1919年(大正8)から、下落合540番地にアトリエを建てて住んだ大久保作次郎Click!は、いくつかの下落合風景を描いている。冒頭の風景画は、1955年(昭和30)に制作された『早春(目白駅)』と題する作品だ。カラー画像ではなく、モノクロしか存在しないのがとても残念なのだが、地元の方ならすぐにもおわかりのように、ここに描かれているのは目白駅ではない。
 モチーフに選ばれた丘上の住宅街は、現・下落合2丁目の近衛町が拡がる一帯であり、白いビル状の建物は当時の住所表現でいえば旧・下落合1丁目304番地に建っている元・学習院昭和寮Click!、1953年(昭和28)より日立目白クラブになっている建物だ。描画ポイントは、学習院キャンパス内にある血洗池Click!の谷間南西側の尾根上だが、そこにある遊歩道へイーゼルを据え、ほぼ真西を向いて描いている。斜面の下には、いまだ未舗装で拡幅される以前の椿坂Click!が描かれており、画面の右へ坂を上がれば目白橋と目白駅へ、左に下れば佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景(ガード)』Click!と雑司ヶ谷道(現・新井薬師道)へ抜けられる。この道は、大正期に目白貨物駅へ到着した甲斐産商店Click!の樽詰め大黒葡萄酒Click!が、馬車で下った坂道でもある。
 その椿坂に沿って、現在はほとんどが道路の拡幅とビル建設のために崩されてしまった山手線沿いの線路土手が、対岸の土手と重なるように画面には描かれている。手前の土手上には、戦前まで山手貨物駅の関連施設とみられる建物がいくつか建っていたのだが、1945年(昭和20)5月25日の第二次山手空襲Click!で破壊されて以来、目白貨物駅の廃止とともに再建されなかったようだ。山手線の線路は、手前と前方の土手の間を走っているが、この位置だと電車が通れば車体の上半分ぐらいは見えたかもしれないが、車両全体は見えなかっただろう。
 対岸の土手の向こう側には、日立目白クラブをはじめ下落合の丘上に建つ家々が見えている。この一画は、空襲による山手線沿いの絨毯爆撃を、奇跡的にまぬがれたエリアだ。でも、ここに描かれている目白崖線上の住宅街は実景ではなく、大久保作次郎による創作をまじえた“構成”だ。まず、いちばん手前に描かれている、どこか自由学園明日館Click!を連想させるライト風の住宅は、山手線と平行に走る下落合東端の急坂、わたしが勝手に「バッケ坂」と呼んでいる坂沿いに建っていた佐野邸Click!を、東側から眺めた情景だ。でも、旧・学習院昭和寮(日立目白クラブ)真東のこの位置に、佐野邸は存在していない。もっと、崖線を下った南側の斜面(画面では左手)なのだ。


 その様子は、1932年(昭和7)の低空飛行で撮影された昭和寮の空中写真からも、また戦後の1947年(昭和22)に米軍機によって撮影された空中写真からも確認できる。大久保作次郎は、椿坂をさらに下った位置から、おそらく山手線の土手に上って佐野邸を東側からあらかじめスケッチし、それを『早春(目白駅)』に描いた日立目白クラブの手前に配置したと思われるのだ。つまり、佐野邸を北へ十数メートル「移築」して描いていることになる。
 もともとこの位置には、やはり戦災から焼け残った和洋折衷と思われる武尾邸が、手前(バッケ坂の東沿い)に建っていた。さらに、武尾邸と重なるように同じく和洋折衷の大庭邸が、奥(バッケ坂の西沿い)に建っているはずなのだが、両邸ともまったく描かれていない。ただし、武尾邸から1段高い区画に建っていた純和風の建築とみられる岸邸は、かろうじて2階部と屋根が描かれているようだ。大久保は『早春(目白駅)』の制作上、武尾邸や大庭邸の意匠が気に入らなかったものか、すべて画面から消去し、かわりにライト風の佐野邸を「移動」して当てはめている。
 さて、かんじんの日立目白クラブの表現なのだが、その描写も正確ではない。本館と寮棟との分離が曖昧で、全体がひとつにまとまった建物のような表現で描かれている。煙突の位置も異なり、明らかに大久保の創造的“構成”が大きく入りこんでいる。描画ポイントと同じ位置から撮影された写真が残っていれば、画面とはかなり違う風景に見えるだろう。
 このほかに、下落合近辺を描いた大久保作次郎の風景画には、同じタイトルで『早春(学習院の庭)』(1948年)が現存している。この作品は、棕櫚の木立ちが印象的な血洗池付近、あるいはバッケ尾根筋の遊歩道を描いた作品だと思われるが、63年後の現在から詳細な場所の特定はむずかしい。画面中央のやや左手に、木々が映った水面の表現と思われる描写が見えるので、血洗池の周辺のような気がするのだが・・・。この作品も、カラーでないのが残念だ。

