1926年(大正15)ごろに、佐伯祐三Click!が描いた『踏切(踏み切り)』Click!が、lot49sndさんClick!の撮影したガード写真でハッキリと規定できた。まちがいなく佐伯は、武蔵野鉄道のガードを西側に設置された山手線踏み切りの手前から、線路向こうの東北東を向いて描いている。
 lot49sndさんが写真を撮られたのは、1983年(昭和58)ということなのでそれほど大昔ではなく、近ごろまで大正期のレンガ造りガードがそのまま残っていたことになる。わたしが学生時代から、目白駅の北側まで足をのばしていたら、そして佐伯がモチーフに取りあげている風景に興味をおぼえていたら、まちがいなく「アッ!」と声をあげたポイントだったろう。ちなみに、ガードに積まれたレンガの構造は、山手線のガードClick!とまったく同じイギリス積みの工法だ。貴重な写真をご提供いただき、ほんとうにありがとうございました。>lot49sndさん
 ガードの手前、左手にはコンクリートの塀がつづいているが、大正期の風景にはなかったものだ。佐伯の『踏切』では、踏み切り番小屋と鉄道員の宿舎のような建物が見えているが、昭和に入るとほどなく、その北側に建っていた東京パン工場Click!に納入する、小麦粉を製造する製粉工場へと変わっている。製粉工場は、先にわたしが踏み切り跡を取材Click!しに出かけたときも営業(倉庫?)しており、写真に写るコンクリート塀は当時の工場の塀かもしれない。
 レンガ造りのガードの上を、古いタイプの西部池袋線が通っているが、その下にはガードの向こう側の風景が垣間見える。住宅街の屋敷林と思われる樹木が見えているが、佐伯作品のガード向こうに見えている緑は、なんらかの祠が奉られた社(やしろ)の樹木だろう。この社は、昭和初期になると消滅しているようなので、旧・雑司谷中谷戸尼行嶌830番地(現・南池袋1丁目)界隈で暮らす住民の誰かが勧請した稲荷のひとつで、住民が移転するとともに消滅したものだろうか?

 
 佐伯作品で、踏み切りをわたる少年と思われる人物は、この神社の祭りに出かけるところかもしれない・・・と、かつて書いたことがあったけれど、もしこの社が個人宅に由来する稲荷であったとするなら、人が集まる祭礼が行なわれていたとは考えにくい。また、江戸期ないしはそれ以前から、五穀豊穣のために勧請された農事の稲荷だとすると、同地の急激な宅地化の進行とともに自然消滅、ないしはどこかへ合祀された可能性もありうる。その場合は、大正末から昭和初期まで、なんらかの小さな祭礼が地域の行事としてつづいていたのかもしれない。
 また、ガードの西側正面ばかりでなく、ガードへ入った中側から山手線の踏み切り方向も撮影されている。そこには、大正期の佐伯が描いた人々が横断する『踏切』とは異なり、クルマの往来を意識してかなり拡幅された、わたしも山手線の車内から眺めた見憶えのある踏み切りが見えている。また、踏み切りをわたった西側、旧・雑司ヶ谷西谷戸大門原1126番地(現・西池袋2丁目)あたりには、赤い屋根のかなり古い2階建て住宅(アパート?)がとらえられている。
 この一画は1945年(昭和20)4月13日の米軍による鉄道と河川沿いをねらった、激しい第1次山手空襲Click!にさらされている。でも、1947年(昭和22)に米軍が撮影した爆撃効果測定用の空中写真では、踏み切りの西側にかろうじて焼け残ったとみられる木造2階建ての家が見えているので、写真にとらえられた赤い屋根の家屋は、当時のものがメンテナンスを繰り返されて、そのまま建っていた可能性が高い。ひょっとすると、佐伯祐三も目にしていた2階家なのかもしれない。

 
 この踏み切りは、下落合とその周辺を描いていた佐伯祐三の描画ポイントClick!のひとつだ・・・ということ以上に、重要な意味を持つようになった。それは、佐伯が第1次滞仏からもどり、1926~1927年(大正15~昭和2)にかけて日本にいたとき、下落合661番地の佐伯アトリエClick!の南西隣り、下落合666番地(第三文化村敷地)に巨大な西洋館の自邸を建てていたのが、納三治Click!であることに気づいたからだ。納三治は、『踏切』に描かれた雑司ヶ谷ガードから、北へわずか100mほど歩いたところで羊毛の毛糸を製造する曙工場Click!を経営していた。
 佐伯祐三は、1927年(昭和2)の夏に下落合666番地の隣家、すなわち納邸が竣工するまでの間、納三治から誘われて工場か自邸に招かれているか、あるいは佐伯が第三文化村でもっとも大きな西洋館の壁を飾る、第1次滞仏作品の“売りこみ”がてら、曙工場を訪ねている可能性は高いとみられる。その途中で、武蔵野鉄道の雑司ヶ谷ガードを発見し、新橋駅のガードClick!や山手線の下落合ガードClick!につづき、手前の踏み切りとともにモチーフに選んでいるのではないか。つまり、武蔵野鉄道のガードが『踏切』の描画ポイントであるという事実以上に、佐伯の落合地域における当時の足取りが、具体的に透けて見えそうな点がとても面白いのだ。
 余談だけれど、いま豊島区では画家たちが作品を制作したポイントへ記念プレートを建てはじめている。アトリエ村のあたりが中心になるのだろうが、佐伯祐三『踏切』の描画ポイントにも、プレートを建ててはくれないだろうか? またしても、新宿区は先を越されることになりそうだが、佐伯のモチーフ選びの視点からいえば、落合町下落合も高田町雑司ヶ谷も関係がない。新宿区では、まだやる気配を感じないので、ぜひ佐伯祐三描画ポイント・プレートClick!のさきがけ建立をお願いしたいものだ。また、長崎町(現・豊島区)側から下落合の府営住宅を描いたとみられる作品Click!の描画ポイントもあったりする。
 

 佐伯が描いた『踏切』には、鉄道員の宿舎と思われる建物に架かる看板Click!が見えている。この看板についても、その後調査をつづけているけれど、池袋中原にあったと思われる、「中原工業」あるいは「中原工機」、「中原工場」、「中原工務店」という名の企業は、いまだ見つかっていない。『高田村誌』、『高田町史』、『戸塚町誌』、『落合町誌』、『長崎町誌』と参照しても見つからなかった。もし存在するとすれば、『西巣鴨町誌』には社名と事業内容が掲載されているだろうか?

◆写真上:lot49sndさんが1983年(昭和58)に撮影された、旧・武蔵野鉄道の雑司ヶ谷ガード。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)ごろに雑司ヶ谷の山手線踏み切りおよび武蔵野鉄道のガードを描いた佐伯祐三『踏切(踏み切り)』。下左は、1983年(昭和58)に撮影された雑司ヶ谷ガード。下右は、佐伯祐三『踏切』から雑司ヶ谷ガードの部分拡大。
◆写真中下:上は、lot49sndさんが1983年(昭和58)に撮影されたガード下からの山手線踏み切り。下左は、踏み切りの部分拡大。下右は、佐伯祐三『踏切』の部分拡大。
◆写真下:上左は、1926年(大正15)ごろに新橋ガードを描いた佐伯祐三『ガード風景』。上右は、同年ごろに下落合ガードを描いた同『ガード』。下は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真。踏み切りの西には、かろうじて焼け残ったとみられる2階建ての木造住宅が見える。