きょうのテーマは、昭和初期に長崎町大和田1983番地に建設された造形美術研究所Click!=プロレタリア美術研究所がどこにあったのか?・・・というテーマだ。造形美術研究所は1929年(昭和4)4月に同地番へ建設されたのだが、翌1930年(昭和5)6月にプロレタリア美術研究所と改称し、さらに1932年(昭和7)12月には東京プロレタリア美術学校という名称に変わって、ほどなく特高警察さらには憲兵隊の破壊襲撃により消滅している。
 このテーマがやっかいなのは、1929年(昭和4)から1930年(昭和5)の2年間、長崎地域では大規模な地番変更が実施されていて、従来とはほとんどまったく異なる地番が各エリアにふられているからだ。落合地域のように、1ケタ台の地番変更により住所が区画ひとつ、あるいは住宅敷地ひとつズレるというような生やさしいものでなく、長崎町大和田1983番地を例にとれば、地番変更後は1983番地が直線距離で300m弱も北東へ移動してしまっている。
 1929年(昭和4)現在の長崎町大和田1983番地は、目白通りを長崎バス通りClick!へ斜めに入るすぐ手前(目白駅寄り)の道を、目白文化村Click!のある下落合側とは反対の北側へ250mほど入った、銭湯「日ノ出湯」があった区画だ。長崎バス通りに沿った、トキワ荘Click!や刑部医院Click!からみると、北東へ直線距離で150m前後のところに位置している。また、1930年(昭和5)以後の長崎町1983番地は、武蔵野鉄道・椎名町駅のすぐ西側の線路沿い区画で、駅から直線距離で100m弱の徒歩1分以内の敷地に相当する。ほとんど徒歩0分の、椎名町駅前と表現してもいい立地だ。プロレタリア美術研究所を紹介した、1930年(昭和5)発行の『青年美術』から引用してみよう。
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 目白駅より徒歩約二十分、長崎町の一角(ママ)にわれわれは大きな研究所を持っている。建物はいささか粗雑ではある。しかしここへ集まるすべての者は同じ考えを持っている。「ここは俺達自身の研究所」だと、何故そう感じるか。/われわれの研究所は他の一切の研究所のように営利が目的ではないし、展覧会に入選することを以って事終れりと思っている者を養成するのが目的でもないのだ。われわれの目的は美術を階級闘争に役立てることだ。美術の持つ強力なる扇動宣伝性を十分に利用しようというのだ。(後略)
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 今日から見ると、美術を階級闘争の道具として矮小化した違和感をおぼえる文章なのだが、当時は日本資本主義が帝国主義段階(ないしは国独資段階Click!)へと突入して階級的矛盾や社会矛盾が噴出し、政治的にはファッショ化と軍国主義への道を歩みつづける中で、「あすにでも革命状況」が招来するフェーズであると捉えられていた時代背景から、美術もアジプロの媒体へと位置づけられたのだろう。事実、5年後には貧富の落差が激しい不安定な社会情勢を背景に、まったく異なる思想の原理主義的社会主義Click!(陸軍皇道派)の領域から、二二六事件Click!が勃発している。

 
 この文章で重要なのは、「目白駅より徒歩二十分」という表現だ。もし、プロレタリア美術研究所(旧・造形美術研究所)の長崎町大和田1983番地が椎名町駅前の立地であれば、おそらくこのような表現はとらないだろう。長崎バス通りに近いほうの立地は、やはり椎名町駅から歩いて徒歩10分ぐらいであり、目白駅よりもはるかに近いのだけれど、あえて「目白駅」と書いているのは山手線の駅から歩ける距離であることを強調しているように感じるのだ。でも、もし同研究所が椎名町駅前であれば、どう考えても「目白駅より徒歩二十分」などという書き方はせず、「椎名町駅より徒歩0分」あるいは「椎名町駅前」という表現をとっているように思われる。
 つまり、長崎町大和田1983番地という住所表記は、造形美術研究所が創設された1929年(昭和4)現在の所在地を踏襲しているのであり、翌1930年(昭和5)6月にプロレタリア美術研究所と改名されたあとも、この地番だったはずだ。しかし、翌1931年(昭和6)には地番が変更され、同研究所の住所はまったく異なる地番になっていただろう。おそらく、長崎町大和田2078番地となり、さらに豊島区が成立する1932年(昭和7)7月からは「椎名町4丁目」という町名がかぶせられ、その下の地番も再び整理されて変更が加えられているかもしれない。
 では、プロレタリア美術研究所で行われていた美術教育のカリキュラム、あるいは夏期講習会の内容とは、いったいどのようなものだったのだろうか? 1967年(昭和42)に造形社から出版された、岡本唐貴・松山文雄『日本プロレタリア美術史』から引用してみよう。

 
 
