佐々木孝丸ほど、舞台や映画での役柄と、その思想性とが乖離していた人物はいないだろう。映画やTVなどを例にとれば、「越後屋」的な悪徳商人や経営者、腐敗した官僚、硬直化した企業の重役、いわくありげなフィクサー・黒幕・暴力団組長など枚挙にいとまがない。
 わたしが印象に残る映画作品には、小学生時代になぜか文部省・教育委員会推薦の巡回作品として体育館で上映された、『戦艦大和』(阿部豊監督/1953年)の有賀艦長役と、最近DVDで観た『ゼロの焦点』(野村芳太郎監督/1961年)におけるヒロインの夫の上司、結婚式でしかつめらしい祝辞を述べる博報社wの重役だろうか。いつも、「この人にはなにを言ってもムダ」・・・というような、ゴリゴリに固まった組織内の頑固な現状肯定・保守主義者(ときに教条主義的な狂信者)のような役どころばかりなのだが、佐々木孝丸Click!が戦前戦後を通じて、あちこちの争議現場で唄われた「♪起て~飢えたる者~よ、いま~ぞ日は近し~」の、『インターナショナル』の元祖・訳詞者なのは案外知られていない。フランスの詩人アルベール・ポティエの作品を佐々木が訳し、1922年(大正11)に代々木にあった農家の藪で唄われたのが最初だったようだ。このあと、1929年(昭和3)に佐野碩とともに再度、歌詞のブラシュアップが行なわれている。
 わたしは、残念ながら舞台上の佐々木孝丸の姿は観たことがなかったと思う。滝沢修の舞台は、何度か親父に連れられて観ているので、もしそこで共演していたら“観た”ということになるのだが記憶にない。この人の仕事は、むしろ脚本家あるいは演出家としての業績のほうがはるかに大きいのかもしれないのだが、わたしの世代では、そのような印象はまったく形成されていない。むしろ、森繁久彌Click!へ代替わりする前の、日本俳優連合の理事長としての記憶のほうが鮮やかだ。わたしの学生時代には、すでにあまり活躍をしていなかったのではないか。
 余談だけれど、先年ネットで放映された連続スリラードラマ『恐怖のミイラ』(1961年)で、わけのわからない考古学博士役に佐々木孝丸が出演していて仰天してしまった。もう、この人はまったく役柄を選ばず、「面白い!」あるいは「そろそろ暮らしに困るなぁ」と思ったら、なんでも引き受けてホイホイ出てしまう気さくな性格だったように思える。映画『月光仮面』(1958年)では、「どくろ仮面」を楽しそうに演っていたらしい。わたしの世代では、『マグマ大使』の“ゴア様”を滝沢修か宇野重吉、芥川比呂志が演じているような感覚なのだが・・・。
 1917年(大正6)に東京へやってきてから、佐々木孝丸はなにかと目白・落合地域や新宿地域とのつながりが濃い。転がりこんだ芝園橋近くにある友人の下宿から、徒歩で最初に訪問したのが目白駅の北側、山手線沿いにあった雑司ヶ谷字大原の「大日本文学会」だった。翌年、エスペランティストの秋田雨雀Click!を頻繁に訪問できるよう、佐々木は雑司ヶ谷鬼子母神Click!近くへ引っ越してきている。近くの目白台には、のちに前衛座の舞台をともにする花柳はるみも住んでいる。
 
 1920年(大正9)には、新宿中村屋Click!の2階を借りて創作戯曲の朗読会「土の会」を開催した。この会には、秋田雨雀に佐々木孝丸、相馬黒光Click!と相馬千香Click!(当時は自由学園の生徒)、神近市子Click!、水谷八重子(初代)Click!、そしてワシリー・エロシェンコClick!などが参加している。「土の会」は、のちに中村屋の「土蔵劇場」へと発展していき、演劇界ばかりでなく文学界からも島崎藤村Click!や有島武郎らが集まるようになった。関東大震災Click!で倒壊してしまう「土蔵劇場」で、舞台装置のすべてを担当していたのが画家の柳瀬正夢Click!だった。
 佐々木孝丸は、1927年(昭和2)11月に月見岡八幡社Click!(移転前)の北側、上落合215番地の大きな家へと引っ越してくる。広い家を選んだのは、前衛芸術家同盟(前芸)の事務所と稽古場とを兼ねていたからで、佐々木は家族とともにこの屋敷で暮らしていた。のちに、中野重治・原泉Click!夫妻が越してくる上落合481番地の家から、わずか40mほど東寄りの位置だ。
 屋敷の事務所や稽古場には、林房雄Click!をはじめ村山知義、藤森成吉、蔵原惟人Click!、中野正人、川口浩、山田清三郎、柳瀬正夢、河原崎しづえ、杉本良吉、藤枝丈夫などが出入りし、当時における最先端の演劇拠点のひとつとなっていた。ここでの様子について、1959年(昭和34)に出版された、佐々木孝丸『風雪新劇志―わが半生の記―』(現代社)から引用してみよう。
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 私は、またもや高円寺を引き払つて、上落合へ移り、そこを前衛座の事務所にした。そして、脱退組は即日この新事務所に集り、新たに「前衛芸術家同盟」(略称「前芸」)を結成した。/例によつて例のごとく、双方からの「声明」戦や「宣言」戦が行われ、「大義名分」をふりかざしての正面きつた主張の反面、醜い個人的な中傷や漫罵の泥仕合もくりかえされた。前芸は機関誌として「前衛」を発刊することになつた。ところで、又しても前衛座の争奪戦だ。
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 ・・・と、佐々木孝丸は繰り返す“セクト主義”と、劇団の分裂(争奪)騒ぎの渦中にいた。
 
