鬼頭鍋三郎が、西落合へアトリエを建てたのは1932年(昭和7)のことだ。すでに鬼頭は、松下春雄Click!とともに帝展入選の常連となっており、前年の1931年(昭和6)には光風会の正式会員になっていた。おそらく、西落合にアトリエを建設したのは、名古屋を基盤にしていた制作の軸足を、本格的に東京へと移すつもりだったのだろう。
 『日本美術年鑑』Click!に掲載された、画家本人の申告による鬼頭鍋三郎の連絡先住所からみると、1932年(昭和7)現在は「名古屋東区千種町元古井29番地」となっている。ところが、同年に完成したと思われる西落合のアトリエに、鬼頭鍋三郎は引っ越してきていない。この間、どのような事情があったかは不明だが、1933年(昭和8)には第14回帝展に鬼頭の『画室の女』が入選し、翌1934年(昭和9)の第15回帝展では『手をかざす女』が特選に選ばれている。そして、鬼頭はこの特選を待っていたかのように、翌1935年(昭和10)に一家で西落合へと転居してくる。
 おそらく、アトリエが完成してから1935年(昭和10)までの3年間、家族を名古屋に置いたまま西落合のアトリエをときどき利用していたと思われるのだが、不可解なのは1935年(昭和10)の『日本美術年鑑』によれば、鬼頭の住所は「豊島区千川町3丁目4286番地」になっていることだ。アトリエ付きの住宅が完成していると思われるのに、新築の自宅を連絡先として申告せず、仮住まいと想定できる千川町に別の拠点をもっている。
 この仮住まいを経て、鬼頭一家が「西落合1丁目293番地」の自宅へ引っ越してくるのが、1935年(昭和10)の年内ということになる。1932年(昭和7)の建設当初はアトリエをメインに造作し、のちに家族を住まわせるために母屋の増築でもしていたのだろうか?
 
 鬼頭の『騎兵調練図』が、帝展に初めて入選したのは1924年(大正13)のことだ。同年に名古屋では、松下春雄Click!、中野安治郎、加藤喜一郎の4人で結成した洋画グループ「サンサシオン」Click!の第2回展を開催している。サンサシオンが特異なのは、出発点で美術学校がらみの画家の卵がひとりもいなかったことだ。絵画好きという共通項からスタートした画会で、鬼頭鍋三郎が銀行員、松下春雄も同じ銀行の後輩、中野安治郎は電気会社社員、加藤喜一郎は医学生と、メンバーたちは美術とはまったく関係のない分野で仕事をしていた。ところが、このサンサシオンが名古屋における洋画の潮流をリードしていくことになる。
 鬼頭鍋三郎の制作について、2011年(平成23)出版の『愛知洋画壇物語』(風媒社)に掲載された、名古屋画廊の中山真一「鬼頭鍋三郎と<サンサシオン>」から引用してみよう。
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 鬼頭は、生涯をとおして女性像を描いていく。師事した岡田三郎助ゆずりの優美にして品格あふれる女性像である。ときに実験的な描写を試みながらも、まずは描く対象をじっくれと見ることに徹し、節度を重んじて特別な理想化を加えず、誠実な写実に心血をそそぐ。≪手をかざす女≫に見られる人物画家としてのコローへの傾倒は、いかにも鬼頭らしい。一九三一年(昭和六)に会員となった光風会では、東京美術学校在学中すでに帝展特選となった小磯良平や、三度も帝展特選に輝く同郷の佐分眞Click!が、同世代でありながら少し彼の前を歩くかたちであった。
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 美術学校の出身でないサンサシオンのメンバーたちが、洋画壇を牽引することを快く思わなかった美術関係者も名古屋には数多くいたようだ。しかし、彼らはそれにもめげず、1933年(昭和8)の第10回展までサンサシオン展を開催している。途中、第4回展からはグループ展の殻を破って一般公募を行い、第6回展からは光風会とサンサシオンの合同展へと発展している。サンサシオン展への応募は全国レベルになり、先にご紹介したように下落合800番地に住んだ有岡一郎Click!や、当時は吉田の旧姓だった三岸節子Click!、杉本健吉などが作品を寄せている。
 鬼頭鍋三郎が建てたアトリエは、落合町葛ヶ谷306番地(のち西落合1丁目306番地?)の松下春雄アトリエから、東へ1分もかからずにたどり着ける。もちろん、1932年(昭和7)に鬼頭がアトリエを建設した当時、松下春雄は健在であり盟友のごく近くにアトリエをかまえたことになる。でも、鬼頭が西落合1丁目293番地へ家族を連れて転居してきたときには、すでに松下春雄は死去しており、松下アトリエでは1934年(昭和9)より柳瀬正夢Click!が仕事をしていた。
★鬼頭鍋三郎の長男・鬼頭伊佐郎様より、松下邸敷地の鬼頭アトリエは1945年(昭和20)まで鬼頭鍋三郎が使用していたことをご教示いただきました。したがって、西落合1丁目293番地の家は自邸であり、アトリエは付属していないことも判明しました。詳細はこちらClick!で。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、西落合1丁目293番地には比較的こじんまりとした家々が建ち並んでいる。西落合一帯は空襲を受けていないので、戦後もほぼそのままの家並みが残っていたのが、1947年(昭和22)の空中写真からも確認できる。同地番には合計12軒の住宅が建っているが、このうち1938年(昭和13)現在で名前が判明している4邸をのぞき、残りの8邸のうちのいずれかが鬼頭鍋三郎の自宅兼アトリエだろう。
 

 鬼頭鍋三郎は、戦後まもなく西落合のアトリエを引き払い、故郷の名古屋へともどっている。1949年(昭和24)現在の住所は、「名古屋市千種区元古井1丁目31番地」と“自己申告”しており、おそらく実家近くに新たなアトリエを建設したのだろう。鬼頭が落合地域ですごしたのは、一時的に松下春雄の下宿などへ寄宿したと思われる期間も含めると、およそ23~4年ほどになるだろうか。風景画を描いていた大正期はともかく、昭和に入ってからは人物画を数多く制作しているので、おそらく1923年(大正12)に制作された『落合風景』Click!のような作品は数が少ないだろう。

◆写真上:西落合1丁目293番地の周辺にいまも残る、戦災をまぬがれた戦前の住宅群。
◆写真中上:左は、1924年(大正13)に開かれたサンサシオン第1回展のころの鬼頭鍋三郎。右は、1934年(昭和9)に帝展で特選となった鬼頭鍋三郎『手をかざす女』。
◆写真中下:左は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる西落合1丁目293番地。右は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同所で、この中のどれかが鬼頭鍋三郎の自宅兼アトリエだ。
◆写真下:上左は、1925年(大正14)に描かれた鬼頭鍋三郎『夏日』。上右は、1930年(昭和5)制作の同『背向きの裸婦』。下は、1923年(大正12)のサンサシオン第1回展の記念写真。