先日、下落合地域にある吉武東里設計の島津一郎アトリエClick!でお会いした東京大学の長谷川香様Click!より、吉武東里Click!が制作した絵画作品の画像をお送りいただいた。吉武東里は、もともと京都高等工藝学校図案科の出身であり、建築家であると同時に室内装飾や家具調度などのデザインを手がける、今日でいうなら建築分野のトータルコーディネーター・・・といったところだろうか。したがって、美術方面(特に西洋画)にも多大な関心を寄せていたと思われるのは、洋画家のアトリエをいくつか設計しているのでも明らかだ。
 お送りいただいた風景画は、キャンバスがタテのせいもあるのだが画角が非常に狭い。カメラのレンズにたとえるなら、55mmほどの“標準レンズ”、つまり肉眼に近い見え方、描き方だろう。“広角レンズ”の視線をもつ画家たちの作品を見馴れた目には、やや窮屈に感じるのかもしれない。西陽のようなやわらかい陽光が、樹木のまばらな林に射しこんでいる。春なのだろうか、地表に映ずる樹影には枝葉が茂り、地面も新鮮でみずみずしい若草色をしている。土地は、手前に向けて緩傾斜しており、吉武東里の背後には泉から湧く小流れか、あるいはさらに急傾斜の斜面があり、やや大きめな川が流れているのかもしれない。描かれている樹木は、庭に植えられた庭木というより、もともと緩斜面に生えている原生林のようであり、不ぞろいな幹の太さからも自然林の風情を強く感じる。
 木立ちを透かして、奥に西洋館と思われる建築が見えている。茶色の外壁をしているようだが、クレオソートClick!を塗布した下見板張りの壁面なのか、あるいはレンガ造りの建物かはマチエールが曖昧なので不明だ。ちなみに落合地域では、明治末以降に建てられた建築がほとんどであり、しかも関東大震災Click!後に建てられた家々も多く、地震の揺れに脆弱なレンガ造りの建物はきわめて少ない。すぐに思い当たるのが、箱根土地Click!の本社ビルClick!ぐらいだろうか。しかし、描かれた建物はレンガ造りのように思えるのだが・・・。
 この画面からのみでは、落合地域なのか、同地域であればどの場所を描いたものなのかは不明なのだが、描かれた緩斜面のつづきが目白崖線のようにバッケClick!(崖)状の急斜面にならず、射しこんでいる光が西に傾き気味の太陽であるとするなら、モチーフに選ばれた場所は吉武東里の自邸が建っていた上落合の東部付近・・・ということになるだろうか。

 吉武東里が住んだ上落合470番地(のち地番変更で469番地)、すなわち上落合の東部は、妙正寺川へ向けた緩斜面(北向き斜面)がつづき、大正期から大きめでオシャレな邸宅が建ち並んでいたエリアだ。当作の制作年が不明なのは残念だが、吉武東里は1921年(大正10)に上落合470番地へ自邸を建設し、太平洋戦争も末期の1944年(昭和19)まで住んでいるので(このあと大分に疎開して翌年死去している)、いつごろ描かれた風景なのかによっても、描画場所の推定は大きく異なってくる。その間、落合地域の風景は激変しつづけていたからだ。
 下落合では、大正の中期から箱根土地や東京土地住宅Click!などディベロッパーによる大規模な宅地開発がスタートし、木立ちの中にひっそりと建つ西洋館・・・というようなシチュエーションよりは、ハイカラな大正の洋風住宅街といった風景のほうが目立ってくる。一方、上落合側では田畑や林が短期間のうちに丸ごと消滅するというような、大規模な宅地開発が行われた形跡は見えない。昔からの地主による小規模な宅地開発が、年代を経るにしたがって多くなったという印象が強いのだ。したがって、同作の描かれた年代にもよるのだが、もし大正期の作品ではなく、昭和初期から戦前までの期間に制作されたとすると、わたしの感触からすれば、吉武邸のあった上落合の周辺域の可能性がやや高いだろうか。
 吉武邸を含む上落合東部の河岸段丘には、緩やかな斜面沿いに大きめな邸宅が建ち並ぶ、いわゆる“お屋敷街”が形成されていた。吉武邸自体もかなり大きいのだが、南側に接して建っていた同じ大分県出身の野々村金五郎邸は、現在の落合第二小学校の全敷地を占めるほどの広大な屋敷だった。1938年(昭和13)に作成された「火保図」では「野々村金吾」、1932年(昭和7)に編集された『落合町誌』では「野々村金五郎」と記載されている人物の紹介文を、同誌から引用してみよう。ちなみに、住民名をいい加減に採取している「火保図」Click!を考慮すれば、おそらく『落合町誌』に記された「野々村金五郎」が正しい氏名だと思われる。なお、同邸の建物の一部は戦時中、憲兵隊の詰所として使用されていたというお話を、落合第一地域センターでお会いした方からうかがった。
 
