1943年(昭和18)に同盟出版社から出版された、井原豊明・著の『日本鉄道物語』という単行本がある。日本における鉄道敷設の経緯や、陸軍鉄道連隊Click!の資料類として目を通した1冊だ。日本に鉄道が導入されてから、1943年現在にいたるまで、鉄道システムの概要を記録した良書だと思う。蒸気機関の発明にはじまり、当時計画中だった東海道線と並行して走る予定の、「夢の超特急列車」の計画までが紹介されている。
 本書は、中学生以上から大人までが楽しめる内容となっており、客車や貨物車の車両記号や重量記号の詳細から、ダイヤや運行管理の実際、機関車や車両内外の機構、信号機や踏み切り、転轍器などのしくみ、鉄橋やトンネルなどあらゆる鉄道設備に関する解説にいたるまで、鉄道ファンにはおそらくたまらない内容だろう。まるで、鉄道員養成のための初級テキストのような趣きだ。図面や図版類も豊富に掲載され、本書を読むことで単に鉄道を抽象的に理解するのではなく、その機構やシステムまでが具体的に理解できる入門書となっている。
 ところが、この本を読んでいて奇異に感じたことがある。そのひとつめは、鉄道の設計や開発、運用管理で当時世界をリードしていたイギリスや米国、フランスなどの発明家や技術者たちの才能や努力を、ためらわずに称揚している点だ。もちろん、1943年(昭和18)といえば、日本は「鬼畜米英」「撃チテシ止マム」の太平洋戦争の真っ最中であり、英米仏は敵国にあたる。ましてや、敵国の発明家や技術者が開発あるいは改良した鉄道技術を、否定的にとらえるのではなく彼らの名前を出して称揚する内容は、どう考えても「時局に合わない」のだ。
 たとえば、米国の技術者ジャニーが発明した自動連結器については、次のように解説している。
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 この自動連結器は、西暦一八七〇年に米国人ジャニーが初めて作つたもので、それをだんだん改良して、今日のような立派なものにしたのです。我国では、最初米国製のシャロン式、アライアンス式、日本製の坂田式を採用しましたが、今日ではその後に出来ました柴田式が一番多く使はれてゐます。
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 本書では、いくら鉄道がイギリス生まれとはいえ、ドイツの技術はほんのわずか(1~2箇所)しか紹介されておらず、ほとんどが英米の技術にシフトした内容で書かれているのも、「時局」を考慮すればとても不思議な感触だ。『日本鉄道物語』が出版されたのは1943年(昭和18)11月、つまり、年明け早々にはガダルカナル島から撤退し、やがてアッツ島の守備隊は全滅してキスカ島からは撤退、本書が店頭に並ぶころにはタラワ島の守備隊が全滅と、戦況は不利になる一方だった。そのような時期に、本書は当局による検閲をパスして出版されていることになる。
 
 本書の検閲は、1943年(昭和18)の前半に行われているものと思われ、いまだ前年の「連戦連勝」気分がどこかに残っていたころではないかと思われる。出版における検閲や規制も、切羽詰まった戦争末期に比べれば相対的に緩やかだったのではないか。
 あるいは、当局による検閲の“網の目”が戦争末期ほど厳密ではなく、そんな“網の目”をくぐり抜けて出版されてしまったのが本書なのだろうか。わたしのみならず、欧米人の社会や文化、生活、習慣までをも全的に否定するのがあたりまえだった当時、本書をリアルタイムで手にした読者たちも、「おや?」と首をかしげたのではないだろうか。
 もちろん、「大東亜戦争」遂行に関して肯定的に触れた箇所もあるのだが、本書のボリュームからすればきわめて少ない。しかも、とってつけたオマケ的な表現となっている。わたしが通読した限り、「大東亜戦争」に関する勇ましい記述は「はしがき」と「あとがき」を除くと、わずか数箇所しか見あたらない。たとえば、1942年(昭和17)の関門トンネル開通にからみ、東京駅から長崎駅あるいは鹿児島駅まで特急列車が走るようになった経緯を、次のようなニュアンスで記述している。
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 遠い昔の人でなくとも、誰がこの海底をくゞる旅行ができると考へたことでせう。しかも大東亜戦争といふ今まで考へも及ばなかつたやうな大戦争中に、赫々たる戦果をあげながら、又このやうな大工事をなしとげました日本人の偉さに、今更ながら驚くではありませんか。
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 この謙虚さをなくした自惚れが高じて、のちに壊滅的で「亡国」寸前のひどい目に遭うのだが、うがった見方をすれば、本書は1941年(昭和16)12月8日以前から企画されているのであり、脱稿したときには、すでに英米を相手に無謀な戦争をはじめてしまっていた・・・ということなのかもしれない。でも、鉄道の発明やさまざまな優れた改良技術に関しては、英米仏の記述を削除してしまうわけにはいかない。そこで、「はしがき」と「あとがき」へ時局に合うような文言を並べ、本文中には「大東亜戦争」遂行のお題目と国威発揚の文章をほんの少し付け加え、当局の検閲官を説き伏せて出版してしまったのではないだろうか。
 もうひとつ、本書を読んでいて奇異に感じたのは、鉄道のさまざまな設備や、それが動作するしくみと意味、旅客列車や貨物列車に連結された車両の識別のしかた、列車運行システムに関する実際、すでに自動化が行われていた各種装置の内容など、こと細かに記述されている点だ。本書を参考に、線路へ設置された自動信号装置や転轍装置を破壊すれば、部隊移動や物流の動脈を少なからず混乱させることができる。つまり、「スパイ」にとってはまことに好都合な資料として、また破壊工作用の参考書として、役立ちそうな情報を満載しているということだ。
 本書の「あとがき」には、文字どおり取って付けたような以下の文章が記載されている。
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 鉄道は、今や決戦下日本の大動脈として、戦争に必要な物資や人の輸送に、すばらしい大活躍をしてゐるのです。この戦時輸送の大任を果すためには、何十万といふ鉄道従業員が、夜も昼も休みなく、あらん限りの力を出して働きつゞけてゐるのです。
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 換言すれば、「これらの情報がスパイに悪用される怖れがある」というような検閲官による判断、あるいは出版社による自主規制がいまだ強烈に働かない時期に、本書は企画され、書かれ、出版されてしまったのかもしれない。おそらく、日米開戦前後から執筆がスタートし、「連戦連勝」の浮かれ気分が冷めやらないうちに検閲をパスし、1943年(昭和18)に店頭へ並んだのではないだろうか。

◆写真上:1943年(昭和18)に同盟出版社から出版された、井原豊明・著の『日本鉄道物語』。
◆写真中上:左は、当時の最新式蒸気機関車C59。右は、東京から下関へ向かう特急「さくら」。
◆写真中下:左は、操車場内の三位式場内信号機。右は、線路に設置された空冷式転轍器。
◆写真下:左は、車両重量の記号と列車編成時の記号記載による表現例。右は、深い渓谷へ線路を通すバランスド拱構橋による鉄橋工事の様子。