戦前は、写真館へ出かけ家族や友人同士でポートレートを撮るというのが、ごくあたりまえに行われていた。カメラがいまだ高価だったせいもあるのだが、やはり「正式」で改まった写真館の記念写真と、「手軽」なスナップ写真とでは、用途や“重み”が自ずとちがっていたのだろう。カメラの性能も、写真館のプロ仕様のものと一般のコンシューマ向けの製品とでは、雲泥の差があった時代だ。どこか旅行へ出かけるとき、きちんとした記念写真を残したいので写真師を同伴した・・・なんて話も、大正期から昭和初期にかけては聞いたりする。
 下の写真は、伊豆大島へ遊びに出かけた親父の親族たちだが、このとき日本橋人形町にあった写真館のカメラマンを同行している。写真館の主人を連れていったりすれば、店を閉めなければならないので、もちろんサブのカメラマンか助手を同行したものだろう。当時の写真館は、カメラマンを派遣するのも重要な業務のひとつで、以前こちらでご紹介した池田象牙店前Click!の江木写真館Click!による濃尾大地震Click!の記録写真などもそのケースだ。
 時代は、1941年(昭和16)の日米開戦直前の大島三原山と思われ、後方には噴煙を上げる火口が写っている。手前にいるのが、府立中学へ進学して間もないころの親父だ。うちは女系家族なので、親父以外はすべて女性だけ(カメラマン除く)の物見遊山だったらしい。「贅沢ハ敵ダ!」という標語が叫ばれていた時代、少し派手めの着物や洋服で歩いていると、駅の改札口などでたすきがけに割烹着姿の国防婦人会から「服装が派手だ!」などと、1960年代中国の文化大革命時のような、「大きなお世話」注意を受けるような、余裕のない殺伐とした世相だった。カラー写真でないのが残念だけれど、写っている女性たちは「バカをお言いじゃないよ、なに言ってるのさ」とばかり、みな着飾っての旅行だったようだ。「モンペなんぞ履くんなら、いっそ洋装でズボンだ」と、最後まで不格好なモンペを拒否した日本橋の女たちが写っている。そんな中で唯一、中学生の親父だけがまるで“免罪符”のように、カーキ色の国民服を着てゲートル姿なのがどこかおかしい。親父の役割りは、いつの時代でも彼女たちの口実づくりClick!や“免罪符”だったようだ。

 
 下落合にも写真館はいくつかあったが、大正期に開業していた小泉写真館と辻井一柳堂は、以前こちらの記事でもご紹介Click!している。下落合の向かい、目白通りをはさんだ長崎地域にも、地元の人たちにはお馴染みの写真館が開業していた。小川薫様Click!がお持ちのアルバムによく登場している作品は、長崎町4119番地に開業していた富士美写真館Click!によるものが多い。それは、小川様の実父である上原慎一郎様が一時期、富士美写真館へ勤めていたせいもあるようだ。同写真館が撮影したとみられる記念写真も残っているが、写真館のスタッフを撮影したポートレートや、スタジオで撮られたモデル写真などが残されているのがとてもめずらしい。
 富士美写真館は、昭和に入ってからは長崎南町3丁目4119番地、1939年(昭和14)4月からは椎名町5丁目4119番地となる、目白通りに面した一画に開業していた。わたしが学生時代、親元から独立して最初に借りたアパートのすぐ近くだ。目白通りを目白駅方面へ向かって歩けば、ほどなく小野田製油所Click!の前を経て、すぐに長崎バス通りClick!(目白バス通り)の二又交番にさしかかる。富士美写真館は、椎名町界隈の情景ばかりでなく目白通り(当時は葛ヶ谷通り)の向かい、落合府営住宅Click!や目白文化村Click!が建ち並ぶ下落合の風景も写していたのだろうか。
 当時の写真師(カメラマン)は、みなベレー帽をかぶっていた。これは下町も山手Click!も同様で、戦前の集合写真などでベレー帽をかぶっている人物が写っていると、たいがいプロの写真師のケースが多い。新たな芸術分野である写真に、絵画にはないまったく新しい表現の可能性を見いだして、興味をおぼえた人々がたくさんいたのだろう。
 
 
 手持ちのカメラで撮影したらしい、富士美写真館のスタッフがとらえられた画面には、いまの写真にはないセピア色のやわらかな光があふれている。また、スタジオで撮影されたモデルの写真も何点か残されている。いつも同じモデルのようなので、ひょっとすると写真館で働いていた女性か、あるいはスタッフの妹なのかもしれない。中には、大胆な水着姿の作品もあって、ひょっとすると写真館のショーウィンドウを飾っていたものか。いま風にいうなら、昔日の椎名町あるいは下落合界隈の「グラビアアイドル」ということになる。
※この記事を書いた直後に、東京写真工芸社の現当主・佐藤仁(ひとし)様のもとへお邪魔して、いろいろお話をうかがった。ここに写っている方ご本人がご健在だったので、その物語は後日、改めて記事でご紹介したい。なお、「グラビアアイドル」として掲載したかった水着写真の女性は、「たぶん、本人はイヤだっていうよ~」という佐藤様の言葉で残念ながらカットした。
 水着姿を写真館で撮影するのは、当時としてはそれほどめずらしくなかったようで、わが家にも人形町のスタジオで撮影されたと思われる、小学生ぐらいの親父の写真が残っている。白砂青松の海辺を描いたホリゾントをバックに、浮き輪を手にした海水浴スタイルの記念写真だ。日本で初めて海水浴場が開設された湘南・大磯Click!にも、渚の近くには写真館があって別荘の住民や、避暑に訪れる観光客相手に仕事をしていたのではないだろうか?
 街中の写真館は、戦争も末期が近づくと出征する兵士たちや米軍の空襲Click!にさらされる街々の、貴重な光景Click!を記録することになる。住民たちの顔見知りだった、近所の写真館カメラマンは、戦時下にカメラを構えていても比較的とがめられることが少なかった。
 
 東京では繰り返される空襲により、それらの写真類は焼けてしまったケースも多い。わが家の戦前写真も東京大空襲Click!であらかた焼失している。残ったのは、親父の手元にあったたった1冊のアルバムだけだ。富士美写真館(現・東京写真工芸社)は戦災Click!をまぬがれているので、椎名町・落合界隈を写した戦前・戦中の貴重な記録写真が残されているのではないだろうか? 小川様のアルバムには、戦前・戦中の写真がまだたくさん保存されているのだが、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:椎名町5丁目4119番地(現・南長崎3丁目)にあった富士美写真館の現状で、名称は変わっているが写真館は創業85年の「東京写真工芸社」として健在だ。
◆写真中上:上は、1941年(昭和16)に三原山で撮影された記念写真。下左は、1925年(大正14)に作成された下が北の「出前地図」に収録された長崎村4119番地の富士美写真館(佐藤様)。下右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同写真館。
◆写真中下:富士美写真館のスタッフとみられる人々で、女性を除いてみんなベレー帽を着用。
◆写真下:同写真館の作品で、撮影見本としてショーウィンドウを飾ったものもあるだろう。(この部分に、水着姿の「グラビアアイドル」をご紹介予定だったのだが、残念!)