先日、旧・椎名町5丁目4119番地(現・南長崎3丁目)にある東京写真工芸社(旧・富士美写真館Click!)へお邪魔してきた。小川薫様Click!のアルバムに、いろいろなバリエーション写真が残されている若いスタッフこそが、まさに同写真館の現主人である佐藤仁(ひとし)様だった。小川様の実父である上原慎一郎様と佐藤仁様は、先代の写真館当主の兄弟弟子ということになる。落合地域や長崎地域で、古い写真にとらえられた人物に、実際にお会いできるのは稀なケースだ。
 東京写真工芸社で取材をさせていただいている最中、「孫の七五三写真をお願いしたいのだけれど・・・」と女性のお客様がみえたので、さっそくお話を聞かせていただくと、なんと「50年前、わたしの結婚式の写真も、ここにお願いしたのよ!」ということだった。前回の記事にも書いたけれど、文字どおり地域に根づいた昔ながらの写真館だ。
 長崎(椎名町)地域、あるいは目白通りを隔てた下落合地域(現・中落合)の方々は、昭和初期から富士美写真館を利用されているのだろう。佐藤仁様のお父様、佐藤孝様(前回の記事にも掲載している同写真館の初代当主)が、長崎町4119番地(現・南長崎3丁目)に写真館を開業したのは、1926年(昭和元)のことだった。いまだ佐伯祐三Click!が、キャンバスに画道具を抱え、『下落合風景』Click!のモチーフを探しながら、落合地域をあちこち歩きまわっていた時代だ。
 
 
 佐藤仁様に小川様のアルバムをお見せすると、写真に写る人たちの名前を次から次へとスラスラ答えられたのにはビックリしてしまった。面白いお話をたくさん聞かせていただいたのだが、今回は前の記事でご紹介した、出征兵士が参詣する社(やしろ)Click!について書いてみたい。撮影された境内と社殿は、まちがいなく長崎神社Click!(旧・長崎氷川明神社)だ。上部が画面からはみ出ている鳥居は、同社の三の鳥居で、奥に見えている建物が拝殿だ。だが、長崎神社は戦災Click!で焼けなかったにもかかわらず、現在とは屋根の意匠がまったく異なっている。
 これには、笑いごとではないのだが、つい笑ってしまう理由(わけ)があった。戦後、社殿の建物が傷んできたため、長崎神社では拝殿と本殿ともに全体を補修することになった。そのリフォームの仕事をF建設に依頼したところ、さっそく解体・修復・復元作業がスタートした。でも、内部のリフォームが終わり、屋根瓦を再び葺こうと思ったら、拝殿前面の唐破風のついた屋根を二度と復元できなかったのだ。どこか、時計を分解してもう一度組み立てるのだが、部品が余って結局復元できずに壊してしまう、子どもの悪戯を思い出してしまった。w
 
 
 
 すなわち、元の形状に修復・復元できる昔の技術をもった屋根職人(瓦職人)が、もはや戦後のF建設には存在しなかったのだ。したがって、現在のような破風の存在しない、シンプルな屋根に改造されてしまったというわけだ。いまなら、伝統的な建築技術や工法を意識的に学び、保存している団体や建設会社もけっこうあるので、それほど困難な復元作業のようには思えないのだけれど、当時はそのような意識がいまだ希薄な時代だったのだろう。現代なら、元どおりに復元できたのではないかと思うと、ちょっと残念な気がする。
 出征兵士の背後に写っている鳥居は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第二次山手空襲Click!でバラバラに倒壊することになる(爆風だろうか?)、長崎神社の花崗岩で造られた三の鳥居だ。1917年(大正6)に奉納された、現在は社入口にある一の鳥居とおそらく同じころの建立だろう。戦災で倒壊した三の鳥居の痕跡を求め、改めて長崎神社を訪ねてみたら、われながら思わず呆れてしまった。一の鳥居をくぐったエリアに、以前からずっと何度も目にしてきたにもかかわらず、散らばる三の鳥居の残骸に気がつかなかったのだ。
 三の鳥居は、いまでも境内のあちこちで見ることができる。その背景となる物語をまったく知らないと、そこに置かれた“記念物”Click!の価値や意味がわからず、単なる石ころとまったく変わらずに眺めていたことを改めて痛感したしだいだ。出征参詣に写る子どもと同様に、わたしはこれまで何度も三の鳥居の基部(台石)、あるいはバラバラになった柱をベンチがわりにして腰かけていた。
 
 
 佐藤仁様は、1945年(昭和20)4月13日夜半の第一次山手空襲Click!のとき、目白通りの反対側から目白文化村Click!の空襲Click!と、目白通りへと迫るその延焼による火災を目撃されているのだが、それはまた、別の物語・・・。「面白い話が、まだいっぱいあるんだよ」と、佐藤仁様が帰りがけに言われたので、また近いうちにぜひお邪魔したいと思っている。長崎アトリエ村のひとつ、桜ヶ丘パルテノンClick!で暮らした画家たちの様子も、リアルタイムで目撃されているかもしれない。

◆写真上:出征兵士の参詣写真と、ほぼ同じ撮影ポイントからとらえた現在の長崎神社。
◆写真中上:富士美写真館(現・東京写真工芸社)の人々で、現当主の佐藤仁様(上)と初代当主の佐藤孝様(下左)。下右は、風見鶏の看板ですぐにわかる現在の同写真館店頭。
◆写真中下:上左は、小川薫様のアルバムから出征兵士が参詣する長崎神社。上右は、シンプルになってしまった拝殿の屋根。中左は、出征兵士写真の三の鳥居基部の拡大。中右は、現存する三の鳥居基部(台石)。下は、境内のあちこちに置かれた三の鳥居の残骸。
◆写真下:上左は、大正中期に撮影されたとみられる長崎神社で、1917年(大正6)に建立された一の鳥居と木製の二の鳥居は確認できるが三の鳥居は確認できない。上右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる長崎神社で、道をはさみ境内左手に見える923番地の建物が帝国銀行椎名町支店Click!。下は、出征写真の灯籠と戦災の傷跡と思われる補修跡が残る現存の灯籠。

★1962年(昭和37)現在の、長崎神社の拝殿写真が手元にあった。樹木の枝が重なってわかりにくいが、いまだ拝殿の屋根正面には唐破風が備わっているのがわかる。ついでに、神社本庁が出版した『神社名鑑』(1962年)から、長崎神社をご紹介したい。
「古来稲田姫命一柱を祀り氷川神社と称え、豊島郡長崎村の鎮守なり。享保年間世俗に十羅利女社とも称へられしが、天明年間真言宗金剛院別当となる。明治五年村社に列格せられ同七年須佐之男命を合祭して長崎神社と改称す」
長崎神社が、下落合の氷川明神とまったく同様に「女体宮」だったことがわかる。『神社名鑑』は、以前にも書いたけれど明治政府が日本古来の神々を適当にいじくりまわし、あるいは都合の悪い神々を「神社合祀令」Click!で抹殺したバチ当たりな経緯を、かなり正直に告白記録しているのだが、「古来」から「氷川神社と称え」は明らかにウソで、「神社」(ジンジャ=生姜みたいだ)という名称は明治政府が勝手に決めた、たかだか100年余の表現だ。古来より、「長崎氷川明神(社)」と称えて櫛稲田姫が長崎地域の崇敬を集めてきた・・・と書くのが的確だろう。