日本は「漫画大国」だといわれるけれど、その歴史が詳細に語られることは案外少ない。たいがい、1945年(昭和20)の敗戦からスタートするか、せいぜい戦前の『のらくろ』(田河水泡Click!)、あるいは『冒険ダン吉』(島田啓三)や『ノンキナトウサン』(麻生豊)、『東京パック』の北澤楽天あたりまでで、またアニメでは戦時中の「ディズニーを超えるため」に国策として制作された、『桃太郎 海の神兵』(瀬尾光世/1944年)などがたまに登場するだろうか。
 もともと新聞や雑誌などに漫画を描く作者たちが、岸田劉生Click!や木村荘八Click!などに象徴されるように、本格的なタブロー画家を兼ねているケースが多かったのと、専業漫画家の数が少なかった(漫画では食えなかった)ことにもよるのだが、漫画史があまり語られない要因には、漫画が政府当局を批判する(同時に思想をアジプロする)風刺や揶揄の直接的な表現方法であり、明治期(見方によっては江戸期)より一貫して弾圧の対象となってきた経緯もあるからだ。
 江戸期には、「北斎漫画」に代表されるように、読本や読売(瓦版)などへ挿入される版画用の漫画や戯画も存在していたが、今日につながる漫画は欧米で描かれていた新聞や雑誌メディアの直接的な模倣からはじまっている。明治期に登場した初期の漫画作者としては小林清親Click!、平福百穂、小川芋銭、竹久夢二Click!、北澤楽天、そして宮武外骨Click!の雑誌類に挿画を描きつづけた漫画家たち(大正期まで)が挙げられる。自由民権運動に呼応した『団団珍聞』(野村文夫)、帝国議会の開催期に現れた『滑稽新聞』や大正デモクラシーの中で人気が高かった『スコブル』(ともに宮武外骨)などが掲載メディアとして登場している。
 そして、大正期に入ると漫画をベースに編集されたメディア『東京パック』(北澤楽天)を中心に坂本繁二郎、川端l龍子Click!、山本鼎Click!、小杉未醒Click!、石井鶴三Click!、石井柏亭Click!、和田三造、満谷国四郎Click!、赤松麟作Click!、倉田白羊Click!、織田一磨Click!など、落合地域でもおなじみの洋画家や日本画家と漫画作者とを兼ねた人たちが数多く輩出している。でも、彼らの中で漫画を専業にして描く作者は少なかった。また、明治期に鋭利化した風刺や揶揄の筆鋒はにぶり、エログロ・ナンセンスを主題にしたものが急増している。この時点で、漫画という表現方法は、おおっぴらに「市民権」をえたわけだけれど、それは当局の弾圧や規制を受けず馴れあうようにして、また同時に出版社側も発禁を心配することなく“当たり障り”のない表現においてだった。
 さらに、大正期から昭和初期にかけ、新聞社を中心に漫画の「新時代」ともいわれる全盛期を迎えている。1915年(大正4)には東京漫画会(のち日本漫画会)が結成され、新聞各紙は漫画の評判や人気度を競い合っていた。「東京朝日新聞」の岡本一平Click!や山田みのる、「東京日々新聞」の幸内純一、「読売新聞」の前川千帆や柳瀬正夢Click!、「国民新聞」の池辺鈞Click!、「中央新聞」の下川凹夫、「やまと新聞」の宍戸左行、「都新聞」の代田収一、「時事新報」の森島直造、そして地下の「赤旗(せっき)」には小松益喜Click!や寄木司麟などがいた。共産党の「赤旗」を除き、多くの新聞では当時の世相や流行、生活を風刺する漫画表現が多かった。
 
