佐伯祐三Click!の自宅+アトリエの南隣りにあたる、下落合666番地に建っていた大きな納邸は、佐伯が1926年(大正15)9月から『下落合風景』シリーズClick!を描きはじめるのとほぼ同時に邸の建設がスタートし、おそらく佐伯が第2次渡仏へと向かう1927年(昭和2)の夏に竣工、あるいはほぼ完成に近い状態を迎えていると思われる。このテーマについては、日動画廊で拝見した『下落合風景』Click!(1927年)の記事でも、ほんの少しだが触れた。
 では、佐伯が描いた「八島さんの前通り」シリーズClick!から、納邸が建設される様子を探れるだろうか? 実は、納邸の建設を追いかけることは、佐伯が同連作を描いた順序が1点1点探れるのではないか?・・・ということにも気づくのだ。まず、わたしが比較的早い時期に描かれたと想定している「八島さんの前通り」は、八島邸の下見板張り外壁が明るいベージュに塗られた①の作品だ。この画面では、八島邸の手前(南側)に描かれている納邸建設予定の敷地は、草木が繁り三間道路へ少なからず地面の盛り上がりがはみ出している。すなわち、納邸の敷地はいまだ整地作業の手が加えられていない。①の習作のようにも見える、モノクロ画面しか残っていない②の「八島さんの前通り」も同様だ。①と同じように、八島邸の外壁は明るい。
 そして、③の八島さん作品になると、納邸建設予定地が道路側にややはみ出しているのは変らないが、八島邸の壁面が焦げ茶色に変化している。この時期、八島邸では板張り外壁の腐食を防ぐため、大正期に広く普及していた外壁用クレオソートClick!を秋の乾燥した時期を選んで塗布したのだろう。現在の下落合でも、大正建築にクレオソートを塗る習慣Click!はつづいている。
 ところが、ほぼ同様の構図で同じタッチと色づかいによって描かれた④の八島さんには、前作とはちがって決定的な変化が見てとれる。納邸の敷地がきれいに整地され、はみ出していた敷地の盛り土もすっかり片づけられている。生い繁っていた草木はきれいに除去されて、道路は直線状に修正された。そして、道路わきには敷地の縁石と住宅建設には欠かせない下水溝が整備されている。また、左手の第三文化村側では電柱が整理されたような印象を受ける。電源ケーブルを地下に埋設する共同溝の工事が、この時期に「八島さんの前通り」まで進捗したのだろうか? つまり、「八島さんの前通り」作品の③と④は近似していて、同時期に描かれたような構図やタッチでありながら、実はかなりのタイムラグがあることになる。
 
 
 「八島さんの前通り」シリーズは、路上を歩く人物たちが似通っているため、きわめて短期間のうちに描かれたという先入観や錯覚が入りこみやすいのだが、各作品の間にはかなり長めのタイムスパンを想定することができるのだ。これらの作品では、納邸前の道を東へ右折して、坂道を下りていく人物ないしは犬を連れた散歩者が描かれているが、納邸は下落合東部の住民たちに不動谷Click!あるいは西ノ谷Click!と呼ばれた谷戸へ下りる角地に建っていた邸だ。
 さて、「八島さんの前通り」とは別に、単独で八島邸を描いた⑤「八島さん」Click!と⑥「門」Click!の2作品がある。⑥「門」は、いまだ納邸の敷地にのちに刈られることになる草木が繁っており、八島邸の外壁も明るい色合いのように見えるので、おそらく①の作品とほぼ同時期に描かれたように思われる。この「門」は、佐伯が絵はがきにして頒布会または展覧会の案内に配布しているようだ。また⑤の「八島さん」は、佐伯が第三文化村の敷地(のちの亀井邸敷地内)にイーゼルをすえて制作したものだが、モノクロ画面しか残っていないので八島邸の外壁カラーは不明であり、納邸敷地も第三文化村の敷地に生えた草木に隠れて見えない。でも、八島邸の外壁が暗めなところから、この作品は③と同じような時期に制作された『下落合風景』のように想定できる。
 これまでの考察から、「八島さんの前通り」の作品制作に順番をつけるとするならば、①②(⑥)→③⑤→④となるだろうか。少なくとも、④は③とは納邸の整地状況から時期が決定的に異なり、また③⑤は①②(⑥)の八島邸外壁の色から、時期的にうしろへズレていると思われる。③⑤と④との間には、少なくとも数週間ないしは月単位の時間経過がはさまっているだろう。そして、④の敷地縁石と下水溝が整備された納邸敷地では、すでに地鎮祭が終わり、邸の基礎工事がスタートしていたのかもしれない。納邸の母屋は、三間道路(八島さんの前通り)から東へかなり引っこんだ位置に建設されているので、すでに起工していたとしても④の画角からは、たとえ右側の大塚邸(のちの吉田博アトリエClick!)に生えた樹木がなかったとしても見えなかったかもしれない。
 
