夏なので怪談話のひとつでも記事に書きたいと思っていたのだが、なかなかゆっくりと時間がとれない。まあ、世の中は原発をめぐる怪しい話に満ちているので、それだけでもずいぶん戦慄モノなのだが・・・。先日、錦糸町の鳥の小川さんClick!へおうかがいしたとき、お店の北側にある錦糸堀公園(災害一時集合避難広場)にカッパの像が建立されていた。本所(深川)七不思議のひとつ、「置行堀(おいてけ堀)」の錦糸堀があったとされる場所なのだ。
 すぐ南を竪川が流れ、ちょうど深川と亀戸村代地との境界あたりに錦糸堀、すなわち“おいてけ堀”があったことになる。鳥の小川さんのお店は、江戸期の町名で表現すれば深川北松代町二丁目になるが、おいてけ堀は亀戸村代地である「矢場耕地」あるいは酒井左衛門尉忠発の別荘(安政年間)に隣接して存在していた。深川の松代町の名称は、現在では横十間川に架かる松代橋にかろうじて残っている。堀というと、城郭の濠や街中の掘割り(運河)を想像するのだが、江戸期の絵図で確認するかぎり錦糸堀は池のような風情に見える。おそらく、亀戸村矢場耕地の農地開拓用に掘られた農業用水によって形成された、溜め池状の堀だったのだろう。
 おいてけ堀の話は、講談や落語などであまりにも有名であり、改めて詳しく記す必要もないだろう。田中貢太郎も、改造社の『新怪談集』Click!(1938年)へ収録している。男(ふたり連れのケースも聞く)が錦糸堀で釣りをしていると、フナが面白いほどたくさん釣れた。上機嫌で帰ろうとすると、「おいてけ~」と水の底から不気味な声がする。「じゃあだんじゃねえや」とそのまま大漁の重たい魚籠(びく)を下げて帰るのだが、あれほど釣れた魚が魚籠から1匹もいなくなっているのにあとで気がついて驚く・・・というのが江戸期に語られていた七不思議怪談だ。カッパかタヌキが化かしたのだとされているが、下落合に30年も住んでいるけれど、15頭はいるとされる近くのタヌキClick!くんたちが、人を化かした話をただの一度も聞かないので、きっと錦糸堀はカッパのしわざなのだろう。
 
 幕末から明治以降になると、大漁の魚籠があとで空になるのではなく、田中貢太郎が書きとめているように釣りの帰りに立ち寄った茶店でのっぺらぼうに遭遇し、驚きあわてた男は魚籠や釣竿を放り出して茶店を逃げ出すというエンディングになる。のちに、小泉八雲Click!が収録した赤坂の「むじな」パターンの怪談を、誰かが習合させたものだろう。わたしが知っているのも、最後に別の妖怪が登場するパターンだ。おいてけ堀で釣られるのはコイで、みごとなコイが釣れてさっそく持ち帰り、“あらい”にして食おうと連れ合いに調理を頼むのだが、調理した女房の手についた血が洗っても洗ってもなかなか落ちない。台所で桶にかがんで、血を洗い流す女房の首がだんだん伸びて・・・と、男はろくろっ首にとり殺されてしまうというのがオチだ。子どものころに観た大映の『妖怪百物語』(1968年)では、後者のストーリーClick!が採用されていた。
 江戸期に語られていた怪談のしまいは、魚籠の中身が空になってビックリ・・・という不思議かつ穏やかなエピソードだったものが、幕末・明治以降はだんだん深刻さを増す結末となり、釣りが禁止されている池で釣りをし、殺生をしたばかりに最後には生命を落とすことになる・・・という、おどろおどろしい因果応報のめぐりめぐる教訓めいた怪談へと変化していった様子がうかがえる。おそらく、おいてけ堀に限らず釣りが全面的に禁止されていた江戸各地の上水=御留川Click!でも、同様の怪談が語られていたのではあるまいか。
 本所や深川一帯を、怪談や不思議な物語の由来めぐりをしても面白いが、錦糸町駅の南側界隈は西は大横川、南は竪川、東は横十間川、北は南割下水に囲まれた、芝居や物語にも頻繁に登場する地域、すなわち江戸期には諸大名の別荘地帯だったところなので、怪談めぐりや時代小説の舞台めぐりをするには面白い土地柄だろう。池波正太郎Click!や山本周五郎、藤沢周平のファンであれば、一度も訪れたことがなくても江戸期の風情が薄っすらと浮かんでしまうほど、お馴染みのエリアかもしれない。もう少し東には、目白四ッ家(谷)のバッケ(崖)下、姿見橋Click!から神田上水に投げこまれたお岩と小平の死体を打ちつけた戸板が、なぜか途中の関口大堰Click!にもひっかからずに流れ着いてしまう、「四谷怪談」の芝居には欠かせない砂村の隠亡堀Click!跡もあったりする。もっとも、実際にそんなオバカなことをすれば、ただちに水番屋へしょっぴかれてしまっただろうけど・・・。
 
