このブログがスタートした時点から、落合地域の隣り町である戸塚町の歴史を綴った、1931年(昭和6)発行の『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)を手に入れたくてしかたがなかった。古書店では当然、当時から売っていたのだが、あまりに高価で手が出なかった。ところが、今年に入ってから半額以下の値段になっていたので、思い切って購入することにした。
 実は、『戸塚町誌』はとうに電子書籍でダウンロードしていたのだが、やはり紙によるしっかりした写真や印刷で読みたくなったのだ。古書の電子書籍は、おおまかに参照するには適しているが、スキャニングの解像度が粗く、細かく読みこんで参照するには不便で適していない。しかも、『戸塚町誌』は目次にふられたページナンバーの多くが間違っており、手もとでページを繰りながら素早く当該ページを発見したいという欲求もあった。
 『戸塚町誌』は『落合町誌』Click!が出版される前年、1931年(昭和6)に編集され印刷されている。編集者は、戸塚町諏訪227番地に住んでいた大野木喜太郎で、同じ所在地に戸塚町誌刊行会も設置されている。大野木は出版社を経営していたので、おそらく自らの事務所を戸塚町誌刊行会に提供して、編集委員会のような体制で同書を出版したのだろう。奥付の対向ページ、最後の最後にちゃっかり本人が写真入りで登場していたりするのがおかしい。
 『戸塚町誌』がプロの編集者によって制作されたのに対し、『落合町誌』の「編集発行人」には近藤健蔵という人が当たっている。上落合721番地に住んでいた、当時の栗原親和会副会長だった人物だが、編集や出版にはおそらくズブの素人だったろう。なぜなら、「編集発行人」に自らなりながら、自身の「人物紹介」では臆面もなく自分のことを、「声望」があり「文化の発展に資するところ多大」・・・などと書いているからだ。自分で編集し、自身を歯が浮くような言葉で褒め上げるような文章を書いて掲載するとも思えないので、『落合町誌』の「編集発行人」に名前を貸しただけなのだと考えたい。そのおかしさ奇妙さをチェックできないほど、編集・出版にはまったくの素人だったのだろう。それに対し、『戸塚町誌』の大野木喜太郎は、実際に自分で紹介文を書いたと思われる。
 
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 出版業 大野木喜太郎 / 大野木弥三郎の長男、明治二十八年十二月二十二日、滋賀県坂田郡長浜町字相生に生れ、郷里八幡商業に学ぶ夙(つと)に実業に志し、樺太に渉りたるも其志を達するを得ず、大正十年以降本町に居住、爾来豊多摩物価商報を発行し、次で改題国民日報、現に大東新聞を主宰、以(もっ)て力を地方自治の発達に資す、傍(かたわ)ら出版業を経営、立憲民政党に籍し遊説部員たり、家庭に母きぬ、妻みつ子 長男哲郎大正十二年出生 二男達郎 三男茂 四男喬 五男伍郎あり。(カッコ内は引用者註)
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 5人も子供がいては、立憲民政党の遊説ボランティアなどしている場合ではなく、地元の細かな出版の仕事をとって生活を支えていかなければならなかったろう。『戸塚町誌』の大部分を、大野木自身が徹夜をつづけて執筆しているのかもしれない。
 さて、『戸塚町誌』(1931年)と『落合町誌』(1932年)を比較すると、非常によく似ているのがわかる。異なるのは、カバーの装丁加工と色だけで、コンテンツの構成から中扉・本文ページの紙質までが同じだ。文章を細かく検討すると、文体までソックリなのが判然としている。印刷所は異なるが、活字の大きさやページのレイアウトまでがいっしょだ。明らかに『戸塚町誌』を手本としながら、翌年に『落合町誌』が制作されていることがわかる。
 いや、ひょっとすると大野木喜太郎が落合地域へ営業し、『戸塚町誌』を見本として町役場へプレゼンテーションしながら、自らゴースト編集・執筆人になってこしらえたのが『落合町誌』ではないか?・・・とさえ思えてくる。自分の街以外の「町誌」は、あえて読む人も少ないだろうから、ちょっとぐらい文章が同じでもいっか~(爆!)・・・というような気配を感じる。『戸塚町誌』には函があるが、わたしの手元にある『落合町誌』に函はない。だが、たまたま手元にある『落合町誌』は函が欠落しているのであり、もともとは『戸塚町誌』と同様の函が付随していたと思われるのだ。
 