 翌1928年(昭和3)5月、佐々木孝丸がとある大衆食堂で昼食にライスカレーを食べながら打ち合わせ中、「深夜泥酔して高歌放吟し、路上に於て婦女にたわむれ」た現行犯を理由に検挙されると(もちろん特高Click!によるデッチ上げだ)、残された家族は近くの村山知義Click!(上落合186番地)に相談して、上落合189番地に新しい家を借りている。ちょうど、月見岡八幡社(移転前)の南側、三角アトリエClick!から東へほぼ30mほど、ほとんど並び隣りといってもいい位置だ。
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 留守中に、私の家はまた引つ越していた。プロ芸・前芸の合同(「ナップ」Click!のこと)によつて、事務所も稽古場も淀橋へ移つたので、それまでいた家が広過ぎるし、第一私個人では家賃を払いきれないので、今度は上落合の村山知義のマヴォー的な怪奇な様相をした三角形の家のすぐそばに、こじんまりとした二階建ての貸家を見付けてそれへ引き移つたのだ。私の市ヶ谷(刑務所)滞在中に、妻が、山田清三郎夫妻と相談して、そこにきめたのであつた。前衛座以来、私の家は常に、団体の本部と稽古場と私邸とを兼ねていたのだが、一年半ぶりで、自分たち家族だけの住居をもつことになつたわけであつた。(カッコ内は引用者註)
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 その後、地下に潜った「党」からの理不尽な要求や、つまらない政治論に終始するアジ・プロ的な「演劇」論、繰り返される人間関係のゴタゴタなどに心底嫌気がさし、自身が「ダラ幹」だと糾弾され「村八分」になったのを機会に、佐々木孝丸はすべてのポストを辞めて、逃げだすように一俳優にもどった。左翼演劇から距離を置くようになっていたため、佐々木はなんとか検挙をまぬがれていたが、1940年(昭和15)に彼は「自由主義者」として改めて特高に逮捕されている。この時期、佐々木孝丸は滝沢修、小沢栄太郎、宇野重吉、松下達夫、嵯峨善兵、東野英治郎(当時は本庄克二)、松本克平などといっしょに仕事をしていた。
 戦後の昭和30年代、地方へ映画ロケに出かけた佐々木孝丸は、待ち時間にブラブラしていたら草原でコーラスを唄う、異様に明るい若者たちに「おじさんも、一緒に唄おうよ!」と腕を引かれた。おそらく、日本共産党による“六全協”直後だったのだろう、「歌声運動」の若者たちが自分の作詞した『インターナショナル』を唄いはじめたので、佐々木はほうほうの体で逃げだしている。
 
 昭和初期の演劇運動史を追いかけていると、わたしが山歩きの帰りに必ず立ち寄る、大磯Click!の裏山にある記念公園の主にいきあたる。佐々木孝丸とも劇作や演出面で親しく、湘南の海を眺めるのが大好きだった高田保に直結するのだが、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:村山知義アトリエの東並びにあった、上落合189番地の佐々木孝丸邸跡の現状。
◆写真中上:左は、警官隊に催涙弾を投げられて急に弱る恐怖のミイラは、「やっぱり肺呼吸してると考えなければいけません、板野博士」。東京の閑静な住宅街で、「ミイラがいたぞー!」と叫ぶ警官はシュールで楽しい。右は、1961年(昭和36)の『ゼロの焦点』の博報社重役より。
◆写真中下:左は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる佐々木孝丸邸の移動。右は、1936年(昭和11)の空中写真で上落合215番地には大きな屋敷が見えている。
◆写真下:左は、1957年(昭和32)10月24日に撮影された佐々木孝丸(撮影:滝沢修)。右は、現在の月見岡八幡社の斜向かいにあたる、上落合215番地の佐々木孝丸邸+前衛芸術家同盟(「前芸」)の事務所兼稽古場の跡。当時の大谷石の築垣が、いまだあちこちに残る。