今年から数年先まで、おそらくチェルノブイリのときがそうであったように、食物連鎖などによる本格的な放射性物質の濃縮汚染Click!がはじまると思うのだが、暮れに映画で吉永小百合の顔を観ていたら、彼女が演じたふたりの被曝者の作品(ひとつは恋人が被曝者なのだが)を思い出した。『愛と死の記録』(1966年)と、『夢千代日記』(1985年)の2作品だ。映画にも登場している「被爆者(健康)手帳」(1952年~/「原爆手帳」とも)は、おそらく「被“曝”者手帳」あるいは「被“曝”者カード」と名前を変えて、再び大量に発行されることになるのだろう。しかも、広島や長崎とはケタちがいの数量にのぼるのではないか?
 日本は1945年(昭和20)の敗戦以来、とんでもないダメージと負荷を抱えこんでしまい、まったくおめでたくはないのだが、とりあえず生きのびられているので謹賀新年。世の中、景気や経済以前の課題として、原発事故の影響もあり、これからますます少子化が総務省の予測Click!を超えて加速し、健康や人命に関してもお先真っ暗なので、もはやベル・エポック(良き時代)となってしまったころのテーマでも取り上げ、気を取り直して少しは生きる元気の“糧”とすることにしたい。
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 さて、今年最初に取り上げる記事は、街中に展開していた「寄席」「演芸場」だ。江戸時代の後期、1790年代(寛政2~12)になると江戸では落咄(おとしばなし)を専門とする、いわゆる噺家が数多く輩出した。三遊亭圓生や三笑亭可楽の初代が登場し、林屋、柳屋、立川などもほぼ同時に生まれている。それにともない、市中にある寄席の数も増えつづけ、一時の天保の改革では激減したものの、幕末には500~700軒の寄席があったといわれている。つまり3~4町に1軒の割り合いで、庶民が気軽に娯楽を楽しめる場が設けられていたことになる。
 最初は、落語の寄席と講談用の寄席とで区別されていたようだが、明治以降になると小規模な舞台の総合演芸施設として、“演芸館(場)”の呼び名が一般的になっていく。そこでは、落語をはじめ、手品、漫才、講釈、講談、舞踊、芝居(寸劇)など多彩な出し物が演じられ、有名な演芸館になると(城)下町Click!の庶民ばかりでなく、芝居と同様に乃手から華族までが通ってくるようになった。


 大正期には、東京市外に次々と住宅地が拓かれていくが、そんな郊外の街々にも活動写真館(映画館)とともに、寄席(演芸館)が造られることもまれではなかった。落合地域のお隣り、長崎地域(椎名町)にもそんな演芸場のひとつ、「目白亭」Click!が昭和初期にオープンしている。小川薫様Click!のアルバムには、亭前に開館祝いの花束が飾られた椎名町5丁目(現・南長崎3丁目)の目白亭を撮影した、貴重な写真が残されていた。(冒頭写真) この写真は、目白亭の看板文字が右から左へ書かれているので戦前に撮影されたものか、あるいは敗戦直後の再スタート時に撮られたものだろう。目白亭の看板は、戦後しばらくすると左から右へと付け替えられている。
 目白亭では、落語や漫才・漫談、寸劇、講談、浪曲などの出し物が演じられたと思うのだが、小規模な劇団によるいわゆる新劇(西洋劇など)が上演されることもあったようだ。新劇を観賞するために、わざわざ下町の専用劇場へ出かけるのも面倒なので、地元の舞台で観られないか?・・・というようなニーズも高かったのだろう。演芸場は、江戸期からの芸人の上演場所としてのみならず、明治以降は新劇の小劇場としても機能していた側面がある。
 小川様のアルバムにも、目白亭で上演されたとみられる新劇の舞台写真が残されている。白樺の木立ちが見える高原のような書割の前に、3人の人物がなにか打ち合わせをしている。いま風に想像すれば、高原の森をすべて伐採して一大リゾート開発を計画しているディベロッパーと土建業者だろうか? 札束でまどわされた村民たちは、こぞって土地を開発業者に提供しかかるのだが、“熊男”のような大きな山の主が現われ、「てめえら、カネに目がくらんでかけがえのねえ美しい故郷を売っちまうたぁどーゆー了見だ? あん?」・・・とでも諭しているのだろうか、しょげ返った人々が傍らに座っている。おそらく、敗戦直後に撮影された舞台写真ではないかと思われる。


