上落合470番地にあった1921年(大正10)築の吉武東里邸Click!は、ハーフティンバーが美しいチューダー様式の西洋館を中心とした、敷地面積330坪におよぶ大きな和洋折衷建築だった。1923年(大正12)9月に関東大震災Click!が起きると、吉武邸も門が崩れるなどの被害を受け、一家は近くの竹やぶに避難しているが、邸自体に大きなダメージはなかったようだ。
 1918年(大正7)の第一次募集以来、国会議事堂の設計案づくりはつづけられていたが、関東大震災により大手町や霞が関の官庁街はほとんど焼け野原になってしまった。おそらく、国会議事堂の設計に関する重要資料や図面も、同震災の延焼によりその多くが焼けているだろう。震災直後の1923年(大正12)10月から、吉武東里Click!は宮内省を離れ大蔵省営繕局の臨時技師となり、第三仮議院(正式な国会議事堂が完成するまでの仮議事堂)の設計にも着手している。この洋風2階建ての大きな建築(建坪6,304坪)は、わずか80日の突貫工事で完成した。
 もちろん、仮議院はあくまでも臨時の議会場であって、正式な議事堂の設計も同時に並行してつづけられた。でも、多くの省庁は大蔵省営繕局も含め、関東大震災のために壊滅的な被害を受けている。その様子は、実はすでに当サイトでも写真入りでご紹介していた。大震災で焦土と化した官庁街に出現し、鳥居龍蔵Click!によって撮影された小型の前方後円墳「柴崎古墳」Click!(将門首塚)の写真こそが、震災で壊滅した大蔵省の焼け跡そのものだ。
 いや、官庁街のみならず東京の(城)下町Click!は、繁華街を中心に大きな被害を受けていた。では、仮議院も含め国会議事堂の設計は、どこで継続して行われていたのだろうか? 吉武東里のご遺族の家には、国会議事堂の詳細な設計図面が残されている。そして、ご家族の方からの重要な証言も得られた。吉武東里のご遺族にあたる、渡鹿島幸雄様のお手紙から引用してみよう。
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 この屋敷(上落合の吉武東里邸)にかかわる、叔父吉武泰水(東里の次男で、生前、建築計画学を興し、東大名誉教授として、神戸、九州の芸工大学学長なども歴任)の話を印象深く記憶しておりますが、国会議事堂建設が緒に就いた際、折悪しく関東大震災に見舞われ、大蔵省を始め官庁街は灰塵に帰し、そのため、この屋敷を仕事場として、国会議事堂建設にかかわる技官をはじめとした関係者が、大勢集い、設計図面をはじめ資料作成に従事し、その慌ただしさのなかで、家族は落ち着きのない日々を堪えねばならなかったそうであります。/ですから、当時、関東大震災を免れたこともあって、国会議事堂建設に多大な貢献を果たした記念すべき建物と言えるかもしれません。(カッコ内は引用者註)
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 大震災の被害が比較的少なくて済み、1階に広い作業スペースを確保できる上落合の吉武東里邸が、壊滅してしまった官庁街の仕事場にかわり、大震災後における国会議事堂設計チームの拠点になっていた様子がうかがわれる。おそらく、屋敷西端に位置する吉武東里の広い書斎・アトリエ(10畳大)はもちろん、その東側に接した雑務室(6畳大)、その北側に接した広い洋間(10畳弱)、そして中央部の居間兼食堂(10畳大)にいたるまで、議事堂の設計チームが「占拠」していた可能性があるのだ。南側の庭園に面したサンルーム(5畳大)を入れれば、ゆうに40畳を超えるフロアが確保できることになる。そのために、家族は生活上かなり不便な思いをしたのだろう、印象深い記憶として当時の様子が吉武家に伝わっている。
 