 漫画という表現の位置づけ自体が古く、画家たちの余暇仕事のような感覚のままだった日本漫画会と訣別し、漫画の「新時代」に適合する新たな団体「日本漫画家連盟」が1926年(大正15)7月に誕生する。結成の中心になったのは麻生豊、宍戸左行、在田稠(しげる)、下川凹夫、柳瀬正夢、そして村山知義Click!だった。漫画を「新興美術運動」のひとつと位置づけ、画家が片手間にこなすアルバイト的な仕事ではなく、それ自体が独立した芸術表現であることを明確に宣言している。同連盟の設立が、「絵画の亜流」芸術とは一線を画し、現在へとつづく日本の漫画芸術の出発点となった。日本漫画家連盟は旗揚げの際、宣言文を採択している。その全文を、『日本プロレタリア美術史』(造形社)所収の松山文雄「プロレタリア漫画小史」から、少し長いが引用してみよう。
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 われわれは独立せる漫画芸術の確立と発達を期す。
 われわれは人類幸福の妨げとなる凡ての物を排除せんことを期す
 宣言 / 漫画界は沈滞しきっている。総ての芸術中漫画程おくれているものはない。未だにポンチ絵の域を脱し得ないでいる。いうまでもなく漫画家に、形式の如何に拘らず、辛辣なる文明批評家、深刻なる人生批評家であらねばならない。しかるに今日のそれは如何であるか。新聞雑誌に売品主義の俗悪漫画を造るを唯一の目的として、漫画家の本性を忘れんとする現状ではないか。それがため娯楽雑誌、婦女雑誌は宣伝上のいわゆる大家を濫造し、玉石混淆の有様である。漫画の見識のない事夥しい。社会は民衆芸術を低級芸術と誤解しているようだ。漫画芸術のためには飽くまでも売品主義、俗悪芸術と闘わねばならない。故にわれわれは美術と思想との間に介在する新芸術の独立を計り(ママ)、わが有力巨大なる武器に十分磨きをかけ、文化戦野に立つ必要がある。如上の理由からして、われわれは今回日本漫画連盟を組織し、共同団結して目的達成に勇往邁進する覚悟である。
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 まるで、絵画界における「文展」に対する「二科」、「帝展」に対する金山平三Click!らによって推進された「第二部会」Click!、あるいは「二科」に対する「三科」のような勢いのある“宣言”文なのだが、すでにお気づきのように、明治期の藩閥政治に対する自由民権運動や議会開設運動、日清・日露戦争に対する反戦論調の戯画表現、財閥丸抱えによる政党政治の腐敗に対するデモクラシズム・・・というように、政治や社会の流れに対して、その動向をチェック・監視し批判・風刺する役割としての芸術表現、より前倒しにした言い方をすれば、現状の政治や社会の流れへ対峙しえるべき思想の発露手法としての漫画表現への希求が、日本漫画家連盟の宣言文には強く感じとれる。同連盟は結成と同時に、漫画専門誌の『ユーモア』を刊行しはじめている。

 昭和初期において、日本漫画家連盟の方向性は必然的にプロレタリア美術運動と結びつくことになった。そのせいで、のちに同連盟自体の存在や活動が全的に抹殺され、大量の作品が当局から発禁処分を受けて闇に葬られ、また展覧会などでは作品が特高Click!に没収されて行方不明ないしは廃棄された。その徹底ぶりは、江戸期の風刺漫画・戯画に対する幕府の締めつけや、明治期の自由民権や議会開設運動のころにみられた弾圧などよりも、はるかに規模が大きく徹底かつ野蛮なものだった。今日、ほとんどの作品が失われているため、大正期から戦前にいたる膨大な作品類は「なかった」ことにされて、日本の漫画史に登場してくることもまれだ。この時期の漫画は、“当たり障り”のない政府迎合型の作品のみが語られ、文学における「プロレタリア文学」というようなジャンル的位置づけさえ、まったくなされないまま今日にいたっている。
 わたしは、特定思想をアジプロするだけの押しつけがましいプロレタリア文学も美術も、はたまた漫画も残念ながらキライだけれど、実際にあった事実を直視せず「なかった」ことあるいは矮小化する史観はもっとキライだ。おそらく、大正期から戦前にかけて創作された漫画の中で、ボリューム的にはもっとも大きかった思われるプロレタリア漫画が、まるでこの世に存在しなかったかのようなすまし顔で語られる漫画史は、とても奇異かつ不可解に感じるのだ。
 昭和初期のプロレタリア漫画運動の中核をになったのは、古い師弟関係で成立する“習得”ではなく、教育のカリキュラムとして漫画講座が開設されていた長崎町大和田1983番地(現・南長崎2丁目)のプロレタリア美術研究所Click!(元・造形美術研究所)だが、特高ばかりでなく最後は憲兵隊によってとことん破壊しつくされた同研究所の存在自体も、いまでは限りなく薄められている。
 
 
 わたしは中学時代を終えるころから、漫画を読むことがほとんどなくなっているので、いまさら漫画について書くのも妙なことなのだけれど、落合・長崎地域を調べているとどうしても避けて通れないテーマに、画家のタブローと隣り合わせで表現されていた漫画の存在がある。また、戦後の代表的な漫画家が集合していたトキワ荘Click!も近いので、どうしても触れてみたくなるのだが、あとは椎名町・長崎地域の方たちにおまかせして、わたしは落合地域へともどることにしたい。w

◆写真上:昭和初期に、プロレタリア美術研究所への看板があったという地元伝承が残る道筋。
◆写真中上:左は、「労働農民新聞」や「無産者新聞」などへ連載されて人気が高かった須山計一『われらのプロ吉』。右は、1931年(昭和6)に描かれた岡本唐貴『祖国と廃兵』。
◆写真中下:1930年(昭和5)ごろ『プロレタリアカット漫画集』(戦旗社)掲載の竹本賢三『弾圧』。
◆写真下:上左は、1930年(昭和5)に戦旗社から出版された『プロレタリアカット漫画集』第30集。上右は、1931年(昭和6)に制作された松山文雄『ハンセンエホン・誰のために』。下左は、1930年(昭和5)に描かれた村山知義『魅力なき裸体/一名裸にされた帝国主義』。下右は、1928年(昭和3)ごろに制作された柳瀬正夢『田中大将の公平なる肥料分配』。