ひとつ、下町の視点から見ると、おかしな表現が山手にはあった。「鬼子母神」のことを「きしもじん」と呼称せず、「きしぼじん」と発音することだ。都バスの停留所や都営地下鉄の駅も「きしぼじん」であり、わたしの使っているIMEでは「きしもじん」と入力しても、数年前まではなぜか鬼子母神と変換されなかった。ただし、都バスの運転手さんの中には、「きしもじん」と発音する方を何人か知っている。下谷鬼子母神は、いまも昔も「きしもじん」と発音されている。
 だから、昔から山手の方言では「きしぼじん」と発音し、「きしもじん」は(城)下町Click!特有の方言(東京弁下町言葉Click!)かと思いこんでいた。ところが、1919年(大正8)に出版された山口霞村『高田村誌』(高田村誌編纂所)を参照すると、すべて「きしもじん」とルビがふられている。1931年(昭和6)に出版された『高田町史』(高田町史編集委員会)には、鬼子母神にルビがふられていないのでずっと疑問に思っていたのだ。東京弁での発音は、やはり下町も山手も同じだった。
 おそらく、「も」が「ぼ」と発音されるようになったのは、戦後に新たな住民が移り住むようになってからのことだろう。鬼子母神(威光山法明寺)Click!について、『高田村誌』から引用してみよう。
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 東都の名蹟雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじん)の名は全国之を知らざるものなく、帝都の西北郊外の一大史蹟なり、威光山法明寺の名は我名宗の大法燈として千古不滅の光明を放ち、苟も高祖聖人の高徳を仰ぐものにして、此霊境を拝せんことを願はざるは莫し、幽邃の光景、崇高の展望、俗界の耳目を新たにするのみならず、山川は幾多英雄興亡の跡を語り、草木亦懐古の感興を助け真に仙境と称すべし。其略縁起に曰く、/当山は今を去る一千百年の昔、弘仁元年慈覚大師の創立にして、真言宗稲荷山威光寺と称し、源家の御祈祷所なりしが、正嘉元年、宗祖日蓮大士の御弟子、中老僧日源上人当地弘法の砌り、時の座主該宗に帰依し、軽衣授戒し寺を威光山法明寺と改称す、以来宗門弘通の道場として世に知られ、伝燈四十六世六百五十年の今日に及ぶ、
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 この中で気になるのが、雑司ヶ谷鬼子母神の山号が当初は「稲荷山」と称されていたことだ。おそらく、下落合の雑司ヶ谷道Click!わきにあった小字「摺鉢山」Click!と同様、鬼子母神境内あたり一帯の地図に収録されなかった、昔からの通称的小字ではないか。もちろん「稲荷山」も、「摺鉢山」や「丸山」「双子山」「大塚」などと同様に、代表的な古墳地名のひとつだ。
 やはり、鬼子母神は下町と同様に、この地域ならではの呼称「きしもじん」を尊重したい。ちなみに、IMEでは製品にもよるが2010年ごろから、「きしもじん」でも変換できるようになったらしい。
 
