戦前、(城)下町Click!にはいろいろな習いごとが存在していた。それは、江戸期からエンエンとつづいているものもあれば、明治以降、急に流行り出したものもある。特に音曲の心得に関しては、町場では「線道をつける」といった。わたしの祖母は、親父に「線道」をつけようと清元を習わせていた。その清元用の細竿Click!が家に伝わっているけれど、もちろんわたしは「線道」などつけられなかった。せいぜい、昭和初期の世代までつづいた習いごとだ。
 「線道をつける」とは、別に芸の道へ進ませることではなく、下町人の一般教養のひとつをそう表現したものだ。長唄、清元Click!、常磐津、新内、端唄、浄瑠璃など、いずれかを三味(しゃみ)を片手に口ずさめないと、打ち合わせ(寄合や仲間内)とか祭事・祝事で大恥をかくことになるからだった。今日でいえば、宴会で持ち歌のひとつや隠し芸がなければ、呆れられるのと同じような感覚だが、「線道」ははるかに重大な教養のひとつで、少なくとも日本橋地域では九九ができないとか、文字が満足に書けないのと同等の、“無教養”に近い感覚だったらしい。
 大学を出た学士だろうが博士だろうが、「線道」がついていない人間はどこにいても片すみで小さくしてなければならない・・・という、下町独特の感覚があった。(この感覚は、いまでも薄っすらと感じられるのだが) だから、「線道」も芸もまったくないわたしは、祖父母以上の世代から見れば、箸にも棒にもかからない無粋で無教養な人間・・・ということになる。江戸の後期になると、この感覚は町人ばかりでなく旗本や御家人などの武家の世界にまで拡がっていったようだ。音曲(三味)以外には、踊りや琴、月琴、尺八などが必須の習いごととして登場してくる。
 逆に、武家の世界のたしなみだった剣術や柔術、謡(うたい)Click!、詩吟、茶、歌(和歌)などが町人の間に浸透していったのも江戸後期になってからだ。長さ2尺(刀の長さは刃長のこと)以上の打ち刀を指しては歩けないのに、人気のある刀鍛冶Click!へ大刀を注文打ちしてもらったり、あるいは古刀を購入して観賞用に所有する町人が激増Click!していった。鑑定会や能楽、茶会、歌会などに参加する町人もめずらしくなくなっていく。だが、明治になると改めて山手と下町の趣味や教養は再び分離し、軍人や官吏の趣味と町場(一般市民)のそれとは、大きなちがいを見せるようになる。
 
 親父が習っていた清元のお師匠(しょ)さんについて、わたしは詳しく聞きそびれているのだが、とてもきびしい女師匠だったようだ。明治期には、「線道」のお師匠さんは岡本綺堂Click!によれば、女性が6割に対して男性は4割だったそうだ。でも、昭和初期にはおそらく女師匠の割合が、江戸期と同様に激増していたと思われる。親父の感覚でさえ、「線道」の男師匠のところへなど気味(きび)が悪くて通いたくないからだ。また、娘を持つ親も、男師匠よりは女師匠のもとへ通わせたがっただろう。当時の月謝は、50銭が通り相場だったらしい。
 ただし、月50銭なら安いじゃないかと、安心してばかりもいられない。月ざらい(毎月の発表会)や季節ざらい(年4回の発表会)は、改めておカネを払わなければならないし、春は師匠宅の畳がえ、冬は炭代(暖房費)、年に一度は師匠の三味皮の張り替え・・・と、そのつど50銭だ1円だのと弟子たちの出費はつづく。ましてや、大きな発表会へ出るともなれば、仲間うちへの祝儀だ飲食代だと、おカネはかさむ一方となる。また、そのぐらいのおカネを生徒たちから徴収しないと、月50銭っぱかりでは師匠の生活(たつき)が成り立たないという事情もあった。それでも親たちは、子供になんとか「線道」をつけようと通わせることになる。
 さて、このような町内の「線道」師匠は、下町(旧・城下町)ばかりかと思いきや、山手にも数多く存在していた。もちろん、習いにくる弟子(生徒)は町場に比べれば少なかっただろうが、「線道」とは別に大きなニーズがあったのだ。たとえば、山手の家でお客をもてなすとき、なんの音曲もないと寂しい。かといって、主人や夫人、書生がなにか気のきいた長唄のひとつも唄えるわけではない。だからといって、芸者を呼んだりすれば出費もかさむし世間体も悪い。そこで、近所にいるお師匠さんに出張してもらい、少し三味を爪弾いて口ずさんでもらえば、そこそこ品位を崩さずスマートな宴席や食事会が演出でき、座が白けずに保てる・・・というわけだ。また、乃手では弟子たちの通い稽古ではなく、師匠が弟子の家へとおもむく出稽古も盛んだったらしい。師匠にとって出稽古のいいところは、通い稽古に比べて何倍かの月謝を期待できたからだ。

