ずいぶん久しぶりに、西武線に乗って多摩湖(村山貯水池Click!)の周辺を散歩してきた。前回、出かけたのがいつごろなのか、憶えていないほど久しぶりだ。幼稚園か小学校時代には遠足やハイキングで、高校時代からこっちは友だちと遊びに出かけているはずだが、ハッキリした記憶がない。手元には、高校時代の1974年に撮影した多摩湖とその周辺のTRY-Xで撮影したモノクロ写真があるのだけれど、確かそれ以降も出かけているはずだ。小学校時代に出かけたユネスコ村は、いつごろなくなってしまったのだろうか?
 今回、久しぶりに歩いてみて、その多摩湖周辺の変貌ぶりに驚いてしまった。そもそも、「多摩湖」という駅名そのものが存在しなくなっている。いつの間に、「西武遊園地駅」に変わったのだろう? ということは、少なくとも1979年(昭和54)以降に訪れていないか、あるいは意思的な行動をしてはおらず、多摩湖駅だと思いこんで乗降していたことになる。
 1974年の写真を見ると、駅の周辺は武蔵野の雑木林が一面に拡がるうっそうとした森で、住宅などほとんど建ってはいない。現在では、「西武遊園地口」となっている北口改札から、多摩湖の西北部へとつづく道があったはずだ。駅の北口から北東方向へ少し歩くと、1960年代の初めに解体された多摩湖ホテル(村山ホテルClick!)の跡へと出られた。西武遊園地駅を下りて驚いたのは、北口が西武遊園地への直通改札となって“消滅”していることもさることながら、駅の直近まで住宅地が押し寄せていることだ。雑木林や畑地が、ほとんどすべて消えていた。
 駅の南口はほぼそのままの風情で、今回はこちらを通って多摩湖へと抜けることにする。昔ながらのガードをくぐって、多摩湖側へと抜けるのは同じなのだが、昔は雑木林だったところが一面に都立公園として整備されていて、人がたくさん散歩している。おそらく、近くにお住まいの方々が、休日の散歩へ出てきたのだろう。昔は、人っ子ひとりいない寂しい森の道が、現在は公園管理事務所と芝庭が拡がる、明るい場所へと変貌している。雑木林の間にあった湧水源が、近所のおとめ山公園Click!のように整備され、武蔵野原生林の面影はほとんどなくなっていた。
 
 
 
 今回、多摩湖へ出かけたのは、西武鉄道Click!が東村山駅にセメントと玉砂利を大量に蓄積Click!して、貯水池工事の物流拠点としていたころ、1916年(大正5)から1925年(大正14)にかけて進められた貯水池建設の大工事で、実際に造られたコンクリート構造物の様子を観察しておこうと思ったからだ。だが、当時のコンクリートを観察するのは容易ではなくなっていた。1998~2002年(平成10~14)にかけて行われた、多摩湖の堤体強化工事によって、大正期のコンクリートが全的に撤去され新たに造りかえられていたのだ。それでも、一部の堤護岸や遊歩道のコンクリート柵はそのまま保存されていたので、工法を細かく観察することができた。
 保存されたコンクリート堤はレーザーで切断され、断面もよく観察できるように展示されていたのだが、それを見てまず最初に感じたのは、下落合における大正末期に建設された住宅の塀や基礎にみられる、大量の良質な玉砂利を用いた工法と非常に近似している・・・ということだ。内部に鉄筋を用いず、大粒の玉砂利とセメントを混ぜ、そのまま任意の形状の型にはめて固めたものだ。下落合のコンクリート工法Click!でいうと、1925年(大正14)から1926年(大正15)にかけ諏訪谷Click!の住宅開発で建設された、擁壁や塀の仕様に相当する。佐伯祐三Click!が「下落合風景」Click!の1作として描いた「セメントの坪(ヘイ)」Click!と、まったく同様の造りとなっている。この仕様が、大正期のコンクリート工法ではかなり一般的だったのだろう。
 