 もうひとつ、気になることがあった。目白崖線の張り出した崖上に、江戸期には「富士見茶屋」が見世びらきしていた。清戸道Click!(現・目白通りとほぼ重なる江戸期の街道)を往来する人々が、途中で一服した茶屋だ。練馬方面へと抜ける旅人も利用しただろうし、江戸野菜をつくる近郊農家が江戸市街へ収穫物を運ぶ農民も立ち寄ったかもしれない。この茶屋の名称が、多くの資料には「富士見茶屋」とだけ表記されているので、怪訝に感じていたのだ。
 「富士見茶屋」という呼称は、「峠の茶屋」と同様に一般名称ないしは通称であり、茶屋の名前ではない。「富士見茶屋」は関東地方を中心に、おそらく江戸期には数百軒も存在していただろう。『高田町史』(1931年)をボンヤリ飛ばし読みしていたわたしは、『高田村誌』(1919年)でようやく屋号に気がついた。いわく、「珍珍亭」(ちんちん亭)というのだ。
 どうりで、なかなか屋号を記した現在の資料が存在しないわけだ。わたしのブログで取り上げるのにピッタリな、「珍珍」な名前だったのだ。w 同誌から、「ちんちん」亭の全文を引用してみよう。
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 下高田村の山手の方、富士見の茶屋といふは藤稲荷Click!より東北三丁余にあり、此処高き事五六丈此の茶屋より真正面に能く芙蓉峰を見ること相対する如し、その外に南西一里斗の間、遠山は農田を眺望し一瞬千里の美景な言語にたえ筆端に尽し難し、此高田村甚広く方二十町余、ところところに小石あり則ち此処を下高田原と称せり此茶屋を珍々亭とか呼ふ、近年何者か芭蕉翁の句を刻みて、碑を建置したり。
 目にかゝる時や殊更五月富士(遊歴雑記)  今は学習院境内とす
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 そう、珍珍亭は学習院キャンパスの中にあり、わたしもずいぶん前から訪れている。でも、当時は「富士見茶屋跡」という木製のプレートがあっただけで、「珍珍亭」のことは書いてなかったように記憶している。「珍珍亭」の跡を、もう一度写真に収めに学習院へ出かけたところ、ぴかぴか光るステンレスの立派なプレートが設置されていた。そして、そこには通称「富士見茶屋」の表現とともに、「珍珍亭」の茶屋名もしっかり刻まれていた。
 余談だけれど、富士見茶屋の「ちんちん」は「珍しくて稀有な」という意味で付けられているのだろうが、熊本弁で「ちんちん」は「睦まじい」とか「ごく親しい」という意味になる。「さしより、ちんちん同士んこつなりよりますばい」で、「すぐに、仲睦まじい昔馴染みのようになるでしょう」という意味になるのだが、熊本弁で「ちんちん亭」だと「親睦亭」とか「仲良し亭」というようなニュアンスになり、ちょっとほのぼの系の茶屋のような感じになる。
 考えてみれば、「富士見茶屋」という名称は安藤広重Click!が『富士三十六景』の中の1作として描いた、「雑司ヶや不二見茶や」の印象が強く、それ以来、珍珍亭ではなく富士見茶屋の名称があたかも固有名詞のように拡がっていったのだろう。広重が描いた同作は、珍珍亭から目白崖線沿いに西南西を向いた風景を描いている。手前には、のちに山手線が貫通することになる金久保沢Click!の渓谷への入り口がのぞいており、その向こう側には現在の日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮Click!)の急峻な崖が描かれている。下に通う道は、東の雑司ヶ谷方面へと抜けられる鎌倉街道(雑司ヶ谷道)で、その先には藤稲荷の入り口あたりに茅葺きの家屋が見える。
 『高田村誌』は、12年後に編纂される『高田町史』とはちがった面白い記述や写真が多々みられるので、今度また改めてご紹介したいと考えている。巻末の広告や人物紹介も豊富で、『高田町史』ではうかがい知れなかった、高田(現・目白地域)のさらに古い歴史を教えてくれる。
 
 さらに、このサイトでは三代豊国や二代広重が描く「下落合風景」(『書画五十三次・江戸自慢三十六興(景)』第30景「落合ほたる」Click!)はご紹介したが、かんじんの安藤広重(初代広重)が描く江戸期の下落合の風情を、いまだ十分にご紹介してこなかった。こちらも、広重の浮世絵(『富士三十六景』と『名所江戸百景』)2作を近々、改めて取り上げたいと考えている。

◆写真上:芭蕉の句碑もみえる、学習院キャンパスの崖っぷちに残る富士見茶屋「珍珍亭」跡。
◆写真中上:左は、『高田村誌』に掲載された1919年(大正8)ごろの鬼子母神境内。右は、1857年(安政4)作成の尾張屋清七版切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」に描かれた鬼子母神。
◆写真中下:上左は、代がわりした鬼子母神参道のケヤキ並木の現状。上右は、鬼子母神境内の現状。下左は、『高田村誌』に掲載の1919年(大正8)ごろに撮影された鬼子母神ケヤキ並木。下右は、樹木が成長して眺望がまったくきかなくなった「珍珍亭」跡の尾根筋。
◆写真下:左は、安藤広重の『富士三十六景』のうち「雑司ヶや不二見茶や」(部分)。右は、広重の版画にも描かれている藤稲荷から御留山Click!へとつづく目白崖線のバッケ。