1932年(昭和7)10月1日、東京市が15区から一気に35区編成(いわゆる「大東京」Click!)へと拡大するのを記念し、東京朝日新聞社からグラフ誌『新・東京大観』上・下巻が出版された。この下巻に掲載された淀橋区に、わたしはとても期待していた。なぜなら、同社は新たに増えた20区の上空へ飛行機を飛ばし、低空飛行で街並みを撮影していたからだ。さっそく、同書を入手したのだがガッカリしてしまった。落合地域が、まったく取り上げられていなかったからだ。
 少し横道へ逸れるけれど、東京15区時代(いわゆる旧・江戸市街地)の地域区分は、それぞれの地域の特性や歴史、風俗、文化(方言Click!含む)などをいちおう踏まえた、妥当な区分けのように感じられる。「大東京」になった東京市35区も、細かなところで異論は残りつつも、おおよそ同様に思われるのだが、1947年(昭和22)に統合された現在の東京23区は、行政区分の合理性や効率性のみを机上で優先したもので、現場の地域性のちがいや異なる街を一緒くたにまとめてしまっており、江戸東京の歴史や文化をあまり反映していない。
 なによりも、ひとつの区が広すぎるのだ。たとえば、いまは中央区になっている日本橋区と京橋区だが、「天下祭」を二分する街の氏神や氏子連からして異なっており(日本橋側は神田明神で、銀座側は日枝権現)、風俗や文化も少なからずちがう。戦後の23区編成により、地域性やその土地ならではの風俗・文化が、ますます薄まっているように感じるのはわたしだけだろうか?
 さて、淀橋町角筈には新宿駅Click!という、東京西部の巨大ターミナルが存在したせいか、区名をつける際にはあまり紛糾しなかったようなのだが、1932年(昭和7)10月に淀橋区が誕生したときは、すでに人口15万3,502人を数える大きな街へと成長していた。以下、同書から引用してみよう。
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 淀橋区----都心への群集の関門新宿/文化村と学生街
 (前略)淀橋区の地理的にみた最大特徴は、それが新宿の盛り場を持つてゐることだ。新宿は今更いふまでもない、都心から放射的に流出する群集の関門であり享楽地だ。デパート、カフエー、キネマ、滅茶苦茶に混雑する狭い通り、震災後忽ち山手銀座の名称を神楽坂から奪つてしまつた。新宿はこれまでも感情的にはもうすつかり市内の如く取扱はれてゐた。今後の市郡分併もいはゞ幼馴染みの結婚みたいなもので、町営水道が市内並に安くなつて独身時代より経済が楽になるといつた様な「行政的」効果だけが儲けものといふことになる。(後略)
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 淀橋区Click!は、市街地に編入されてほとんど丸もうけのように書かれているが、コトはそれほど簡単には進まなかった。お隣りの豊島区では、区名をどうするかでエンエンと紛糾し、豊島区から巣鴨区へ、さらに巣鴨区から目白区へと二転三転している。結局、豊島氏が拓いた土地なので豊島区へと落ち着いたようなのだが、淀橋区は区役所の位置をどこにするかで、淀橋町と大久保町、戸塚町、落合町がほとんど「戦闘状態ニ入レリ」となった。
 いや、これは決して誇張ではなく、対立はしだいに深刻となり、町議会同士の乱闘騒ぎまで起きかねない状況となっていった。結局、区役所は大久保町へ限りなく近い、淀橋町柏木5丁目へ最終的に設置されることになったものの、このスッタモンダや利権、「名誉」欲などが尾を引いていたものか、淀橋区議会が発足した1932年(昭和7)7月12日に、元・淀橋町長が意趣返しとばかり区議会議長へ「コノヤロー!」と殴りかかり、新議長は在任期間7月12日のわずか1時間のみで辞任しているようだ。みっともない片田舎の議会丸出しの、淀橋区のスタートとなった。
 さて、『新・東京大観』下巻に掲載された写真は、ほとんどが新名所や旧跡ばかりで、京王電車、カフェー街、新宿駅(3代目)Click!、新宿通りClick!、角筈十二社Click!、戸山ヶ原Click!、射撃場Click!、淀橋浄水場、早稲田大学Click!・・・と、淀橋・大久保・戸塚3町の写真がメインだ。落合町の写真はないが、唯一マンガが掲載されている。それは、「なっぷが種まきゃカラス(特高)がほじくる」という風刺画(冒頭写真)で、上落合のナップClick!(全日本無産者芸術連盟)に参集したプロレタリア芸術家たちを、皮肉っぽく表現したものだ。では、同書に掲載された落合町の解説を全文引用してみよう。
 