 
 
 さて、大久保作次郎と同じ大阪出身の小出楢重が、下落合540番地にあった大久保アトリエのごく近くに、「百姓家」を借りて住んでいたらしいことはすでに記事Click!へ書いたが、小出が晩年(昭和初期)に大久保作次郎のことを評した文章が残っている。1956年(昭和31)に発行された『造形-特集・大久保作次郎-』12月号(造形同人会)の「大久保君の印象」から、全文を引用してみよう。
  ▼
 十幾年前、私の母在世の頃、大久保君がよく遊びに来ました。あとで母は「どうや、大久保はんはいつもすつきりとして、まるでお殿様やなア」云つていつも感嘆しました。ついでに「お前もちと見習いなはれ」と申しました。母でさえ感服する許りの温厚なる色男だつたのです。/月日が経つた上に、西洋の寂莫と芸術で苦労したものか、最近はその顔に不思議な妖味を現して来ました。殊に目の位置が近頃だんだん上へ上へとせり上つて了つて、目の下何寸と云つて鯛ならねうちものとなりつつあります。/君の性格は母の云う如く殿様であり君子です。君子は危きに近よらずと申しますが、危きに、内心ひそかに近よりたがる君子で、危い所には何があるかもよく御存じの君子の様な気もします。とに角ものわかりのよい、親切丁寧、女性に対してものやさしき良い君子かも知れません。
  ▲
 大久保作次郎は、1953年(昭和28)に日立製作所が買収し、日立目白クラブClick!になったばかりの旧・学習院昭和寮を描いていながら、なぜタイトルに『早春(目白駅)』と付けたのだろうか? 画面には、目白駅Click!およびその施設はひとつも描かれていない。大久保の死後、誰かが付けたタイトルなら勘ちがいする可能性もあるのだが、『早春(目白駅)』は大久保生前の画集に同じタイトルで収録されているので、大久保自身が付加したタイトルなのだろう。

 
 うがった見方をすれば、キャンバスの裏に「早春」と書いたあと、「目白駅」とつづけて書いている途中で筆を止めるなんらかの事情が発生し、その下につづくはずの「附近」を書き忘れたまま展覧会へ出品してしまったものだろうか。展覧会の図録には、そのままのタイトルが印刷されてしまったので、のちの画集出版ともども追加訂正する機会をついに逸してしまった・・・。大久保作次郎のやさしそうな性格を考えると、そんな物語が浮かんできそうなのだ。

◆写真上:1955年(昭和30)に制作された、大久保作次郎『早春(目白駅)』。
◆写真中上:上は、画面に描かれている構造物や建築。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイントと画角で、実景とはかなり異なっていることがわかる。
◆写真中下:上は、1932年(昭和7)に撮影された学習院昭和寮の東側に建つ家々。戦災にも焼け残り、ほぼこのままの風景が東側から写生する大久保の眼前に拡がっていただろう。中左は、現在の同所を切手博物館のビルから撮影したもので、日立目白クラブは丘上に建つグレーのマンションの陰に隠れている。中右は、大久保作次郎がイーゼルを据えた描画ポイントから眺めた風景だが、おかしなことに手前に建つ学習院寮のため旧・学習院昭和寮(日立目白クラブ)はもっと見えない。下左は、下落合東端の「バッケ坂」で奥がグレーのマンション(武尾邸跡)で手前が佐野邸跡の敷地。下右は、背が高い3F建て現代住宅にも遮られ日立目白クラブはなかなか見えてこない。
◆写真下:上は、敗戦間もない1948年(昭和23)制作の大久保作次郎『早春(学習院の庭)』。下左は、学習院の血洗池。下右は、1955年(昭和30)前後の大久保作次郎(下落合の自宅にて)。

大久保作次郎『ベルモード』(不詳)