学生時代の友人が今年(2012年3月1日)、日本文学館から本を出した。題して『鬱病は治らない~一鬱病患者の一生態~』。タイトルからすると、最近はやりの鬱病本のようだが、内容はまったく異なる。かといって小説でもない。すべてが実話であり、登場する人物たちもすべて実名だ。後半に鬱病の治療現場がいろいろ登場するけれど、精神医療の最前線を描いたルポルタージュでもない。あえていえば、「自伝」ないしは「半生記」というところだろうか。
 「自伝」と名のつく本で、過去に面白いと感じたのは『マルコムX自伝』(1965年)と『マイルス・デイビス自伝』(1991年)ぐらいのもので、「自伝」=つまらないという先入観があるのだが、本書は誤解を怖れずにいうなら“面白かった”部類に属する。きわめて個人的な体験を綴っているにもかかわらず、「鬱病<が>治らない」ではなく「鬱病<は>治らない」と普遍化したのは、出版社の意向だろうか? 助詞の<が>を<は>にしたのは、「<が>では絶対に売れないぜ」という編集者の読みがあったのかもしれない。タイトルの助詞ひとつで、売れいきが大きくちがう出版界だ。
 著者の大草眞理子(旧姓・喜田眞理子)とわたしが知り合ったのは、大学2年のころだろうか。記憶力の悪いわたしは、彼女との邂逅をハッキリ憶えてはいないのだが、非常にアタマのよい女性だということは、話していてすぐに気がついた。わたしがアタマがいいと感じるのは、別に学歴でも学校のお勉強ができることでもない。人の考えや心の中身を先読みし、他者への気配りや数歩先までの会話がスピーディかつフレキシブルにできる人間のことだ。だから、アタマのいい人というのは聞き上手であると同時に、解釈や表現がたいへん的確で上手でもある。
 本書に登場する、某大学病院の精神科医やインターンたち、患者が教科書どおりの治療成果をあげないと、あるいはお勉強したテーゼどおりの反応を見せないと、ヒステリックに怒鳴りちらしたり、患者を強引に「治療済み」として早く通院をやめさせたがるエリート医師たちは、おこがましく患者を治療する以前に人としての基本的な学習と、教条的でなく回転の速い柔軟なアタマのよさとが絶望的に不足していると感じる。患者である彼女が、逆に医師たちの弱点の“治療”に手を貸してあげていたのでは?・・・と思われるシチュエーションが登場するので、何度か噴き出してしまった。
 大草眞理子はアタマのいい人だが、多面性をもつべき性格にはずいぶん偏りがあると思う。くだいていうなら、ものごとを悪いほうへ悪いほうへと解釈しがちなマイナス志向なのだ。わたしは友人とはいえ学部が異なるので、たまに文学部キャンパスなどで会うだけにすぎなかったのだけれど、その後の手紙やメールのやり取りは30年後の今日にまでおよんでいる。大学以前の彼女の生活を知ったのは、本書を読んでからなのだが、ものごとを多角的にとらえられる「複眼」をもちながら、こと自分自身の課題になると「単眼」的な“視野狭窄症”となり、没主体的で受動的な姿勢になるのは、幼いころから家庭環境で育まれ形成された性格からだろうか? 彼女の父親は、謹厳実直な裁判官だ。

