岸田劉生Click!は生活費に困り、そろそろ蓁夫人Click!に叱られはじめると、各地で開かれた展覧会で作品を販売するのはもちろんだが、思うように絵が売れてくれないと、頒布会を通じて知人やパトロンたちへ作品を仕上げては送っていた。絵の代金である郵便為替がとどき、ホッと安堵している様子が、劉生日記の随所に記されている。おカネに困って借金に追われる劉生の生活は、1929年(昭和4)12月に死去するまでつづいている。
 作品を売りやすい相手には、住友財閥の御曹子である住友寛一Click!や、横浜の三渓園に住んでいた原善一郎(原三渓の息子)などがいるが、関東大震災Click!のあと劉生の京都生活がはじまると、なかなか関東へ出かけていくことが難しくなった。そこで、草土社時代Click!からつづく関西の友人や、春陽会を通じて知り合った地元の知人を通じて、作品の販路を開拓することになる。よほど生活に困ると、自身の作品ばかりでなく、蒐集した軸画や屏風、肉筆浮世絵などを処分して食いつなぐことになるのだが、劉生の作品も蒐集した骨董画も同時に購入してくれる、願ってもない便利な知人が大阪にいた。自身も洋画家であり、春陽会へ作品を発表していた斎藤清二郎だ。
 実は、斎藤清二郎についてはこのサイトでも、すでに印象的な記事とともに大きく取り上げている。わたしがガブ好きClick!なのを知り、限定2,000部の超貴重な『文楽首の研究』Click!(アトリエ社/1943年)をある方がくださったとき、その著者としてご紹介していた。斎藤清二郎は、1923年(大正12)の春陽会第1回展から作品を出展しており、以降、同会では入選の常連画家となっている。彼がいったい誰に師事し、洋画を習っていたのかはハッキリしないが、少なくとも京都時代の劉生には頻繁に絵を見せに訪れている。佐伯祐三Click!が東京へと出る以前、赤松麟作の画塾へ通ったのと同様、斎藤も大阪の地元で洋画塾に通いながら絵を修得したものだろうか。
 斎藤清二郎は、1938年(昭和13)まで春陽会へ作品を出品しつづけるが、その後は画家をやめてしまったらしい。ことに文楽が好きだったらしく、1931年(昭和6)の春陽会第9回展から第16回展(1938年)にいたるまで、文楽芝居をモチーフにした作品を多数出品している。作品をみると、ちょうど金山平三Click!が描いた「芝居絵」Click!の文楽版のような趣きの画面だ。
 

 斎藤は、岸田劉生を上まわるほどの巨漢(肥満)で、1923年(大正12)に京都時代がスタートして以降、劉生日記の挿画へ頻繁に登場しているところをみると、劉生もマンガClick!として描きやすく、ことさら気に入っていたキャラクターなのだろう。当時の劉生は、京都が気に入らなくなると、大阪の斎藤のもとへ頻繁に出かけるようになる。生まれも育ちも(城)下町Click!の銀座だった劉生には、どこか京都よりも大阪の水のほうが合っていたのかもしれない。
 劉生は日記の中で、多くの先輩画家たちや、ときに師匠格にあたる画家たちでさえ呼び捨てにして書いているのだけれど(親しい友人たちも呼び捨てだが)、気に入った人物や気の合う人物、尊敬する人間に対しては「さん」ないしは「君」づけで記述する傾向が顕著Click!だ。京都へ移ってから10ヶ月ほどたち、少し落ち着いた1924年(大正13)7月8日(水)の劉生日記から引用してみよう。
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 七月八日(水) 雨、
 斎藤君で、十時半おきる。朝はん、御酒すすめられる。寝不足にてねむい。めしをたべつつ、斎藤君に職人づくしと、芝居絵屏風五百三十円程にてうる事約束する。これにて安心、(後略)
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 斎藤清二郎のことを「君」づけで記しているので、とても気に入っていた様子がうかがえる。それも当然で、大阪の斎藤家でさんざん飲み食いしてご馳走になったあげく、一泊したあと寝起きとともにまたまた酒食を供され、おまけに手持ちの見飽きた骨董画(屏風絵)2点を、かなり高い値段で売りつけることに成功しているからだ。
 日記に添えられた挿画「斎藤君の家にて御馳走になる図」の斎藤清二郎は、いかにも人のよさそうなポッチャリ型の好人物で、当時の劉生が身長160cm余で18貫600匁(約70kg)と肥っていたのに対し、「斎藤君」はさらに体重がありそうな様子に描かれている。劉生日記には、肥えた「斎藤君」が都合20回ほど登場しているので、よほど好きで描きやすかったキャラクターなのだろう。斎藤が持参する油絵を、劉生がていねいに見てやっている様子も書きとめられている。
 