 
 先日、久しぶりに1922年(大正10)に建てられたスコットホール界隈をブラブラしてきたので、戸塚町下戸塚532番地にある「早稲田奉仕園」の項目を、『戸塚町誌』から引用してみよう。
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 早稲田奉仕園はキリストの生涯に顕はれたる精神を宏め並に之に因つて円満なる人格教育の達成を期し、一九〇八年五月早稲田大学の賛意の元に、米国バプテスト宣教師ベニンホフ博士の創設する処である、同博士は安部磯雄先生の協力を俟つて同年十月鶴巻町に学生寄宿舎友愛学舎を創設し、次で一九一一年牛込弁天町に新学舎の落成と共に移転す、此の間十ヶ年薫育を承けたる学生無慮数百名、同博士の功績は米国同胞の感慨となり終に一九二一年現在地にスコツトホール並に新学舎の増設となり、こゝに純然たる大学生事業の先鞭となるに至つたのである。
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 スコットホールは、ベニンホフ博士と親交があったヴォーリズ設計事務所Click!が設計原案を練ったことでも有名だ。いまでは、ホールの周囲をビルやマンションなどに囲まれて、敷地全体がせせこましく感じるが、竣工当時の写真を見ると、周辺の木立ちを活かした芝庭の中に、忽然とレンガ造りの大きなスコットホールが出現した様子がうかがえておもしろい。東側を穴八幡宮Click!(高田八幡)の境内に接しているけれど、大正末から昭和初期にかけ早稲田通りが一気にハイカラ通りClick!に生まれ変わる、起爆剤的な建築だったのではないだろうか?
 穴八幡宮で思い出したが、同社が江戸時代に高田八幡社と呼ばれていた理由がわかった。戸塚村の中にあるのに、どうして高田八幡社なのかと思ったら、戸塚村(町)には江戸期から高田村(町)の飛び地があちこちに存在しているのだ。つまり、穴八幡宮はどう見ても下戸塚にありながら、丸ごと高田町の飛び地の八幡社だった。したがって、『戸塚町誌』に穴八幡宮の紹介はなく、水稲荷社と諏訪明神社がメインとなっている。穴八幡は、戦後も高田町のままポツンと離れて存在していたのだが、1974年(昭和49)になってようやく西早稲田、つまり戸塚町のエリアへ編入されている。
 
 
 ところが、穴八幡宮がかわいそうなのは、かんじんの『高田町史』(1933年)にもまったく紹介されていないことだ。戸塚町からは継子あつかいされて取り上げてもらえず、高田町からは遠くて馴染みのない存在なので完全に無視され、いま風にいえば「穴八幡って、早稲田(下戸塚)の神様でしょ? 目白(高田)とは関係ないよね?」と、忘れられたのが高田八幡社こと穴八幡宮だったのだ。

◆写真上:1931年(昭和6)に出版された、『戸塚町誌』の装丁(左)と函(右)。
◆写真中上:左は、『戸塚町誌』の奥付。右は、編集・発行人の大野木喜太郎。
◆写真中下:上は、『戸塚町誌』の中扉(左)と本文(右)。下は、『落合町誌』中扉(左)と本文(右)。
◆写真下:上は、竣工したばかりのスコットホール(左)と現状(右)。下左は、1931年(昭和6)に撮影されたH.B.ベニンホフ博士。下右は、スコットホールの階段踊り場より。