 本書には、わたしの知り合いも何人か登場してくるのだが、そのうちのひとり森真理子が「誰だって不安や憂鬱になるよ。そんなの当たり前の感情じゃない」といい放つ線の太さが、同じ名前をもつ大草眞理子にはない。他者に対しては、いろいろな角度から先読みができ、すばやい分析ができるはずの彼女は、自身のことになると「誰だって・・・」という鳥瞰視点や一般化をする想像力が萎えてしまうようだ。換言すれば、そのような性格をもつ人間性に多々みられるように、他者の欠点や「イヤな面」はよく透過できるクールな眼差しをもっていると感じる。
 彼女は文学畑なので、本書には作家の好きキライも数多く登場している。少し紹介してみよう。
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 司馬遼太郎さんの書くものも、実をいうと好きではない。女を性の対象としか描いていないからである。/ついでにいうと芥川龍之介も嫌いだ。彼のものを読んでいて、娼婦と寝ながら「生きることは苦しいね」と言いあったという件(くだり)があって大嫌いになった。娼婦は貞操を金で売って生きている。そんな、人間としての尊厳を踏みにじられて生きなくてはならぬものの苦しみと、芥川の形而上学的な苦しみとはまるで質が違う。(中略)/さらにいうと、柴田翔も嫌いだ。いつも女にばかり決断させたり行動させて、自分は後で「想い」を抱くだけで卑怯な男だ。それでも男か。/太宰治も嫌いだ。「生まれてきて済みません」と言いながら、あちこちで私生児を拵(こしら)える。済まぬと思うなら、そんな、生まれてきても済まないような人間の子孫をたくさん生まれさすな。(中略) それに女と心中なんて、なんて情けない死に方をするのだ。死ぬなら一人で死ね。/三島由紀夫も嫌いだ。・・・(後略)/一九七六年に『限りなく透明に近いブルー』で村上龍が二十四歳の若さで芥川賞を受賞し、文学に重きを置く連中が羨ましがっていたが、私にはこの人の本は理解不能の世界。/翌年には三田誠広が『僕って何』で芥川賞を受賞。これはあまりにも内容がなく「これって何」って感じ。・・・
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 わたしも司馬遼太郎Click!がキライだが、それは本書で彼女が別のところに書いている、「絶対自己肯定型の人は自信満々で迷いがないから出世する」、つまり多くの人間を踏み台にし、ためらいもなく犠牲にするような人物を“英雄”に仕立てあげて顕彰するような戦前の古びた史観臭さ、現実の人文科学ないしは社会科学における歴史学とは無縁な「講談」の臭気を、司馬作品のどこかに強く感じるからだ。「ボク」ちゃんこと三田誠広Click!についてもまったく同感なのだが、本書を読んでいたら彼女が批判する、そして、わたしもあまり得意ではない太宰治Click!の小説の風味を、期せずしてうっすらと想い浮かべてしまった。こんなことを書くと、この記事を読んでいるのだろう本人から、猛烈な反発をくらうのかもしれないのだが・・・。
 「恥多き人生」を歩いた太宰治と大草眞理子は、まったく異なる性格であり性質だとは思うのだが(そもそも性さえ異なるのだが)、自意識が過剰でプライドがケタちがいに高い点で、両者の「私小説」と「自伝」という装いの相違はあるものの、どこかで通底する内向きの共通項を感じてしまうのだ。どこか、同じ肌ざわりとユーモア感覚さえおぼえてしまうのだ。
 最後の章で、現在の連れ合いさんや姑、あるいは義姉義妹を痛罵しているけれど、離婚騒動にならないのであれば、連れ合いさんは本質的に彼女の“味方”だ。もっとも、世間体を気にして懐が深いように見せかけ、陰でメメしく文句やグチや悪口を吐くような人物であるのなら、とっとと彼女のほうから願いさげにするはずなのだが、自身のことについては文学評のように清々しく、キッパリと見とおせないところが、大草眞理子たるゆえんなのかもしれない。
 

 わたしが、ガールフレンドを連れて彼女の下宿を訪ね、料理がとびきりうまい大草眞理子のランチだかディナーだかを食べながら、横にいるガールフレンドの「焼きそば」を褒めたかどうかまではよく憶えていないけれどw、続編(が出るとすれば)では実名で登場しないことを祈るばかりだ。わたしの学生時代の失敗を、いろいろと暴かれるのではないかとヒヤヒヤしている。でも、すでに30年もの歳月が流れ、本書にも登場している立原道造ではないけれど、新緑の香がまじる遠い「五月のそよ風をゼリーにして持って」くるのは、すでに手おくれで興ざめすること請けあい・・・だからなんだけどね。

◆写真上:2012年3月に日本文学館から出版された、文庫版の大草眞理子『鬱病は治らない』。
◆写真中上:ときどき、大草邸の庭先でなる柑橘系のフルーツを送っていただいているが、これはみずみずしくて見事なハッサク。(ごちそうさまでした、とても美味しかった)
◆写真中下・下:某大学の文学部キャンパスとその周辺の現状。現在はキャンパス全体がリニューアル工事に入っており、大草眞理子が歩いた当時の面影は希薄だ。立原道造の「五月のそよ風」ではなく、「六月の空は誇りに満ちみちていた」・・・と詠んだ詩人もいたけれど、誰だか忘れた。