 
 渡鹿島様からお送りいただいた国会議事堂の設計図面は、「帝国議会議事堂建築報告書付図」の中央塔の部分だ。おそらく、実際の図面から縮小されB4サイズで収録されているのだろうが、吉武東里の筆跡を明確化するためにA全大に拡大してお送りくださった。実際の図面サイズは、記載された文字の大きさからして相当に大きなものだったのだろう。だから、各部の詳細な設計図を描いていくには、その作図台の設置とともに相当広いスペースを必要としていたことがわかる。それには、かなりのスペースを確保できる上落合にあった築3年の吉武邸1階フロア部は、臨時の設計チームの利用に最適だったのではないだろうか。
 吉武東里は、議事堂の外観デザインばかりでなく、内装や家具調度にいたるまで詳細なデザインをしていたことが、東京大学の長谷川香様Click!の調査で新たに判明している。吉武東里の遺品の中から、「議事家具製作図面」が発見されたためだ。その内容について、長谷川香様の『吉武東里に関する研究―近代日本における図案家という職能―』(2011年)から引用してみよう。
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 (前略) 中身は大きく3部に分けられており、「貴衆両院ノ部」29項、「貴族院ノ部」23項、「衆議院ノ部」41項から成っており、図面に描かれている内容は、タオル箱、椅子、机、帽子掛け、衝立て、文書戸棚等多岐にわたるが、全て縮尺1/10、尺寸法で表現されている。(中略) さらに、図面には細かい寸法調整の書き込み(略)が多々見られ、細部にまでこだわり設計した様子が伺える。さらに図面の筆跡は全て同じであることから、東里はおそらくこれらの膨大な量の家具の設計を、一人で手掛けていたと考えられる。このように今回発見された家具図面からは、議事堂設計がなされた大正から昭和初期においては、今日とは違い既製品の家具が充実しておらず、国会議事堂という特殊な用途の建築を設計するにあたり、そこで使用されるほとんどの家具がその都度、新たに設計されていたことが分かる。東里は、議事堂の内観意匠において、室内装飾から家具にいたるまで、実に膨大な量の設計業務を手掛けていたことが分かる。
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 吉武東里による国会議事堂の外観デザインは、再三にわたり注文がついて修正されている。今日では、古代ヨーロッパのマウソレウム(霊廟)のデザインが取り入れられていることが定説となっているが、その意匠に決定するまでは実にさまざまなデザイン案が繰り返し制作され、提案されている。吉武東里は、初期のドーム案と和風の瓦屋根とを禁じられてしまい、途方に暮れていた時期もあったようだ。ドーム仕様のデザインを提出すれば「西欧追随」だと批判され、和風の意匠を提出すると近代国家として「ふさわしくない」と否定されたらしい。
 吉武が最終的に意識したのは、神戸の大倉山に建立された伊藤博文像の台座デザインだったといわれる。1885年(明治18)に内閣制度を整え、初代首相に就任した伊藤博文にちなんだコンセプトのもと、武田五一設計による同像の意匠を取り入れることにより、意思決定者の頭数が多すぎるデザインプレゼンテーションを通そうとしたのではないか。その様子を、2000年(平成12)発行の『近代画説』(明治美術学会)に掲載された、鈴木博之『国会議事堂の意匠』から引用してみよう。
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 息子である吉武泰水の証言によると、吉武東里は最初はドームを戴いたデザインをしていたにも関わらず、それはあまりに西欧追随的なデザインであると批判され、それ以外の意匠を模索しなければならなくなったという。宇治の平等院鳳凰堂のような瓦屋根も考えたが、今度は近代国家としての意匠にならない。吉武は、ドームと瓦屋根というふたつの一番オーソドックスな意匠を封じられたところで、国会議事堂の設計をしなければならなかった。そこで彼は別のデザイン源を求めた。/ドームも瓦屋根も封じられたなかで、吉武が思い浮かべた師、武田五一のかつて伊藤博文銅像のために用いたデザインは、国会議事堂にまことにふさわしいものと思われたはずである。
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 国会議事堂は1936年(昭和11)11月にようやく完成をみるのだが、そのわずか4年後に政党制および議会制そのものを否定し死滅させる大政翼賛会Click!が誕生し、明治政府以来の大日本帝国は戦争と破滅への道を、まっしぐらに突き進んでいくことになる。吉武東里や大熊喜邦Click!はもちろん、当時は、いまだ誰も想像だにしえなかったことだろう。議事堂に死者を葬るマウソレウム(霊廟)のデザインを取り入れてしまったことは、偶然とはいえ歴史の皮肉というべきだろうか。
 
 


 もうひとつ、面白いエピソードがある。大震災後、上落合で設計がつづけられ1936年(昭和11)に完成した議事堂だが、その6年後に議事堂をモチーフに選んだ画家が、吉武邸とは反対側の丘上に住んでいた。下落合4丁目2096番地に住み、1942年(昭和17)に『議事堂のある風景』を描いた松本竣介Click!だ。議会政党制が死滅していた当時、松本はなぜあえて議事堂をモチーフに選んでいるのだろうか? 吉武東里は、刑部邸Click!や島津邸Click!の近くに住むこの画家のことを耳にしていただろう。でも、松本は議事堂の設計が目の前の上落合で行われていたことを、おそらく知らない。

◆写真上:吉武東里のご遺族が保管されている、「帝国議会議事堂建築報告書付図」の中央塔設計図。高さは65.45mあり、当時の日本橋三越を抜いて東京でもっとも高い建築となった。
◆写真中上:上は、関東大震災で全焼した「柴崎古墳」(将門首塚)の大蔵省。下左は、1941年(昭和16)に撮影された上落合470番地の吉武東里邸。下右は、吉武邸跡の西側接道の現状。
◆写真中下:上は、1921年(大正10)に建設された吉武東里邸設計平面図の母屋西側の拡大。中は、吉武東里邸設計側面図の北側正面。下左は、1911年(明治44)に武田五一によって設計された大倉山(神戸)の伊藤博文像台座。下右は、完成した国会議事堂の中央塔部。
◆写真下:上は、国会議事堂の中央塔設計図の、各部を拡大した図面表現。下は、日本軍が連戦連勝をつづける1942年(昭和17)1月に制作された松本竣介『議事堂のある風景』。