも、小林夫妻は迎えに行っている。この日の午後、柳瀬の小夜子夫人は帝大病院で結核のために死去している。出所した柳瀬に再会してから、わずか2時間後のことだった。このあと、再び市ヶ谷刑務所に収監された柳瀬は、同年の暮れにようやく保釈されている。このとき、久しぶりにふたりの子供と義母とで住み、1934年(昭和9)の正月を迎えられたのが、下落合にあった借家だった。のち、柳瀬は懲役3年執行猶予5年の判決を言いわたされている。
★柳瀬正夢が収監中、残された家族のために小林勇が世話をした「東中野の近く」の家、および柳瀬が保釈された直後にすごした「下落合にあった借家」は、ともに上落合2丁目602番地の家だったことが、記事をお読みの方からのご教示で判明した。(コメント欄ではナカムラさん) やはり、小林勇は最寄駅名で住所を記載するクセがあるようだ。また、井出孫六の著作で「上落合2-6-2」とある柳瀬の自宅も、「上落合2-602」の誤記である可能性がきわめて高いことも判明している。
 翌1934年(昭和9)になると、柳瀬は仕事場として使えるアトリエを探しはじめた。葛ヶ谷(西落合)306番地の松下春雄アトリエが空いているのを知ったのは、画家仲間の内田巌や大河内信敬を通じてのようだ。柳瀬一家は、死去した松下春雄の家族が住む家の、道路をはさんだ向かいの家(葛ヶ谷303番地)へ引っ越し、松下宅のアトリエを借りて制作を再開している。
 松下家では、前年の暮れに松下春雄が急性白血病のために急逝すると、少しでも生活費の足しになるようにと、アトリエの賃貸を思いついたのだろう。主がいなくなったアトリエは、ほどなく柳瀬正夢が使用することになった。したがって、松下春雄の淑子夫人や子供たちと、アトリエを借りた柳瀬とはおそらく顔なじみになったと想定できるが、松下春雄自身は柳瀬との交流はまったくなかったと思われる。このあたりの事情を、1983年(昭和58)に出版された小林勇『小林勇文集・第八巻』(筑摩書房)所収の「ねじ釘の画家」から引用してみよう。ちなみに、小林は落合町葛ヶ谷(のち西落合)の住所を、一貫して近くの駅名である武蔵野鉄道の「東長崎」として記述している。
★その後、松下春雄の自宅+アトリエは柳瀬正夢の借家と同一の建物Click!だったことが判明した。西落合1丁目306番地は、1935年(昭和10)に西落合1丁目303番地へと地番変更されている。
 
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 この東長崎のアトリエに移ったのは、いつのことか明確におぼえていないが、春も早いころであったと考えられる。柳瀬はアトリエができたのに、なかなか仕事にかからなかった。六月の某日、私は柳瀬のアトリエにいて、「俺の肖像を描いてくれ」といった。柳瀬は嬉しそうな顔をして、「今すぐはじめよう」といった。私はまた、このつぎにはじめようなどといったのでは駄目になると考えていたので、柳瀬の言葉は意外であったし、また嬉しかった。あとできくと、柳瀬は私がモデルになることをいやになると困ると思って、すぐやろうといったのだそうである。
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 さて、1933年(昭和8)の出所直後から翌年の初めぐらいまで、柳瀬正夢一家がほんの数ヶ月間住んでいた下落合の家というのが、いったいどこだったのかが不明だ。「柳瀬は母のない子供二人と、義母と一緒に下落合の小さな家で、一九三四年、昭和九年の正月を迎えることができた」と小林は書いているが、詳しい番地までは記録されていない。
 ひょっとすると、小林は自身が下車して歩いたと思われる駅名で、当時の住所を記載する傾向があるようだから、この「下落合」も最寄り駅の可能性がある。つまり、西へ移動済みClick!の下落合駅が柳瀬宅にいちばん近い駅であり、実際の住所は上落合だった可能性もありそうだ。柳瀬は一時期、上落合602番地に住んでおり、家族にも当然なじみのある街だったにちがいない。そう考えると、柳瀬が拘置されている間、家族が引っ越してきた「東中野の近く」という小林の表現もひっかかる。これも、早稲田通りに近い上落合の南側の可能性がありそうだ。
 