 
 1926年(大正15)の秋、佐伯は八島邸周辺の風景から離れたり、再びもどったりを繰り返しているようだ。同年の暮れか、翌1927年(昭和2)の真冬に描かれた『下落合風景』の「雪景色」シリーズは、佐伯邸の東約200mのところに建つ曾宮一念アトリエClick!の前に口を開けた諏訪谷Click!や、落合小学校前Click!の急斜面(文化村スキー場Click!)、下落合の最西端にある「洗濯物のある風景」Click!に描かれた農家の降雪風景Click!と、自邸からやや離れた『下落合風景』を描きつづけた。そして、現存する作品や画面写真などから、再び「八島さんの前通り」が登場するのは、建設工事がつづいていた納邸の竣工(間近)の時期である1927年(昭和2)6月上旬ということになる。
 朝日晃が2000年前後に発見した⑦の「八島さんの前通り」は、のちに描かれ1930年協会第2回展(1927年6月17日~30日)に出品される⑧の習作のようにも見えるが、赤屋根の大きな納邸が八島邸の南側に完成(間近)しているのが、はっきりと見てとれる。このとき、④で下水溝が整備された邸の道路側には、おそらく塀と門がすでに造られていただろう。
 以上のような経緯を踏まえ、「八島さんの前通り」シリーズあるいは「八島さん」絡みの作品を、「制作メモ」を意識しつつ制作時期に留意すると、次のようなタイムスタンプが想定できるだろうか?
 ①②「八島さんの前通り」(タテの画)・・・1926年(大正15)10月21日(20~25号F)
 ⑤「八島さんの前」(第三文化村敷地から)・・・1926年(大正15)10月下旬(10号)で③に近接
 ⑥「門」・・・1926年(大正15)9月28日(20号)
 ③「八島さんの前通り」・・・1926年(大正15)10月下旬(6号F)
 ④「八島さんの前通り」・・・③の制作時期よりも数週間ないしは月単位あと(12号F)
 ⑦⑧「八島さんの前通り」・・・1927年(昭和2)6月(⑧は20号で1930年協会第2回展出品作)
 
 
 きょうは八島邸と納邸(の敷地)にスポットを当てて考察しているが、1926~27年(大正15~昭和2)における第三文化村の整備状況、また佐伯邸の北側、下落合660~666番地界隈に建つ家々を細かく研究すると、より正確で面白いことが判明するかもしれないが、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:「八島さんの前通り」を北側から、西坂方面を向いて眺めた現状。
◆写真中上:上左は、佐伯祐三『八島さんの前通り』「タテの画」と思われる作品。上右は、おそらく同時期の制作とみられる作品で、八島邸の外壁は薄い色に見えるがモノクロ画面でしか観られないのが残念だ。下左は、八島邸の外壁にクレオソートが塗られたと思われる焦げ茶色の八島邸バージョン。下右は、ほぼ同じ位置から眺めた「八島さんの前通り」の現状。
◆写真中下:上左は、明らかに納邸の敷地に整地および下水溝工事の手が入った「八島さんの前通り」。上右は、同通りのかなり南の位置から八島邸方向を眺めた現状。下左は、第三文化村の敷地(亀井邸建設予定地)にイーゼルを立てて描いた八島邸。下右は、同連作では犬を連れた散歩者などが右折している不動谷(西ノ谷)へと下る納邸南辺の坂道。
◆写真下:上左は、八島邸を描いた佐伯祐三『下落合風景』「門」。上右は、八島邸跡の北側から眺めた現状。下は、1927年(昭和2)6月ごろ制作の北側から眺めた「八島さんの前通り」。八島邸の南にはすでに納邸が見え、佐伯祐三『下落合風景』の最後期の作品だと思われる。