 さて、最近はオバケ・妖怪Click!が地域おこしの目玉につかわれるところが多いが、四国・徳島の大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)地方も、さまざまな妖怪譚が語られてきた地域ということで、最近、周辺の街には妖怪キャラクターがたくさん登場しているらしい。オバケ好きなわたしとしては、それらの妖怪も気になるのだが、それ以上に、この地方の地名はもっと気になるのだ。「大歩危」という地名は、切り立った大規模な川沿いの崖地の一帯に付けられた名称であり、「小歩危」という地名は、大歩危よりも相対的に小規模な崖地にふられた名称だ。
 「ボケ」という言葉の語源が、「バッケ」Click!ではないか?・・・と大いに疑えるのももちろんなのだが、「バッケ」という音に当てはめられた漢字が「歩危」という字だったがために、のちに漢字がひとり歩きして読まれやしなかったか?・・・というテーマとも結びつく。すなわち、「バッケ」に「歩危」という字が用いられた土地では、大歩危・小歩危のように「バッケ」Click!の音をやや継承した、「ボケ」という音で読まれてしまうこともあれば、後世になると当初の地名音(当てはめられた漢字音とも)が忘れ去られ、別の地方では地名漢字が「フキ」と転化して読まれはしなかったかということだ。ここで「バッケ」=「ボケ」=「フキ」、すなわち急峻な崖地の呼称をめぐり、ひとつの重要な関連性が見えてくる。崖地の斜面に生えるフキノトウは、ある地方の方言では「バッケ」Click!、またある地方の方言では「フキ」(の薹)と呼ばれていた時期(おそらく江戸期)があったと思われるからだ。
  
 東京の下落合では、バッケと呼ばれていた急峻な崖地に通う坂道のことを「バッケ坂」Click!と呼んでいるが、これは本来、固有名詞ではなく一般名称だったのだろう。目白崖線沿いには、「バッケ」と呼ばれた箇所があちこちにみえている。だから、バッケ坂も同様にいくつか存在したと思われるのだが、下落合にはもうひとつ「オバケ坂」Click!という名称も健在で、昔からつかわれつづけている。オバケと結びついたバッケ、あるいはバッケとフキとが当てはめた漢字を通じて交差する地域は、日本列島の北から南までかなり多そうだ。原日本語と近世以降の日本語とが複雑に入り組んでつかわれ、また解釈されるようになったのは、それほど昔のことではないように思われる。

◆写真上:昼間はユーモラスなのだが、夜になるとちょっぴり凄い“おいてけ堀”のカッパ像。おいてけ堀の「犯人」はこのカッパくんであって、タヌキくんは冤罪だと思うのだ。
◆写真中上:左は、国輝による『本所七不思議』の「置行堀」で幽霊の祟りのように描かれている。右は、1855年(安政2)に発行された尾張屋清七版切絵図「本所絵図」。当時は、すでに亀戸村「矢場耕地」は錦糸堀とともに埋め立てられ、四ツ目通りをはさんで酒井家の下屋敷となっている。
◆写真中下:徳島県の山地を横切る吉野川沿いにできた渓谷で、大歩危(左)と小歩危(右)。おそらく、「ボケ」と発音するようになってからは江戸期などに多彩な付会も生まれていることだろう。
◆写真下:左が、わたしの学生時代に比べ2倍以上に拡幅され街灯も増えた下落合4丁目のオバケ坂。昔は道の両側から薮が生い茂り、路面さえよく見えなかった細坂を夜間に何度も通ってアパートへ帰ったけれど、ろくろっ首のご新造さんにも幽霊のお姉さんにも、はたまた美人ののっぺらぼうにも残念ながら出会えなかった。右が、目白学園の近くで旧・下落合4丁目の西端にあるバッケ坂。