古川ロッパ(緑波)といえば、戦前はエノケン(榎本健一)と並んで日本の喜劇界の大御所のような存在だった。わたしの親の世代なら、おそらく知らない方はひとりもいないだろう。古川ロッパの弟子筋には、森繁久彌Click!や山茶花究をはじめ、そうそうたるメンバーたちがいる。古川ロッパは、昭和初期から戦後にかけて、その全盛期を上落合で暮らしていた。
 ロッパは、戦後からしばらくは「大熊公園」と呼ばれていたらしい、現在の上落合公園(上落合444番地)の南西隣り、昭和初期に実施された地番変更の前にふられていた住所でいうと、上落合(2丁目)670番地に住んでいたと思われる。ロッパの家から、細い通りをはさんですぐ前隣り(東側)、上落合470番地には朝日新聞社に勤務し戦後はリーダーズダイジェストを発行することになる、『落合町誌』(1933年)にも同新聞社の整理部長として掲載された3階建ての鈴木文四郎邸があり、古川家とは親密な交流をしている。そのさらに東隣り(上落合469番地)には、近所の人々から「アカの家」と呼ばれていた小さな家に、戦後は衆議院議員になる神近市子Click!が1931年(昭和6)前後に住んでいる。これらの住所は、1935年(昭和10)前後に実施された上落合の地番変更で大きく変わっているので、この記事では昭和初期の地番をベースに記述していきたい。
 古川ロッパは、上落合のこの家から東京市街のさまざまな劇場公演や映画撮影、あるいは地方公演へと出かけている。そのほとんどが、迎えのクルマや円タクClick!に乗って出かけているので、西武線の中井駅Click!を利用することは少なかった。でも、日中戦争が激しくなり日米開戦も近づくころから、「贅沢ハ敵ダ」の国策標語が社会生活に浸透してきたせいか、中井駅から省線・高田馬場駅へと出ることが多くなっていく。当時の様子を、1987年(昭和62)に出版された『古川ロッパ昭和日記-戦中篇-』(晶文社)の、昭和16年1月11日(土)の記述から引用してみよう。
  ▼
 昼食の会、早目に出て、中井駅へ、その道を間違へて遠廻りしてしまった。高田馬場で下りて円タクを拾はうとしたが、これが無し、情ない思ひで立ってゐること十何分、漸っと来た。
  ▲
 通いなれない中井駅までの道をまちがえ、遠まわりをしてしまった様子が記録されている。太平洋戦争がはじまると、送迎車やタクシーが徐々に利用できなくなり、中井駅から電車を利用する頻度が増えていく。1945年(昭和20)3月10日(土)の東京大空襲Click!では、鈴木文四郎邸の3階から下町一帯が燃える様子を、ロッパは徹夜で呆然としながら見つめている。自身が出演していた多くの劇場が、この一夜でほとんど灰になってしまった。このあと、ロッパは東京での公演が減り、地方公演へ頻繁に出かけるようになる。それは、地方の焼け残った劇場での舞台公演もあるが、炭坑や工場など「生産部隊」現場への慰問公演も少なくなかった。
 
 
 当時、ロッパが出演する舞台の入場料は2円が相場だったが、日米開戦後は戦費捻出のための税金が100%(+2円)課税され都合4円になっていた。ところが、1945年(昭和20)4月1日(日)からは、さらに200%(+4円)の税金が課されることになった。当然、公演を見にくるお客はガタ減りで、事実上、国民の娯楽は当局により圧殺されていく。
 1945年(昭和20)4月13日の、鉄道網や川沿いの工場地帯をねらった第一次山手空襲Click!では、ロッパの家とその周辺はかろうじて延焼をまぬがれている。そのときの様子を、昭和20年4月13日(金)に記された『古川ロッパ昭和日記―戦中篇―』から引用してみよう。
  ▼
 又、敵機来、ドーン、ザゞザゞッといふ音。すぐ近くらしい、出てみると、かなり近いところ、日本閣の手前、国民学校の裏へ落ちたらしく、新な火がメラメラと来た。全く四方火に包まれてゐる。幸にも風向きが違ひ、正に助かった。そのうち、空解のプー。母上等も直と共に、家へ引揚げ。僕、少し残って、新手の火の外れたのを見届けて、帰る。中井よりは遠いと思ってた火は、正に中井駅だった。而も川を越えて、こっちの角のポムプ屋迄焼け、今や残火がめらめらと燃えてゐるところ。家へ引帰(ママ)すと、桜山の方の火が、ひどくなって、火の子(ママ)が庭へふりかゝる。火たゝきで消して歩く。鈴木さんの奥さんが、三階の窓から観測してゐるので、行って僕も見る。その頃から、火の子がこっちへ来なくなり、北風になって、あっちへあっちへと燃え出した。鈴木さん夫人曰く、「この辺は、ほんとに何て不思議なんでせう」と驚いてゐる。神の加護、これで家は助かった。
  ▲