 
 しかし、ほんの少し時間が経過した大正末から昭和初期になると、コンクリート工法にはたいていの場合、芯に鉄筋が用いられより強固な構造が一般的となるようだ。下落合では、中村式コンクリート工法Click!で有名な近衛町Click!の帆足邸Click!がそうだし、また昭和最初期から戸山ヶ原へ次々と建設されることになる、大久保射撃場Click!など陸軍の頑丈なコンクリート建築も、セメントと玉砂利をこねただけの仕様ではなく、多くの場合、強度を上げるために鉄筋が芯に用いられている。もっとも、戸山ヶ原の建物は軍事施設なので、よけいに頑丈な構造にする必要があったのだろう。1931年(昭和6)に竣工する国際聖母病院Click!のフィンデル本館Click!もまた、60cmという分厚い外壁の中には鉄筋コンクリート工法が導入されている。
 多摩湖のケースは、切断されたコンクリートの断面を見ると明らかなように、構造物の中心にまで3cm前後はありそうな、大きくて良質な多摩川流域の玉砂利がぎっしりと詰められている。鉄筋をまったく用いず、これでどの程度の強度が保てるのかは不明だが、少なくとも大正中期から末期にかけての貯水池建設なので、1990年代末からリニューアル工事がスタートしていることを考えると、都合80年ほどは確実にもったことになる。
 多摩湖周辺を散歩していると、商店がほとんどないのに閉口するのは、いまも昔も変わらない。いずれかの駅前に行かないと、飲み物の自動販売機さえ近くにないのだ。広い都立公園の中も、飲み物や食べ物を売っている露店が1軒あるだけで、カフェひとつ存在しない。食べ物屋は、西武遊園地の中にはいろいろあるようだが、周囲の住宅街にはほとんどなにもない。おそらく、新しい住宅街もまた西武鉄道が開発したものだろう。お店をたくさん作ると、遊園地の中へ入ってくれない・・・というような思惑があり、あえてコンビニや商店の誘致を抑制したものだろうか?
 
 
 わたしがその昔、多摩湖周辺を歩いたころ、1925年(大正14)に造られた第一取水塔には入れなかったものの、1973年(昭和43)に増設された第二取水塔へは近寄れたような気がする。でも、いまは第二取水塔へも入れなくなっていた。第一取水塔の意匠をそのまま踏襲して建造された第二取水塔だが、窓などのデザインが微妙に異なっているのが面白い。第一取水塔は、近寄ってコンクリート部分を細かく見たかったのだけれど、残念ながら遠くからでは観察できなかった。

◆写真上:多摩湖の堤から眺めた、第一取水塔(手前)と第二取水塔(奥)。
◆写真中上:上は、西武遊園地駅の南口(左)と、1974年(昭和49)に撮影した多摩湖駅の北口(右)。中は、多摩湖まで迫る住宅街(左)と、1974年の多摩湖周辺の風情(右)。下は、現在の多摩湖(左)と、1974年現在の多摩湖(右)。第二取水塔は、モノクロ写真の前年に完成している。
◆写真中下:上は、現在のリニューアルされた多摩湖堤防(左)と、大正中期に建設中の堤防(右)。下は、第一取水塔(左)と大正末に竣工間近な第一取水塔(右)。
◆写真下:上は、大正期に造られた多摩湖のコンクリート構造物。輪切りにされた断面をみると、鉄筋の芯が入っておらず中心まで多摩川の玉砂利が詰まっている。下左は、下落合の諏訪谷に建造されたコンクリート塀の残滓。下右は、戸山ヶ原(現・戸山公園)の防疫研究室跡に残るコンクリート塊。鉄筋が用いられていないので、建物の残骸ではなく塀か擁壁の一部だと思われる。いずれも、西武線が運んだ多摩川の玉砂利とセメントではないだろうか。