暑い日々とセミしぐれがまだまだ止まらないので、夏の余韻に怪談でも・・・。1893年(明治26)12月25日に、浅草は花屋敷奥山閣の広間で、とある集会が開催された。みやこ新聞を主催していた条野採菊(伝平)が開いた、世にいう明治の「百物語の会」だ。このとき奥山閣に参集したのは、怪談の名手だった噺家の三遊亭円朝Click!をはじめ、五代目・尾上菊五郎Click!、三遊亭円遊、南新二、金屋竺仙、西田菫坡など10名ほどの語り手たちだ。
 百物語の怪談会は、江戸期から街中でもしばしば行われていたが、明治に入ってからの本格的な開催は、このときが初めてだったのではないか。いまでは広く知られているけれど、それぞれが怪談話を持ち寄っては語りだし、1話終わるごとに100本灯した蝋燭の火を1本ずつ消していくという趣向だった。そして、100話目が終わり最後の蝋燭が吹き消され、あたりが闇に包まれたとき、なにかしらの怪異現象が起きるというのが定説だ。
 今日では、ホンモノの幽霊が出現するとか、その場にいた全員がなにかに取り憑かれて呪われ、祟られるので憑物落としが必要だとか、おどろおどろしい事態が招来することになっているのだが、明治を迎えた当時の様子はちょっと・・・というか、だいぶちがっていた。100話を語り終えたあと、暗闇の中でいったいなにが起きると思われていたのか、このときの百物語が本にまとめられ、1894年(明治27)に扶桑堂から出版された『百物語』(国書刊行会版)の「百物語の序」から引用してみよう。ちなみに、花屋敷奥山閣での百物語は同年1月4日から2月27日にかけ、みやこ新聞に連載されたのだが、のちに小泉八雲Click!が『怪談』(1904年)の種本にしたことでも有名だ。
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 古来、百物語なるものあり。その法を聞に、曰く、「百個の燈火を点じ置き、一人怪談をなし終る毎に、その一燈を吹消し、漸次その百燈を吹消せば、則ちその真黒暗となると同時に、忽ち箪笥に目鼻が附て、『これは何だんす』と洒落出し、鏡台が洋刀(サーベル)を揮廻して『鏡ダーイ、進めエ』と号令を掛け、あるいは足駄が木歯を出して、ゲタゲタ笑い、あるいは傘に手足が生て、カサカサ這廻る等、実以て、奇々妙々、不思議千万、本当にそうなら怖かんべエ、とも謂つべき程の化物屋敷となる」と云い伝う。これ、真に云い伝うるのみ。
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 ・・・と、百物語を完全に茶化Click!したシャレ飛ばしのように書かれている。今日なら失笑をかいそうなオヤジギャグの連発だが、これは当時の文明開化の風潮を色濃く反映した表現なのだろう。江戸期から巷で語られてきた怪異現象や怪談、妖怪譚の類を、すべて「神経のせい」(気のせい)の世迷言(よまいごと)として全否定した、哲学堂Click!の井上円了Click!と同様の視線が垣間みえている。世の中、科学で解明できないことや不可能なことは存在しないのであり、幽霊や妖怪を目撃したり語ったりすることは、旧幕時代の無知蒙昧がなせるワザ・・・とする科学至上主義の視線だ。したがって、百物語の会などチャラチャラおかしいのだが、江戸時代の雰囲気をノスタルジックに味わうのもまた一興・・・といった、どこかオチャラケ気分を漂わせながら序文は書かれている。
 