 
 しかし、「神の加護」も長くはつづかなかった。ほぼ1か月後、同年5月25日(金)の第二次山手空襲Click!で、古川ロッパ邸は東隣りの鈴木邸ともども、あっけなく炎上してしまった。ロッパは、上落合の自宅焼失を公演先の仙台で、5月27日にとどいた電報から知った。ただし、家族はすでに同年3月に疎開させていたので、家族の安否を気づかう必要はなかった。同日記から電報を受け取った直後、昭和20年5月27日(日)の記述から引用してみよう。
  ▼
 うーん、家がなくなったか----然し、何だか本当のやうな気がしない。あの玄関、あの廊下、茶の間、二階机辺、本が惜しかった、一冊も疎開させなかったのが口惜しい。情ないぞ、家なしだ。
  ▲
 ロッパが地方公演や、家族たちの疎開先へ立ち寄ってから東京へともどり、中井駅へ降り立ったのは翌々月、7月3日(火)になってからだった。上落合は、一面の焼け野原になっていた。
  ▼
 省線、高田馬場へ。通勤時は一般に切符売らぬことになったので、ガラ空き。中井下車。大庭が、あすこに家のバラックが見えますと言ふが、見当がつかない。一望の野原。あゝ、うちが此処だよ、ちゃんと門から入らう。門柱のみ立ってゐる。先日の写真で分ってゐるから、意外な気はしない。白黒を、今度はテクニカラーで見るだけのもの。焼跡のバラック、六畳ばかりのが建って(金鹿君の骨折りで材料来り、高木といふ隣組の大工さんが建てた)大庭一家が棲んでゐる。なほが、壕内にゐて、「お帰り遊ばせ」。うーん、これがわが家の姿であるか。なァーうーん、である。
  ▲
 古川ロッパの邸は、当時は一般的だった借地の上に建てられており、地主は南西へ150mほどのところに住む、1933年(昭和8)に出版された『落合町誌』にも収録された、上落合698番地の荒川角次郎だった。(次世代になっていたかもしれない) 荒川邸の周囲2~3軒は、空襲Click!の延焼からも奇跡的に焼け残っており、1947年(昭和22)の空中写真でも島状に残った家々が確認できる。ロッパは焼跡のバラックから、荒川邸を何度か訪ねており世話になっていたようだ。荒川家では、焼け残った自宅をベースに、焼け出された借地人たちの面倒をなにかとみていたのだろう。

 
 古川ロッパは、どちらかといえば山手のインテリ好みの喜劇人で、エノケンは下町の庶民的な人気が高かったとよくいわれている。でも、うちの親父はどちらが好きだったともいわなかった。どちらの持ち味も甲乙つけがたく、ふたりとも好きだったのかもしれない。

◆写真上:画面の左側が、上落合公園に隣接した古川ロッパ邸の上落合670番地界隈。
◆写真中上:上左は、1941年(昭和16)に撮影された『家光と彦左』の古川ロッパと長谷川一夫(右)。上右は、1947年(昭和17)の『ススメフクチャン』で中村メイコ(右)と。下左は、1929年(昭和4)の落合町市街図にみる上落合670番地とその周辺。下右は、上落合469番地の神近市子。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)3月18日に上落合の自宅で撮影された疎開直前の家族らとともに写る古川ロッパ。下左は、1942年(昭和17)に撮影された高峰秀子Click!とのツーショット。下右は、戦時中にロッパが頻繁に往来したと思われる上落合の自宅前通り。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)に撮影された古川ロッパ邸界隈で、上落合698番地のポツンと島状に焼け残ったところが地主の荒川邸。下左は、『落合町誌』に掲載された荒川角次郎。下右は、ロッパやエノケンの映画もたくさん上映されたと思われる上落合521番地の公楽キネマで、上落合郷土史研究会が1983年(昭和58)に出版した『昔ばなし』より。