 
 さて、『Kの像』が描かれる現場の様子を、小林の「ねじ釘の画家」からつづけて引用してみよう。
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 ともかく私は柳瀬のアトリエにあった有島生馬氏の翻訳した「回想のセザンヌ」を読んでいるポーズをとった。上着をぬいで、ワイシャツ姿の私の肖像画は、たしか一週間くらい毎日通って完成した。その絵の裏に柳瀬は「NO1」と赤い絵具で書き、「Kの像-1934年6月」ローマ字で「Mascme.Y.」と書いた。ところが、しばらくたってこの絵を私に渡そうとして、柳瀬は油をひいた。すると、肖像の絵はみるみる薄くなっていった。消えてはしまわないが、その力強い絵は、ぼやけてしまった。塗る油を間違えたということである。柳瀬も私も不機嫌になり、柳瀬はその絵を向こうにむけて壁にたてかけ、私は手ぶらで家へ帰った。
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 アトリエにあった『回想のセザンヌ』は、柳瀬の所持品ではなく、アトリエにそのままになっていた松下春雄の蔵書だった可能性が高そうだ。画布の裏に「NO1」と書きこんだのは、これから油彩画をどんどん描いてゆくという、柳瀬自身の決意の表れだったのかもしれない。でも、絵具が乾いたあと、わざわざ小林を呼びニスを塗る段になって、別の油を塗ってしまい作品を台無しにしている。柳瀬はその後、写生旅行に出ることが多くなり、アトリエで描くことが少なくなっていった。1943年(昭和18)には、ついに念願だった自分のアトリエを持っているが、あまり使わなかったらしい。小林勇は戦後になって、柳瀬の遺族からようやく『Kの像』をもらい受けている。
 1945年(昭和20)5月25日、諏訪に疎開している娘の勤め先(中央気象台)と住居を見舞うために、新宿駅を22時発の中央本線に乗るはずだった柳瀬正夢は、第2次山手空襲Click!に巻き込まれて行方不明になった。家族たちは、翌26日から各方面へ連絡を入れて探しはじめ、27日から28日の丸2日間は、空襲の負傷者が収容されている新宿周辺の病院や医療施設を片っ端から訪ね歩いている。29日には淀橋区役所を訪ね、収容されている遺体を探したが見つからず、同日の午後に淀橋警察署を訪ねて、ようやく柳瀬の遺体を発見した。新宿の地下道から出たところを、炸裂した焼夷弾の破片が腹部肝臓のあたりを直撃し、即死に近かっただろうと推定されている。
 
 
 柳瀬正夢が「ねじ釘の画家」と呼ばれるようになったのは、絵を描くとサインの代わりにねじ釘の頭のマークを画面の隅に入れたからだ。なぜねじ釘マークなのか、小林は柳瀬に訊ねている。「多くのものにねじ釘のマークを使った。それはねじ釘の頭であると柳瀬は説明した。自分はこの世で、一本のねじ釘の役割を果たしたいという考えからこのマークを使うのだといった」。ねじ釘のマークは、いい加減に描かれたものではなく、贋作や模倣を防ぐためにねじのサイズや、頭に彫られた“谷”の幅や角度が、かなり厳密に決められていたらしい。

◆写真上:落合町葛ヶ谷306番地(西落合1丁目306番地)の、松下春雄(柳瀬正夢)アトリエ界隈。
◆写真中上:ともに柳瀬正夢作品で、左が『門司』(1920年)で右が『烏帽子』(1940年)。
◆写真中下:上左は、1934年(昭和9)制作の柳瀬正夢『Kの像(小林勇像)』。上右は、1961年(昭和36)ごろに制作された小林勇『自画像』。下左は、『Kの像』の画布裏面。下右は、柳瀬正夢の自宅があったと思われる落合町葛ヶ谷303番地(西落合1丁目303番地)の現状。道路1本隔て、西落合1丁目306番地と303番地は対向しており、現在は東側の本田宗一郎邸に隣接する。
◆写真下:上左は、1929年(昭和4)の「落合町市街図」にみる西落合303番地と306番地。上右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所で、すでに306番地が305番地へと変更されている。下左は、拡幅された道を挟んで左手が306番地で右手が303番地。下右は、西落合は空襲の被害がなかったためあちこちに昭和10年前後に建てられた住宅が残っている。