 戦後すぐのころ、下町の日本橋・三越で行われていた寄席(演芸会)の様子を、1952年(昭和27)に出版された木村荘八『現代風俗帖』(東峰書房)から、少し長いが引用してみよう。
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 近頃こゝの名人会へ来る「客」を何階級と云ふべきかは言葉に迷ふが、「ラジオ階級」と云つたならば叱責される(?)かと思ふ。どうもいつもはラジオでちんと家にゐて「芸能」をたのしんで居る人々が、今宵こゝへ集まつたといふ感じがして、この席の観客に限らず、一体芝居(しばや)や催しものの「観客席」はそれぞれに特徴があつて面白いものである。その例に洩れず、この会の風俗は全体としてなかなか活気のある、これは、アプレ・ゲールだと思つた。/----かういふ新規のモードを又一つこゝに馴致したのは、この会の主催側(幕内)の達識に依ると思ふものであるが、先ず第一に会の「一番目」へ狂言を据ゑたところが手際で、これで容れものの吃水線が見る見る深くなり、いまゝでの「有楽座名人会」又は「落語名人会」を離れて、素踊りの(坂東)三津五郎Click!が極く渋く本行に老松を「真打」へ出しても、ガタつかないものとなつた。従来これだけの客数と小屋で若太夫の堀川がかう手一杯に響いたことは、稀だろう。(中略) (桂)文楽のはなしは筋のまつたうな、近頃斯界(しかい)の山と思ふに異存はないけれども、味に矢張り「(古今亭)志ん生」は、どんな席でも、はなしには有りたきものと思ふ。同じ意味合ひで、丸一(江戸神楽)のやることが末廣で見てもこゝでも寸分違はず、高座の芸のいはゆる「ペース」に手堅いには、感伏(ママ)した。(徳川)無声君は全く「名人」の名に小ゆるぎもしなくなつたと思ふ。(カッコ内は引用者註)
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 戦後すぐに、米国の映画がドッと入ってきて大混雑した映画館と同様に、寄席(演芸館)も長い間娯楽に飢えていた人々が押しかけて大盛況を呈していた。でも、1960年代末ごろから、街中にあった映画館と同様に寄席も次々と閉館していく。木村荘八が書いているように、落語や講談、寸劇などは「ラジオ階級」化、あるいは新たに登場した「テレビ階級」化が急速に進んでいくからだ。

 
 わたしは、親父に連れられて寄席へ出かけた記憶があまりない。記憶の断片から一二度はあったと思うのだが、誰が出ていてなにを観たのかが子どものころなので判然としない。親父の世代も、芝居には足を運ぶが寄席の演芸については、すでに「ラジオ・テレビ階級」化していたのだ。

◆写真上:戦前の開館時、あるいは戦後すぐに再開館した直後とみられる椎名町の「目白亭」。目白バス通り(現・長崎バス通り)に面した、現在の山政マーケットClick!の位置に開館していた。
◆写真中上:目白亭で上演されたとみられる新劇で、おそらく戦後の舞台だろう。この劇の演目や詳細をご存じの方がいらっしゃれば、ご一報いただければと思う。
◆写真中下:上は、戦後に撮影された目白亭で看板文字が左から右へ「演芸場/目白亭」に変わっている。人々が集まっているのは、目白亭のホールでどなたかの葬儀が営まれていたようだ。下は、上掲写真のクローズアップで敗戦直後の目白バス通り(現・長崎バス通り)がとらえられている。幅20mにわたって実施された、戦争末期の建物疎開の跡がハッキリと見てとれる。
◆写真下:上は、1952年(昭和27)に出版された木村荘八『現代風俗帖』の挿画「名人会」より。下は、いまでも浅草で健在な浅草演芸ホール(左)と浅草大勝館(右)。浅草演芸ホールの真ん前には、上落合で暮らした古川ロッパClick!のペナントが下がっている。