 
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 落合町 / 目白の文化村といつても落合町にあるのだから、落合は文化村の発生地といつてもよからう。大正十三年はじめて文化村が出現したとき、断髪のママが大根を買つてる図はよくジヤーナリズムの好題目となつたものだが今はもうとくにそのニユース・バリユーを失つた。文化村、翠丘住宅地などは良住宅地として著名である。土地は高燥で展望が開け、省線目白駅の便や西武電車が町内を縦貫して将来町の西北部に新たな交通機関でも出来れば、益々インテリ層の集団地区と発展するだらう。そしてまた、妙正寺川の流域の、あまり良好でない地区はナツプの連中が悲壮な意気込みで根を下したり刈られたり、有為転変の巷に仮寝の夢の結び場所だ。
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 ちなみに、目白文化村Click!(確かに下落合に造成されたのだから、地名からいえば松下春雄Click!が表現しつづけた「下落合文化村」Click!が正しいかもしれない)が出現したのは、1922年(大正11)であって「大正十三年」ではない。同時に、近衛町Click!の造成とアビラ村(芸術村)Click!の開発構想もスタートしており、1924年(大正13)は第三文化村が販売されはじめた年だ。また、記載されている「翠丘住宅地」Click!とは、目白文化村の南東側から南西へと拡がる、アビラ村(芸術村)をも含めた目白崖線沿いにつづく住宅街の一般名称だろう。
 同書が出版された1932年(昭和7)は、前年の「満州事変」につづき「盧溝橋事件」が起きた年で、日中間の戦争が急激にエスカレーションしていく時期にあたる。「国民精神総動員」が叫ばれる状況の中、「反戦」を唱えつづけるマルクス主義者やアナーキスト、自由主義者、キリスト教者などへの思想・宗教弾圧がますます激しさを増している最中であり、東京朝日新聞社の文章からは、すでに当局へと迎合しはじめているニュアンスが感じとれる。

 

 『新・東京大観』下巻に収録された「淀橋区」で興味深いのは、山手線をはさみ戸山ヶ原の西部に建設された陸軍科学研究所Click!の建物写真が掲載されていることだ。のちに、陸軍技術本部も同地へ建設されるのだが、極秘研究の施設群だったためか、当時の両施設を撮影した写真はきわめて少ない。同施設では軍用技術の研究はもちろん、戸山ヶ原の東部にあった軍医学校Click!の防疫研究室Click!と連携した細菌兵器や、各種の毒ガス兵器も開発されていたといわれている。

◆写真上:『新・東京大観』に掲載された、上落合のナップ(全日本無産者芸術連盟)風刺マンガ。
◆写真中上:上は、1932年(昭和7)出版の『新・東京大観』上・下巻(東京朝日新聞社)。中は、同書の「淀橋区」絵図。下左は、当時の京王電車。下右は、「戸塚町に跋扈するカフェー街」というキャプションが付いているが、大隈講堂が見えているので早大南門近くの商店街。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)に竣工した大久保射撃場の様子。中は、池の端に料亭や茶屋がひしめいていた角筈十二社。下は、新宿大通り(左)と淀橋浄水場(右)。
◆写真下:上は、強風で土埃がまう当時の戸山ヶ原。中左は、西戸山へ陸軍技術本部とともに建設された陸軍科学研究所。中右は、旧・淀橋町角筈5丁目に設置された淀橋区役所。下は、ナップに参加していた小林多喜二Click!の記事を取り上げてくださった『[今昔]牛込柳町界隈』Click!Vol.7。