落合地域には、バレエ教室(スタジオ)がいくつかあるが、以前に比べればずいぶん数が減ったのではないだろうか。日本におけるバレエ人気は、1960年代の後半あたりをピークに、その後、伸び悩んでいるように見える。特にバレリーノ(男のバレエダンサー)の不足は慢性化しているようで、バレエになどまったく興味がないうちのオスガキにも、小学生時代からかなり強いお誘いがしばらくつづいたぐらいだから、かなり深刻な状況なのだろう。
 バレエを習うぐらいなら、ちゃんと地元の清元や小唄、都々逸でも三味Click!といっしょに習えば・・・といいかけて、急いで口をつぐんだ。これでは、うちの親父の「女の子みたいにピアノを習うぐらいなら・・・」と、まったく同じになってしまう。そのせいで、ピアノを基礎から習いそこねたわたしは、いまでも悔しい気がしているので、バレエのお誘いのときは黙っていたのだが、「気味が悪いからイヤダ」・・・という子どもの言葉で沙汰やみになった。
 バレエ人気のピークは1960年代ばかりでなく、大正後半から昭和初期にかけてもあったようだ。そのきっかけとなったのは、ロシア革命で1920年(大正9)に日本へ亡命してきた貴族出身のバレリーナ、エリアナ・パヴロワの活躍と、1922年(大正11)に来日したロシアが生んだ世界的なバレリーナのアンナ・パヴロワの来日なのだろう。アンナ・パヴロワの生涯は、いまではもはやほとんど伝説化しており、当時から技術的にも表現的にもひときわ抜きんでたバレリーナだった。1922年(大正11)9月に、彼女は来日して帝劇をはじめ全国8ヶ所で公演している。ちなみに、アンナとエリアナはともにペテルブルグ出身だが、なんら血縁関係はない。
 新宿駅東口から少し離れたところ(現・厚生年金ホール跡西側)にあり、箱根土地が1924年(大正13)に建設した遊園地「新宿園」の劇場兼映画館・白鳥座Click!で、アンナ・パヴロワが踊ったという伝承がある。新宿園の建物を紹介する書籍などでも、白鳥座はアンナ・パヴロワの公演にちなんで名づけられた館名だという記述も多い。たとえば、手もとの書籍では1996年(平成8)に出版された藤森照信・他『幻景の東京―大正・昭和の街と住い―』(柏書房)にも、そのような記述が見えている。わたしも、その記述をここの記事で踏襲していたのだが、どうやらパヴロワちがいだったようだ。

 
 アンナ・パヴロワは1922年(大正11)に日本を訪れており、それ以降は来日していない。だから、1924年(大正13)に開園する新宿園の白鳥座では踊れない。白鳥座で公演したのは、アンナ・パヴロワではなくエリアナ・パヴロワのほうだったのだ。
 なぜ、このような齟齬が生じているのかというと、両者で名前がよく似ているせいもあるのだが、1922年(大正11)にアンナ・パヴロワが来日した際、サン=サーンスの「白鳥」をバックに踊ったのが彼女の代表的な創作バレエ「瀕死の白鳥」Click!だった。ところが、1925年(大正14)にエリアナ・パヴロワが白鳥座で踊ったプログラムにも、アンナ・パヴロワの「瀕死の白鳥」が含まれていた。どこかでエリアナ・パヴロワの名が、「白鳥」では世界的に有名だったアンナ・パヴロワにすり替わってしまったのだろう。あるいは、堤康次郎Click!自身が勘ちがいをしたか、または意図的だったかは別にして、「世界的なバレリーナのアンナ・パヴロワが来演した」という言葉を周囲に語るか、あるいはどこかへ記述していた可能性もありそうだ。
 アンナ・パヴロワが来日したとき、新聞や雑誌の記事は彼女の話題やニュース、舞台のレポートなどであふれた。バレエなどにまったく縁のない人たちまで、こぞってパヴロワを話題にするようになった。そんな「パヴロワ・フィーバー」の様子を、1922年(大正11)発行の『婦人画報』10月号に掲載された、山田耕作「トーダンスの世界的名手パヴロワ夫人」から引用してみよう。
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 (前略)かうした技術は何といつても世界一である。彼女の華やかな踊りと、自由な、思ひきつた技芸とは前にも後にも見ることが出来ない。/私はパヴロワが日本に於ては必ず成功することを信ずる。何ぜなら日本の人々は芝居に於ても、また舞踊に於ても、その技術、容姿、華やかさ、表面上の起居振舞ひを多く見ることに馴らされてゐるから。/兎に角、彼女の如き世界的の舞踊家を迎へて、その舞踊を見ることの出来るのは我々日本人の幸福であるのに相違なからう。特に花園に舞ふ胡蝶の如きパヴロワを見るのは、若ひ人々の喜びでなければならぬ。/パヴロワと三浦環さんとはどこか共通したものがある。環さんがマツクスラビノフのボストン・コンパニーの中に入つてゐた頃に、パヴロワもその中に入つて、一緒にロンドンに於て踊つたことがあつた。二人は平等の待遇を受けた。そして互に可なり肝胆を照し合つたことだらう。
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 三浦環は第1次世界大戦の勃発とともに、ドイツからイギリスへと留学先を変えているが、アンナ・パヴロワと出会ったのは米国からロンドンへと一時的にもどった1917~18年(大正6~7)ごろのことだろう。三浦環は3歳ほど年上のパヴロワのことを、「畏友」と呼んでいる。

