昨年の暮れ、下落合(中落合・中井2丁目含む)の島津一郎アトリエClick!(国登録有形文化財)を撮影させていただいた邸からご連絡をいただき、吉武東里のご姻戚の方と、吉武研究で有名な東京大学大学院工学系研究科の長谷川香様がみえるので来ないか・・・とのお誘いをいただいた。昨年10月22日に島津アトリエを拝見していたまさにその当日、長谷川様は「日本大博覧会と明治神宮」というテーマで吉武東里Click!に関する講演会を開かれていたのだが、わたしは聴講しそびれてしまった。だから、お誘いに甘えてすぐにお邪魔をすることにした。
 もうひとつ、島津アトリエを訪問させていただくのには理由があった。前回、アトリエ内を撮影させていただいた際、細かな建具や部材の美しさ、意匠やデザインの贅沢さにすっかり気をとられ、肝心のアトリエ内部の全景を撮り忘れていたのだ。さっそく、アトリエを撮影させていただいたのだが、わたしの28mm広角レンズ付きカメラでも、アトリエ内部を1枚の写真に収めることができなかった。あまりにも広すぎるし、天井が高すぎるのだ。結果的にはアトリエの空間を4分割し、写真4枚でスペース全体を撮影させていただいた。(それでも撮りきれていないと思う)
 島津アトリエの前庭には、ちょうど庭師の方たちが数人入って樹木の枝を払う仕事をしており、ご主人から「庭の木々の枝や葉っぱがすっきりしたら、外からアトリエの全体も撮影しやすくなると思うので、また改めておいでください」といううれしいお誘いをいただいたので、次回はアトリエ全体の外観写真もご紹介できればと思っている。
 島津一郎アトリエのお宅には、同アトリエの設計図とともに、上落合470番地に建っていた吉武東里邸の設計図も存在しているのだが、ハーフティンバー仕様で尖がり屋根のおしゃれな吉武邸については、同邸の詳しい設計図を吉武東里のご姻戚の方がお送りくださるとのことなので、楽しみにお待ちすることにして、きょうは吉武邸の門についての物語だ。
 
 
 東大の長谷川様たちとお話しをするうちに、とても興味深いエピソードをうかがった。関東大震災Click!のとき、吉武家は近くの孟宗竹が茂る竹藪に避難した記録が見えているが、このとき同邸の大谷石づくりの門が地震の揺れで崩れたらしい。震災後のことなのか、あるいは吉武東里が郷里・大分へと疎開し、1945年(昭和20)4月に同地で死去したあとの戦後すぐのことなのか、確認はとれていないのだが、同邸の門や周辺に使われていた大谷石のブロックを、子息女たちが通っていたとみられる落合第二小学校へ寄贈した・・・というのだ。吉武邸は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で全焼しているが、大谷石の構造物は戦後までそのまま残っていただろう。わたしは、さっそく落合第二小学校を訪ねようと計画したのだが、ここでハタと、二二六事件の調査と同じ轍を踏まないように留意した。
 吉武東里が上落合470番地で暮らしていたとき、落合第二小学校は吉武邸の南に接した敷地(旧・野々村邸跡)ではなく、中井駅の前、すなわち現在の落合第五小学校の敷地にあった。つまり、二二六事件の竹嶌中尉Click!の自宅とは、まったく逆の調査ケースとなるだろう。
 わたしは、まず落合第二小学校を訪ねて、職員室にいらした教師に吉武東里の伝承、あるいは校内に大谷石がまとまって存在するかどうかを確認してみた。案のじょう、吉武東里の名前についても心当たりはないし、校内で大谷石を見かけたことはない・・・というお返事だった。念のため、同小学校を1周してみたが、大谷石を使った構造物は存在しなかった。
 

 次に、中井駅前の落合第五小学校へ向かったのだが、職員室を訪ねるまでもなく、わたしは正門の左手に敷石として使われている大量の大谷石ブロックに気がついた。さっそく、職員の方にうかがったのだが、すでに正門脇の大谷石にまつわるいわれはご存じなかった。おそらく、吉武家から落合第二小学校に寄贈された門などの大谷石とは、落合五小に残るこれらの石材ではないだろうか。落合第五小学校は1954年(昭和29)に開校しているが、それまでは同校の敷地は丸ごと落合第二小学校だった。落二小が現在地へと移転する際、なんらかの構造物となっていたであろう大谷石の石材まで移動したとは考えにくいのだ。
 戦前、あるいは戦後すぐのころ、落合第二小学校を卒業された方で、これらの大谷石のいわれを記憶している方はいらっしゃらないだろうか? 空襲で焼けてしまった吉武邸の大きな洋館建築ともども、これからも追いかけてみたいテーマだ。
 長谷川香様からあとふたつ、とびきり興味深いお話をうかがった。それは、吉武東里とともに国会議事堂Click!や島津源吉邸Click!の設計にたずさわった大熊喜邦Click!もまた、落合地域に住んでいたことだ。吉武東里のお嬢様(靄子様)はご健在で、吉武邸の庭で収穫した落合柿を、近くの大熊喜邦邸へとどけていた・・・という記憶がおありなのだ。おそらく、大熊邸が麹町へと移る前のエピソードだろう。これも、継続して調べてみたい落合の課題となった。
 そしてもうひとつ、吉武東里は京都高等工藝学校図案科の出身なのだが、さまざまな建築の意匠や室内装飾を手がける一方、自画像をはじめ絵画作品を残していることだ。その中に、どうやら吉武邸の周辺を描いたとみられる、「落合風景」と思われる作品が現存している。長谷川様より、作品画像をさっそくお送りいただいているのだが、それはまた、別の物語・・・。
 

 暮れのお忙しい中、島津一郎アトリエの再撮影を快諾いただいた所有者のみなさま、そして、わたしとしては飛びつきたくなる地元の興味深いお話をご教示くださったみなさまに、改めて深くお礼を申し上げたい。ほんとうに、ありがとうございました。

◆写真上:落合第五小学校(旧・第二小学校)の正門脇にみられる、大量の大谷石による敷石。
◆写真中上:島津一郎アトリエ内部の全景で、北西角(上左)と北東角(上右)、南東角(下左)と南西角(下右)だが、これでも中央部分が画面に収まりきれない。
◆写真中下:上は、上落合にある落合第二小学校(左)と落合第五小学校(右)。下は、1932年(昭和7)に撮影された上落合745番地の落合第二尋常小学校(校長・三橋和也)。
◆写真下:上左は、長谷川香様の論文『吉武東里に関する研究-近代日本における図案家という職能-』所収の吉武東里『自画像』(制作年代不詳)。上右は、大蔵省時代は吉武東里の上司にあたり協同で仕事をする機会が多かった大熊喜邦。上落合の吉武邸の近くに、大熊喜邦の自宅もあったようだ。下は、1936年(昭和11)に行なわれた国会議事堂竣工式で議事堂屋上から撮影したもの。参列者のどこかに、吉武東里と大熊喜邦もいるはずだ。