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 研究所はしばしば夏期講習会をもち、新しいメンバーの獲得と教育に努力した。講師はかなり幅ひろく招聘した。/技術指導は矢部友衛が中心だった。油、水彩、素描、ポスター、漫画、版画等となっているが、ふだんは素描と油絵を基礎技術としてモデルはヌードや、実際の職場の人を呼んでポーズして貰った。バスの車掌さんはしばしばポーズしてくれた。その外皆がかわりがわりモデルになった。学課は唯物史観、芸術学、美術史、プロ美術論、漫画論、ポスター論、ロシヤ語等で、プロ科学同盟、産業労働調査所、プロ作家同盟、プロ演劇同盟、その他、美術家同盟の各専門分野のリーダーがあたった。/生徒は自治会をもち、研究所生活を自立的に運営するようにした。研究所全体は自由奔放で、そこに若い連中がのびていくには恰好な場所が提供されていた。
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 ここで注目されるのは、おそらく日本でもっとも早い時期の「漫画論」の講義や実践授業が展開されている点だ。それは、画家の場合と同じような“弟子入り”という古めかしい師弟関係を前提としない、教師-学生という新しいシステムの漫画教育の形態だ。くしくも、戦後に漫画家たちが参集するトキワ荘から、わずか150mほどしか離れていないところで、特定の思想をベースにした教育とはいえ、日本初の漫画論講義や創作授業を行なっていた研究所が存在していたことになる。
 そしてもうひとつ、モデルには「バスの車掌さん」がしばしば登場している点も見逃せない。1930年(昭和5)現在、長崎町大和田1983番地の近所にいる「バスの車掌さん」といえば、ダット乗合自動車Click!に勤務していたバスガールClick!たちをおいてほかには存在しない。この当時、ダット乗合自動車の車庫Click!はプロレタリア美術研究所から目白通りへ出たところ、椎名町派出所の東隣り(長崎町大和田1965番地)にあり、また同様に営業所Click!は長崎バス通りを斜めに250mほど入った右手=東側(長崎町五郎窪4053番地)に位置していた。
 また、プロレタリア美術研究所は落合地域ともつながりが深く、上落合には付属施設として「プロレタリア印刷美術研究所」を1930年(昭和5)に設立している。漫画やポスター、ビラなどをより大量かつスムーズに印刷するための拠点づくりだったが、石版印刷機を導入したもののあまり使われないうちに弾圧でつぶされてしまった。プロレタリア印刷美術研究所は、上落合429番地に設立されているが、この地番は日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)と同一地番であり、同じ建物内に設置されたのだろう。上落合460番地にあった全日本無産者芸術連盟(ナップClick!)から、北へ100mほど上がった光徳寺Click!のすぐ東側の一画、あるいは1935年(昭和10)前後に拡幅された道路の下となっている敷地で、村山知義Click!のアトリエClick!からもわずか200mほどの距離だ。
 さて、1933年(昭和8)になるとますます弾圧は激化し、特高警察のみならず憲兵隊が長崎の東京プロレタリア美術学校(旧・プロレタリア美術研究所)を襲撃し、施設全体を破壊してまわった。このとき、同研究所の活動は停止し、ついに圧殺されたと思われる。

 
 目白駅から歩いて約20分、目白通りを約2kmほど西へ歩きながら長崎町大和田1983番地へと通ったメンバーには、1932年(昭和7)に小林多喜二Click!と結婚する伊藤ふじ子や、のちに夫となる森熊猛などの漫画家たち、そして途中でタブロー画家をあきらめP.C.L.映画製作所(のち東宝)へ就職し、映画監督をめざすようになる黒澤明Click!などがいた。では、同研究所を中心に行なわれた当時のプロレタリア漫画運動とは、いったいどのようなものだったのか、それはまた、別の物語。

◆写真上:1929年(昭和4)現在の、長崎町大和田1983番地(現・南長崎2丁目)界隈の現状。
◆写真中上:上は、長崎町大和田1983番地にあったプロレタリア美術研究所(元・造形美術研究所)。屋根の背後に少し離れて煙突が見えているが、銭湯「日ノ出湯」の煙突の可能性が高い。下左は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる同地番あたりで、目白通りへの出口にはダット乗合自動車がある。下右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる長崎町大和田1983番地。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)に発行された「長崎町地番変更地図」。中・下は、長崎町大和田1983番地とその周辺に拡がる住宅街の現状で、昭和初期の家々もところどころに残る。
◆写真下:上は、上野公園の東京府美術館で開催された第2回プロレタリア美術展覧会の記念写真。大月源二、岡本唐貴、黒澤明、木部正行、橋浦泰雄、喜入巌、市村三男三、牧島貞一(吉原義彦)、竹本賢三、小林源太郎、岩松淳(八島太郎)などの顔が並ぶ。下左は、1929年(昭和4)制作の黒澤明『建築場における集会』。下右は、1928年(昭和3)制作の平山鉄夫『新宿駅構内』。