先日、学習院馬場Click!へおじゃましたのと相前後して、学習院キャンパスの目白崖線に自然のまま残るバッケ(崖地)Click!も散策してきた。学習院の南、神田川をはさんだ対岸には、1929年(昭和4)まで「字バッケ下」の地名が戸塚町市街図にも記載され、下落合と同様にこのあたりも「バッケ」という用語がごく一般的につかわれていたエリアだ。もっとも、字バッケ下Click!は甘泉園のバッケに対する地形的な呼称が住所名になったものと思われる。
 以前、徳川義宣(よしのぶ)Click!の記事でもご紹介したが、目白学園(目白大学)と同様に学習院大学のバッケからも、2008年に旧石器時代の遺構や石器が発見され、考古学的にはきわめて重要なかけがえのない区画となっている。目白学園キャンパスで発見された旧石器Click!は、1950年(昭和25)という敗戦から間もない時代、しかも岩宿遺跡が発見されてからそれほど時間がたっていない時期のことであり、世間から大きな注目を集めた。また、目白学園とその周辺域では、旧石器時代から鎌倉期、さらには江戸時代にいたるまで連続して人が住みつづけていることが確認されており、歴史的な断絶期がほとんど存在しない重要な地域遺跡となった。
 実は、学習院大学のキャンパスとその周辺もまったく同様で、旧石器時代から新石器(縄文)、弥生、古墳、ナラ、平安、鎌倉、室町、江戸、やがては明治時代・・・と断絶期がほとんどなく、常に人が居住し、行き交った史的連続性の高い遺跡のひとつだ。すなわち目白崖線には、人が有史以来住みつづけてきたのであり、その上に建っている住宅街の地下は、ほとんどすべてが考古学的な「埋蔵文化財包蔵地」といっても過言ではないだろう。
 行政によって、正式に「埋蔵文化財包蔵地」と指定されたエリアは、目白崖線沿いに飛びとびで存在している。でも、わたしが保存している古墳期(おそらく前期と末期)に鍛錬された鉄剣・鉄刀Click!や碧玉勾玉Click!は、指定地の区画から出土したものではない。崖線沿いにある、ふつうの住宅街の工事現場から出土しているのであり、敷地所有者の方からお譲りいただいたものだ。行政による指定地は、あくまでも“学術調査”によって専門家が規定したエリアに限られている。ところが、目白崖線沿いにお住まいの方々は、自宅をリニューアルしたり地下や車庫を新築したりする際に、さまざまな遺構・遺物を発掘Click!しており、それはことさらめずらしい現象ではない。縄文・弥生の土器片や、巨大な古墳群Click!に並べられたとみられる埴輪片が邪魔なので、砕いて田畑の地面に鋤きこんでしまった・・・という話は、目白・落合地域全域で聞かれるエピソードだ。
 学習院のバッケから発見された旧石器は、考古学的な「武蔵野台地標準土層」で表現すると、いわゆる第Ⅴ層から第Ⅸb層まで、すなわち旧石器時代後期のほぼ全地層から出土している。別の言い方をすれば、旧石器時代後期の比較的新しい第1文化層から、かなり古い第3文化層にまでまたがる、同一地点における垂直的な発掘成果ということになる。これは、どのような意味を持つのかというと、縄文時代(新石器時代)以前の旧石器時代(無土器時代)にも、かなりの密度で人々=旧石器時代人が、目白崖線に居住・往来していたことを示唆する成果といえるのだろう。それだけ、この地域が住みやすい環境で、食糧や物資が豊富だったことを意味している。
 
 さて、旧石器が続々と出土した学習院の自然科学研究棟あたり、ちょうど学習院馬場Click!の北側斜面にあたる崖地を、馬術部の練習を見ながら散歩してきたのだが、地表に露出した土面から顔をのぞかせている、破砕痕の残った黒曜石を見つけた。石器として加工はされていないが、大きな原石を加工したあとの破片か、あるいはその貴重性を考えると加工前のストックだったのかもしれない。もちろん、江戸東京地域では黒曜石は採れない。旧・新石器時代には、長野県や北海道、静岡県などで採取された特別な石材であり、当時の物流ルートによって遠くからここまで運ばれてきた可能性がある。おそらく、新石器時代(縄文時代)=標準土層第Ⅲ層の地層ないしは残土にまぎれた黒曜石だと思われるが、神津島で産出した同石が南関東の遺跡で発掘されているところをみると、陸上ばかりでなく海上ルートによって運ばれてきたとも考えられる。
 学習院キャンパスから見つかった旧石器には、珪質頁岩(けつがん)製のものがあり、この石は東北や北海道からしか産出しない。したがって、この石も遠方からの物流ルートによって、この地にもたらされた可能性が高そうだ。また、第Ⅴ層~第Ⅸb層からは、ものを煮炊きしたと思われる炭化物集中痕や、石器の製造現場だったと思われる砕石場痕なども見つかっており、学習院の丘上ないしは斜面は定住を前提とした石器の「製造加工場」だったのかもしれない。すなわち、石器を製造する人々、その原材料となる石材を輸送する人々・・・というように、専門の仕事をそれぞれが担当する“分業化”社会が、当時から形成されていた可能性さえ示唆している。
 青森の三内丸山遺跡の発掘が、縄文時代のイメージを根底からくつがえしてしまったように、旧石器時代も改めて大きな見直しを迫られているように感じる。彼らは、動物を追いまわしながら「ウッホウホホ」と、定住もせずに野原を駆けまわって流浪していただけではないだろう。弥生期以前の日本列島人を、ことさら「原始人」「劣等人種」扱いして、「皇民化」が行なわれていない無知蒙昧な野蛮人たち・・・と規定し、自国の古代史に泥を塗りつづけ「自虐的」におとしめてきた、明治政府以来の非科学的な「日本史」(関西史)は、今回の学習院の発掘成果もそうだが、これからも事実の前には果てしない崩壊を繰り返してゆくにちがいない。発見や確認された事実の前に、予断や神話的妄想・空想の類が駆逐されていくのは、世界のどこの国でも、またいつの時代でも同様のことだ。
 