 確かに、笑ってしまう百物語もあったようで、ひとりの語り手が5分間話して蝋燭を消すと、100話語り終えるまでに最短でも8時間はかかる。途中で休憩や、トイレタイムをはさめば9時間近くはかかってしまうだろう。落語じゃないが、夏の夜に涼を求めて語られはじめた百物語が、明け六ツになっても終わらず、翌日の太陽がさんさんと降りそそぐ昼ごろになって終了し、100話目が終わるころには暑さで全員が卒倒した・・・なんて、オバケならぬオバカな呪い(のろい)話もあったりする。怪異は熱中症の祟りとなって顕在化したわけだが、怪談は夏が相場と決まっているのに、百物語の催しが冬のもっとも日が短い時分をねらって開かれるのは、最後の蝋燭を吹き消すと同時にコケコッコーと、周囲が明るくなるようなオバカな事態を避けるためだ。
 花屋敷奥山閣で三遊亭円朝が披露した怪談は、地元新宿が舞台となっているめずらしい噺なのでご紹介したい。円朝は第十席を語っており、みやこ新聞には1894年(明治27)1月6日に掲載されている。物語は、内藤新宿の坂下にあった法華寺の和尚が、貸座敷の「玉利屋」へ通いつめるところからはじまる。貸座敷とは、江戸期に岡場所として有名だった内藤新宿の飯盛り女のいる「旅籠」(遊女屋)のことで、1873年(明治6)から明治政府による「貸座敷渡世規則」の発布により、娼妓に座敷を貸す「貸間業」という建て前の経営形態に変わっていた。

 和尚は、玉利屋へ頻繁に通って借金をつくり、しまいには首がまわらなくなって自殺するのだが、その後、遊女に未練を残したものか玉利屋には夜な夜な和尚の幽霊が化けて出るようになる。玉利屋では、幽霊が出るというウワサが広まっては商売に差し障るので、明治紳士の田川という代言人(弁護士)に相談する。田川は、文明開化の世にそんなことがあってたまるものかと、玉利屋にひと晩泊まりこんで確かめてみることになった。やがて、夜も更けてくると行燈の灯りがだんだん暗くなり、いまにも消えてしまいそうになる。「これは不可(いか)ン」と、蝋燭を何本か灯して明るくするが、やはり少しずつ暗くなって陰気になる。そのあとの様子を、円朝噺から引用してみよう。
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 「これは不可(いか)ン。余程変だ。予は帰る」と下へ参って時計を見ると、モウ一時でございます。流石(さすが)の田川先生も、途中も気味が悪いという念も出る。玉利屋でも是非泊ッて往(いけ)と申すので、風通しの好い下座敷へ、蚊帳を釣ッて寝ました。スルと、蚊帳が自分の身体へ巻附く様でございますから、「大概風の為めに、蚊帳が巻附くのであろう」と思いますから、手を延して、向うへ蚊帳を押ますと、間も無く又、元の通りに蚊帳を押て参るから、田川先生も弥々(いよいよ)変だと存じて、首を揚げて密(そっ)と見ると、真ッ黒な細長い手で、蚊帳を押ておッたから、この時には流石の田川さんも、慄(ぞっ)と致したそうでございます。
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 結局、田川先生は驚愕して蚊帳から逃げだしたのかもしれないが、円朝の噺はここで唐突に終わっている。寺々が建てこむ内藤新宿の法華寺とは、いったいどの寺のことだろうか?
 
 明治期には、ほとんど嘲笑するかのように聞かれていた百物語だが、それから100年あまりの時がすぎてもいっこうに消滅することなく、逆に各地で盛んになっている印象さえおぼえる。しょせん「神経のせい」(気のせい)であり、科学の発達とともにとっくの昔に清算されてもよい幽霊譚が、根強く21世紀まで語られつづけているのは、人間がまさにその「気」持ちによって生活を大きく左右され、世の中を生きているからではないだろうか。
 三遊亭円朝が今日生きていたら、おそらくあちこちから引っぱりだこだったのではないかと思われる。円朝のことだから、目新しい都市伝説も語っていただろう。最近、怪談のうまい噺家がいない。

◆写真上:新宿の内藤駿河守屋敷跡(現・新宿御苑)で、手前の池は玉川上水を引いた玉藻池。
◆写真中上:左は、1930年(昭和5)に制作された鏑木清方『三遊亭円朝像』。右は、1918年(大正7)制作の上村松園『焔(ほのお)』で描かれているのは源氏物語に登場する生霊。
◆写真中下:明治末に撮影された浅草花屋敷で、右手に見えているのが奥山閣の塔部。
◆写真下:左は、みやこ新聞に連載された三遊亭円朝「百物語・第十席」の挿画。右は、内藤新宿仲町の代表的な寺院である太宗寺に安置されている閻魔大王。