 
 戦前、山手に住んでいたお師匠さんたちの大半は、通い弟子たちの月謝で食べていたわけでなく、このような音曲の出張サービスや出稽古で暮らしていた。現在でも、山手で「線道」の師匠宅(いまでは教室)を見かけるが、戦前からつづいている師匠宅は、おそらくそのような山手マーケットのニーズに応えてきたのだろう。また、戦後になって教室を開いているお師匠さんは、下町から山手へ転居してきたのであり、わたしが下落合で耳にする三味の音の大半は、もともとは下町の人たちのような気がする。もちろん下町でも、戦後は「線道」をつける人たちの数が激減し、むしろ山手の比較的時間に余裕のある夫人連のほうが、趣味におカネをかけてくれるのではないか?・・・という期待や読みがあったからなのかもしれないし、1964年(昭和39)の東京オリンピック以降、「おきゃがれClick!てなもんよ。こんなとこ、もう住めやしませんのさ」と、住環境の悪化に見切りをつけてサッサと乃手へ転居してきたのかもしれない。
 岡本綺堂が1940~1941年(昭和15~16)に書いた『東京明治風俗』(のち『東京風俗十題』へと改題)の中から、山手や下町で流行っていた当時の音曲趣味について引用してみよう。
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 東京で昨今最も流行するのは義太夫で、相応に身分のある人も、髭面を皺めて「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」などと唸っていること、かの謡曲と同様である。/次は長唄で、これは比較的に品が好いので堅気な家庭の娘が習うのと、長唄が地であれば他の浄瑠璃を習うのに都合がよいために、芸妓屋の下地ッ子、その他の芸人が習うのとで、昔から一般的に行われている。/しかし、江戸生粋というのは清元、これに次ぐのが常磐津で、いやしくも粋とか通とかいう手合はまずこれに取りかかることに決まっているようである。さらに河東節、一中節などとくると、これは通人のうちでもある一派が特別に賞翫することで、とても世間一般には通用せぬ。
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 わたしが小学校に上がるころ、なにか習いごとを・・・ということになり、さすがに「線道をつける」などということはなかったけれど、母親は「弦道」をつけたかったらしくピアノを習わせたいといった。でも、親父は「男の習いごとじゃない」といって首をタテにふらなかった。親父にしてみれば、ピアノを習うという行為は乃手の女子のたしなみのように映っていたのだろう。おそらく、そのような家庭環境からだろうか、当時のわたしの感覚でさえピアノやバレエをやっている男子は、どこか気味が悪かったのを憶えている。いまから思えば、ピアノは惜しいことこの上ないのだが・・・。いろいろとすったもんだのあげく、わたしは中村彝Click!の孫弟子Click!のもとへ絵を習いに通うことになるのだが、「線道」や「弦道」はおろか、「筆道」さえ満足に習得できないまま今日にいたっている。

◆写真上:飛鳥山の都電駅の近くで見かけた、いまやめずらしい「線道」教室の看板。
◆写真中上:左は、国芳『猫のけいこ』に描かれたお師匠さん。右は、尽し絵にみる「新内流し」。
◆写真中下:上は、河竹黙阿弥Click!が書いた常磐津舞踊『戻橋』で小百合は7代目・尾上菊五郎と渡辺綱は7代目・松本幸四郎。下左は、戦後間もない1950年(昭和25)ごろに撮影された一条戻橋。下右は、そのすぐ近くにあるキツネの化身といわれる安倍晴明を奉った晴明稲荷社。
◆写真下:左は、下落合から上戸塚をはさんだ南側の大久保百人町312番地界隈に住んでいた岡本綺堂邸跡。右は、いまにも三味の音が聞こえそうな日本橋の路地裏。