 
 学習院の考古学チームは、1923年(大正12)に大阪府羽曳野市の巨大な前方後円墳・誉田山古墳(こんだやまこふん)を発掘調査している。いまでも大学史料館Click!には、そのときに発掘された水鳥埴輪(5世紀前葉)などの成果物が保存されている。なぜ、当時の宮内省はこんな「大間違い」な、みずから墓穴を掘るような発掘調査を許可したものか、今日のかたくなで非科学的な宮内庁からみれば不思議なのだが、学習院チームはいそいそと発掘調査へ出かけていった。おそらく、わたしが想像している以上に、大正時代は創造的で開放的な世相だったのではないか。
 そして、ほどなく上記の5世紀に造られた埴輪類を発掘して持ち帰り、宮内省へと納めている。(のちに宮内省から学習院へ移管) 誉田山古墳は、明治政府が「応神天皇」(201~310年??)の墓である「応神天皇陵」と規定した前方後円墳であり、当時の宮内省はそれをみずから人文科学的に否定する学術調査を、学習院の考古学チームへ依頼してしまったことになる。3世紀に生き4世紀初頭に死去している北九州生れの人物(その生存年代にさえ多大な疑義が提出されている)が、100年以上もあとの5世紀前半に築造された墓の被葬者でないのはいうまでもない。
 現在、宮内庁はおそらく上記のケーススタディでひどく懲りたのだろう、「天皇陵」の発掘を以降全面的に禁止し(昨年、立ち入りが許可された古墳が2例あるが発掘は不許可)、学術とも科学とも無縁な姿勢を取りつづけているが、すでに大正期の学習院チームの成果により、そのほころびは明らかとなっている。また、台風によって大規模な土砂崩れを起こし、墳丘を取り巻く埴輪の一部が露出してしまった某古墳のように、「被葬者と埴輪の年代が、そもそもぜんぜん合わねえじゃんか」と指摘されてしまった「天皇陵」もあったりする。
 △△天皇陵とされた古墳が、実はなんの調査もなされずに、幕末の国学者や明治政府の宮内省と教部省(のち文部省)の官僚が、神話の記述や登場人物たちの事跡を空想しながら、古墳の規模やサイズのみを気にしつつ、具体的な根拠もなしに「なんとなく」テキトーに決めていた事実も、同志社大学の綿密な追跡研究によって、すでに明るみに出てしまってから久しい。
 
 
 わたしとしては、南武蔵勢力を中心に関東圏の巨大な古墳群Click!の被葬者にこそ興味があるのだけれど、ついでに近畿圏の古墳にも誰が埋葬されているのかぐらいは知っておきたい。少なくとも、誉田山古墳は「応神天皇」の墓などでないことは、学習院の考古学チームによって証明されているのだが、他の古墳群にはいったいどのような地域の有力者たちが被葬されているものか、日本史を見直すうえでも興味があるのだ。70年ほど前から科学的な進歩を拒み、神話世界につかった「なんとなく」の空気がよどんでいる宮内庁へ、21世紀の現代的な人文科学の光が射す日を待ちたい。

◆写真上:学習院キャンパスの南側に残る、昔ながらのバッケ(崖地)に通う小路。
◆写真中上:旧石器時代から現代までの地層が重なる、学習院バッケ(左)と土層露出面(右)。
◆写真中下:2010年に発行された「目白の森のその昔-学習院と考古学-」(学習院大学史料館)より、2008年に発掘された標準土層第Ⅴ層(第1文化層)の黒曜石のナイフとコア(左上)、第Ⅶ層(第2文化層)の黒曜石剥離とスクレーパー(上右)、第Ⅸb層(第3文化層)の石斧(下左)。下右は、発掘現場にみられる旧石器時代の地層で前方がバッケ(崖地)の急斜面。
◆写真下:上左は、石器を造ったあとの残滓かストックらしい黒曜石。上右は、石器状をしている切片。下左は、関東ローム層の旧石器時代における一般的な堆積地層。下右は、1923年(大正12)に学習院チームが誉田山古墳の墳丘から発掘して持ち帰った5世紀前葉の水鳥埴輪。