わたしの手許に、公開を留保されている佐伯祐三Click!の『下落合風景』Click!の画像がある。どのような作品だか、そのまま画像を公開してしまうのはルール違反なので、わたしが同作品をスケッチして、どのような画面なのかをご紹介したい。当然、わたしのヘタクソな絵なので、ホンモノとは似ても似つかない画面となるのだが、描かれているモチーフや地形、家並みぐらいはおわかりになると思う。画面の紹介がOKになったら、ぜひ実物の写真でご紹介したい。
 実際の画面は、高いデッサン技術で一気呵成に描かれた、その場の空気感まで感じられる見事な仕上がりなのだが、救いようのないヘタな模写でご容赦いただきたい。よく晴れた日の午前中か昼近くだろうか、青空の下に陽の当たる斜面が描かれている。手前から右奥へと向かう路地ないし宅地造成地は、少し高めの斜面位置あるいは尾根上を北へ、ないしは西へ向けて通っているように感じる。その左側手前は宅地造成が済んでいて、コンクリートのように見える敷地の縁石が設けられているのがわかる。住宅がすでに建設されているかどうかまでは不明だが、生垣用の苗木だろうか、縁石に沿って樹木が植えられている。また、佐伯がイーゼルを立てている地点も道路ではなく、新造成がなったばかりの住宅敷地なのかもしれない。
 整地された宅地の向こう側は、かなり落ちこんだ地形のようで、遠景に見える2階家の屋根が、佐伯の視線とほぼ同じ高さに見えている。陽光は、明らかに左側から射しており、左(手前)が南ないしは東南だと思われる。電柱が、遠いものも含めて4本見えているけれど、いずれも変圧器の載らない電燈線のようだ。家々の屋根越し、さらに向こう側には樹木が描かれているが、高めの視座から眺めているにもかかわらず、連続する家々の屋根が見えないので、さらに地形が下がっているか、あるいは未造成の斜面状空き地かは不明だ。
 このような風景に、わたしはまったく見憶えがない。佐伯の『下落合風景』には、見た瞬間に「あそこだ!」と特定できる風景と、「たぶんあそこだろう」と想定して調べたうえで「やっぱりね」と特定できるもの、そしてまったく視覚的な記憶がなく、戦後になって風景があまりに変わりすぎており、空中写真や地図、さらには当時の資料などを参照しても規定ができないものがある。わたしがすぐに特定できるもの、あるいは「たぶん」と想定できる作品は、1970年代当時から落合地域を歩きつづけてきた土地カンや、足で記憶した地形把握があるからだが、「かしの木のある風景」Click!のようにまったく見当のつかない作品もある。
 また、地形や家並みの課題ばかりでなく、大正期には存在していたのに戦後はきれいサッパリ消えてしまって、住宅で埋めつくされてしまった道筋もある。逆に、山手通り(環6)や十三間通り(新目白通り)が貫通したせいで、丸ごと街並みが消滅したエリアも多い。

 当初は、またしても久七坂沿いから眺めた諏訪谷シリーズClick!かと思ったのだが、“対岸”にあるはずの崖線や青柳ヶ原Click!の丘(現・聖母病院Click!)が見えないのはおかしい。建てられた家々の向きから、手前を南だと仮定すると、地形は北へ向けて傾斜していることになってしまう。目白崖線は南斜面なので、北へ向けて傾斜している地形というと、崖線に南側から北へ向けて入りこんだ谷戸地形ということになる。でも、このように住宅が建てこんだ谷戸は、旧・下落合広しといえども1926~27年(大正15~昭和2)現在では、曾宮一念アトリエClick!の前に口を開けた、“洗い場”Click!の移動とともに早くから宅地造成がスタートしている諏訪谷Click!しか存在していない。
 谷戸でないとすれば、やはり南に向いた目白崖線のどこかの風景ということになるのだが、改正道路(山手通りClick!)あるいは十三間通り(新目白通りClick!)の建設で消えてしまった風景だとしたら、わたしとしては道筋の記憶も、足が憶えた地形的なカンもまったく働かないということになる。この作品は、ずいぶん古くから下落合にお住まいで、大正生まれの方にも何人かお見せしたのだけれど、どこの風景なのかどなたも心当たりがなかった。
 描かれている家々は洋風のように見えるが、一般的な住宅の風情をしており、いわゆる「お屋敷」ではない。画面で見る限り、空地に家屋がポツンポツンと建ちはじめているのではなく、かなり密度が濃く家々が建てられている様子がうかがえる。大規模な宅地造成ではなく、地元の地主が開発した部分的で小規模な住宅地だろうか。1927年(昭和2)に制作された『下落合風景』Click!に見られるように、前年からわずか1年足らずの間に下落合の風景は激しい変化をつづけている。ましてや戦災で焼かれ、戦後の大がかりな道路工事で地形が変わるほど掘削されてしまったエリアとなると、わたしもお手上げなのだ。
 