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 開発社々長 野々村金五郎 上落合四七二 / 大分県士族野々村正忠氏の三男、日本銀行理事島郁太郎氏の令弟にして明治元年九月を以て出生、同三十七年分家を創立す、先是同二十八年故井上侯爵の秘書として朝鮮に赴任、国学部顧問官となり後辞して大阪藤田組に入り、日本興業銀行に転じ営業部を檐任し、同三十九年南満州鉄道会社の創立と共に同社理事に挙げられ勤続八年、其間会社を代表して満国鉄道会議に出席、外遊一ヶ年大正九年以来川崎銀行常務取締役、麹町銀行取締役、東京銀行集会所監事たりしが昭和三年辞し現時大正二年以降主宰する開発社々長として邦家文教の進運に献替されつゝあり、著書に拿破崙(ナポレオン)戦史、露国史等あり、家庭夫人ジユン子は故貴族院議員秋月新太郎氏の二女、養嗣子亨氏は現時内閣統計局書記官の任にあり。
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 野々村金五郎邸や吉武東里邸の周辺は、下落合の五ノ坂上の「熊本村」と同様に、大分県出身者が集まって住んでいた上落合の「大分村」だったのではないか?・・・と想定しているのだが、このテーマについては改めて別の機会に追いかけてみたい。
 吉武東里が描く木立ちの「落合風景」(仮)のような、いまだ家々が少なかった落合地域の風景作品に、里見勝蔵Click!の『下落合風景』Click!(1920年)や佐伯祐三Click!の『目白自宅附近』Click!(1923年)、松下春雄Click!の『木の間より』Click!(1926年)などがある。いずれも大正中後期の作品であり、大規模な宅地開発による本格的な住宅街が出現する前後の情景なのだが、これらの画家たちの仕事を、絵に興味があった吉武東里がまったく知らなかった・・・ということはありえないだろう。なぜなら、彼は下落合の島津一郎アトリエや刑部人アトリエClick!の設計を手がけており、当然、依頼者を通じて落合地域に数多く住んでいた画家たちの動向や仕事について、よく知っていたと考えるほうが自然だからだ。また、島津一郎Click!や刑部人Click!を通じて、金山平三Click!や満谷国四郎Click!とも知り合ってさえいたのかもしれない。さらに、本作は『秋の庭』Click!(1933年ごろ)の金山平三とともに写生をする島津一郎のように、画家たちの野外写生会へ参加した際の作品なのかもしれない。そう考えると、当作品は下落合の西部(現・中井2丁目)、アビラ村Click!(芸術村)あたりにいまだ見られた風景なのだろうか。


 そして、必然的にもうひとつの課題が見えてくる。すなわち、東京土地住宅が1922年(大正11)に起ち上げた下落合西部のアビラ村(芸術村)計画Click!、あるいは昭和初期にスタートした島津家Click!による三ノ坂と四ノ坂界隈の大規模な住宅街建設Click!に、吉武東里も(近所の大熊喜邦ともども)どこかで関わっているのではないか?・・・というテーマなのだが、それはまた、別の物語。
最後に、作品掲載ではたいへんお手数をおかけしました。ありがとうございました>長谷川香様

◆写真上:制作年代の不明なのが残念な、吉武東里が描く『落合風景』(仮)。
◆写真中上:1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合東部で、大邸宅が建ち並んでいる。
◆写真中下:左は、1921年(大正10)の新井1/10,000地形図。野々村邸は採取されているが、吉武邸はいまだ記載されていない。右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる吉武邸の周辺。
◆写真下:吉武東里の設計による、島津一郎アトリエ(上)と刑部人邸+アトリエ(下)。