 余談だけれど、劉生の連れ合いである蓁夫人は、当時の女性としてはかなり大柄で、身長が160cmを超えていた。だから、劉生とはほぼ互角の背丈であり、本格的なケンカになった場合には、彼女は劉生にやられっぱなしではなかったらしい。劉生は、都合の悪いことはあまり日記には書いていないけれど、蓁夫人もかなり強そうなのだ。
 斎藤は、東京にもよくやってきたようで、木村荘八Click!とも親しい行き来があったらしい。それを考慮すると、劉生とは草土社を通じて知り合っていたものか。1949年(昭和24)に出版された木村荘八『東京の風俗』(毎日新聞社)所収の「数寄屋橋夜景」には、こんなエピソードが紹介されている。
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 注文は「なるべく東京の感じのするところ」といふのである。ぼくはそれで突差に思ひ出したのは、いつか大阪の友人の斎藤清二郎に聞いた談片で、ぼくが彼に大阪から来てどこが一番東京らしいかと尋ねた時、斎藤は答へて、高架線が新橋から有楽町へかけて乗りこむところが一番「東京」らしい感じがする、水に沿うて都心を走りぬけるところである。一体高架線といふものが大阪にはないから、といふことだつた。――しかしすでに一昔も前の談片だから、その後、状態は東京も大阪も互に変つてゐることだらう。/なにしろ、それを思ひ出して、数寄屋橋界隈へ行つて見たわけである。ぼくが大阪で大阪らしく感じるのは、いつも汽車が梅田近くへ来て煙突の林立する町家を見る時に、大阪だなアと思ふ。しかし、これは実は汽車が大阪に近づくので、それで感じるのかもしれない。梅田近くの情景が殊さらに大阪らしいといふわけには限らないかもしれない。――同じやうに、斎藤清二郎も水に沿うた有楽町近くの風致を東京らしいと思つたのは、やはり西から東京へ来て、この辺でいよいよ「東京だ」と汽車の中で思ふ感じが強かつたためではないかしらん。
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 斎藤清二郎は長命で、1973年(昭和48)に79歳で死去しているが、戦後はまったく絵を描かなかったようだ。劉生に売りつけられた作品や骨董画の類は、その後どうしたのだろうか? もっとも、京都時代の劉生は洋画ではなく、日本画の制作が圧倒的に多かったのだけれど。

◆写真上:1930年(昭和5)に発行された『アトリエ』2月号(岸田劉生追悼号)掲載の、岸田劉生「斎藤清二郎自宅にて飲む図」に描かれた斎藤清二郎(部分拡大)。
◆写真中上:上左は、春陽会出品作品とみられる制作年不詳の斎藤清二郎『夏祭即興』。金山平三が描いた、『夏祭浪花鑑』Click!と同じ文楽版の団七。上右は、岸田劉生の日本画『猫図』(1926年)。下は、大阪で画塾を開き佐伯祐三も通っていた赤松麟作『住之江の火薬庫』(1914年)。
◆写真中下:左は、1924年(大正13)6月13日の劉生日記に描かれた挿画「斎藤君の家にて御馳走になる図」。右は、冒頭の「斎藤清二郎自宅にて飲む図」の全体画面。
◆写真下:左は、『東京の風俗』の挿画で木村荘八「数寄屋橋夜景」(1941年)。数寄屋橋上から土橋方向を眺めたもので、佐伯祐三の『銀座風景』Click!とはちょうど逆方向からのスケッチとなる。右は、死去する6ヶ月前に鎌倉・長谷1422番地の自宅で撮影された最晩年の岸田劉生。