 
 ただし、下落合の南斜面に1ヶ所、それらしい場所を見いだすことができる。目白崖線の南斜面で、住宅が南北タテに建てられた家々がある場所も、それほど多くはない。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」、および1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真から類推した下落合1778番地のポイントだ。佐伯が旧・下落合全域を往来して、各地をスケッチしてまわっていたころから家々が建ち、なおかつ当時としては明らかに洋風の建物3棟が画面左手に並び、正面が落ちこんでいる傾斜地に造成された住宅地・・・というと、おのずからポイントが絞られてくる。現在は、山手通りですっかり様子が変わってしまった、一ノ坂東側の風景だ。
 左手の洋風住宅3棟は、「下落合事情明細図」によれば手前から小林邸で、まん中が本田邸(やや大きい)、そしていちばん奥が仲佐邸ということになる。手前の小林邸の前には、電柱が描かれたあたりに北から南へ(画面では右から左へ)細い坂道が下っており、山手通りができる前は目白文化村Click!の尾根道へとつづく道だった。この坂をそのまま真っすぐ上ると、第二文化村の宮本恒平アトリエClick!前、つまり「テニス」Click!の描画ポイントとスカートをはいた女性が三間道路を歩く「文化村前通り」Click!の、ちょうど中間点に出ることができる。現在、この坂道は下の中ノ道(中井通りClick!)から上へ抜けようとしても、途中で山手通りへ上がる階段に突き当たる。
 同じ洋風デザインをした左手の住宅3棟の下には、和風の二宮邸(東側)と千葉邸(西側)が早くから建っていた。このあたり一帯は戦災をまぬがれており、山手通りの工事で次々と住民が立ち退き、家屋が解体されていく中で小林邸と二宮邸だけが、かろうじて1947年(昭和22)の空中写真にとらえられている。佐伯は、宇田川家ないしは陸川家が造成したばかりと思われる、東側の宅地の中へと入りこみ、少し落ちこんだ振り子坂Click!を背後にして画面を描いていることになる。
 また、中央やや左手に描かれた赤い屋根の家々は、「下落合事情明細図」にはまったく収録されておらず、空き地表現(ないしは建設中)となっている。ひょっとすると、佐伯は建設中にこの風景を目撃し、竣工直後に出かけてこの風景を描いているのかもしれない。
 
 描かれた地形を考慮し各時代の地図をはじめ、1936年(昭和11)や1941年(昭和16)、さらに戦後の1947年(昭和22)の空中写真を片っぱしから検討したのだが、この描画ポイントはあまり自信がない。一ノ坂下の周辺以上に、もっと丸ごと消えてしまったエリアなのかもしれないのだが、どなたか、この風景に見憶えのある方はおられるだろうか?

◆写真上:中井通りからつづく細い坂道で、山手通りができる前は第二文化村へ通じていた。
◆写真中上:手元にある公開を留保されている、『下落合風景』画像の拙い模写。
◆写真中下:上左は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。1978番地という表記があるが、「事情明細図」にはめずらしい番地誤記で1778番地が正しい。上右は、山手通りで斜面が深くえぐられてしまった描画ポイント界隈。下左は、どれだけ深くえぐられたかがわかる景観。下右は、ちょうど二宮邸の西側あたりの下落合1778番地の現状。
◆写真下:左は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる下落合1778番地。右は、改正道路(山手通り)の工事現場となってしまった1947年(昭和22)撮影の小林邸と思われる洋風住宅。