 
 アンナ・パヴロワは、来日してから9年後の1931年(昭和6)、風邪から肺炎をこじらせ50歳の若さで急死している。ところが、同年に開かれた彼女の追悼公演「スノーバード」の舞台練習で不思議なことが起きた。フランシス・ドーブルという、アンナ・パヴロワに比べ技術的にかなり未熟なバレリーナが舞台上でリハーサルをはじめたとき、客席にいた原作者と制作者、そして作曲家の3人は奇妙な光景を目にする。リハーサルが長びき、時間は深夜の午前3時になっていた。1960年(昭和35)に出版されたR.D.ミラー『世にもふしぎな物語』(偕成社)から、その個所を引用してみよう。
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 この『スノーバード』のクライマックスでは、バレリーナのフランシス=ドーブルが、パブロワがおどった『白鳥』と、ほとんどおなじ振り付けでおどることになっていた。/サン=サーンスの作曲になる『白鳥』をおどったパブロワには、世界じゅうの人が拍手をおしまなかったものだ。/(中略)フランシス=ドーブルが、舞台のそでからでてきて、おどりはじめたとき、客席にいた三人はみょうな気がした。/フランシスが、いつもよりひとまわり小さくなったような気がしたのである。/しかも、みているうちに、フランシスのすがた形までかわって、動きといい、しぐさといい、アンナ=パブロワとそっくりになってきた。/フランシス=ドーブルは、パブロワにしかおどれない振り付けのおどりを、なんのぞうさもなくおどりつづけるのだった。/この振り付けは、『スノーバード』にはないものだった。/おしまいに、つま先でたったまま、三どもぐるぐるとからだをまわした。これは、フランシスにはとてもできないものだった。
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 容姿や身長までが変わってしまった舞台上のバレリーナを、3人は客席から唖然としながら眺めつづけた。ところが、かんじんのフランシス・ドーブルというバレリーナは完全に意識を失っており、自分がリハーサルで踊ったことさえ憶えておらず、3人の前にくると「さっきは、おどれなかったんです。とてもつかれていたらしく、急に気がとおくなって、しばらくぼんやりしていたようなのです」と謝罪し、さっそくリハーサルをはじめましょう・・・といって、3人をさらに驚かせている。この不可解な様子は3人のみならず、その場にいた舞台関係者の全員が目撃していたようだ。
 
 
 『スノーバード』の作者エリーナ・スミスも、のちに回想録でこの出来事を詳しく書いているので、まんざら関係者全員が幻覚や夢をみていたわけではなさそうだ。もし演出家や作者たちが、フランシス・ドーブルがパヴロワに匹敵する高度な技を急に習得したのだ・・・と考えたのなら、パヴロワの追悼公演なので演技に加えてもよさそうなものだが、彼女の振り付けは変更されていない。つまり、「フランシスには踊れるはずがない」という認識・判断が、最後までつづいていたことになるのだ。

◆写真上:宙吊りで「トンボ」を踊るアンナ・パヴロワ。
◆写真中上:上は、1922年(大正11)に来日したアンナ・パヴロワ一座の記念写真で後列中央がアンナ・パヴロワ。下左は、日本舞踊を鑑賞しに有楽座を訪れたアンナ・パヴロワ(右)。下右は、アンナ・パヴロワによるチャイコフスキー作曲の「白鳥の湖」。
◆写真中下:上は、アンナ・パヴロワの代名詞的な演技となったサン=サーンス作曲の「瀕死の白鳥」(白鳥)。下左は、1922年(大正)9月に帝劇におけるアンナ・パヴロワの舞台「花の目醒」。下右は、「瀕死の白鳥」を踊るエリアナ・パヴロワで新宿園の白鳥座にも出演した。アンナ・パヴロワに比べ、エリアナ・パヴロワはもう少し“たくましい”体型をしていたようだ。
◆写真下:上は、アンナ・パヴロワのポートレート。下は、1924年(大正13)に箱根土地により造成されて開園した新宿園の入口(左)あたりと白鳥座の内部(右)。