あけまして、おめでとうございます。本年も「落合道人」サイトを、よろしくお願い申し上げます。
  ★
 子どものころ、明治座Click!での新派Click!の芝居(新国劇Click!の上演もあったかもしれない)で午睡Click!したあと、日が暮れていれば江戸期からのすき焼きを継承する、日本橋薬研堀の鴨すき「鳥安」Click!へ、昼間だったら大橋(両国橋Click!)をわたった東詰め、江戸期からつづく本所の“ももんじ屋”(肉料理屋)である「豊田屋」へ立ち寄っては、うまいもんを食べていた。
 いきなり余談だけれど、安産の神様で全国から参詣者を集める有馬の水天宮Click!が、日本橋浜町の明治座前へ遷座しようとしている。明治期から蠣殻町にあったので、出かけるには地下鉄の人形町駅か水天宮前駅で下りていたから、そちらのほうが馴染み深いのだけれど、わたしの故郷(東日本橋の薬研堀)のすぐ南側に引っ越してくるのが、ちょっとうれしくもある。でも、半蔵門線の水天宮前駅はどうなってしまうのだろう。「元水天宮前」駅とでも改名するのかな? 江戸期の赤羽橋にあった、有馬屋敷以来のめずらしい遷座だ。
※その後、一時的な浜町遷座であることが判明した。
 江戸すき焼きの鳥安は、当時は料理屋というよりは料亭の趣きがあって、夕方からしか営業していなかったが、ももんじ屋は昼間から営業していたので、まだ明るいうちに舞台が終わると食べに寄れたのだ。ももんじ屋の豊田屋さんは、1718年(享保3)の開店だから、そろそろ創業300年を迎える。徳川吉宗が将軍に就き、前年に大岡忠相Click!が南町奉行に任命された時代だ。開店した当初から、おそらく新しもん好きなわたしの先祖は食べに通っていたと思われる。
 “ももんじ屋”とは、江戸時代を通じて存在した肉料理屋の一般名称で、特定の店に固有の屋号ではない。江戸も後期の朱引き墨引きが拡大した大江戸(おえど)時代になると、街中のあちこちには“ももんじ屋”が見世を開いていた。江戸期には、四つ足の獣肉は食べなかった・・・なんてウソ八百の付会が生まれたのは、いったいどういう根拠からだろう? 地方から江戸の藩邸へ詰めていた、自由に出歩けず(城)下町の様子をよく知らない乃手の武家ならともかく、下町に住んでいた町人や御家人・旗本なら、“ももんじ屋”は決してめずらしい存在ではなかったはずだ。
 「薬食い」などといわれ、体調が悪く病気のときにやむをえず食っていた・・・なんて記述も、流行りの江戸ブーム本で見かけるけれど、これも地元(下町)の伝承や記録を知らない、まったくいい加減な記述だ。町人たちが足しげく通う、「下世話」な見世でうまいもんClick!を食べるのに、病気を治すための「薬食い」だなどと、上役に言いわけをしなければならなかった、どこかの藩士の伝承だろうか? もっとも、肉料理が身体を温めるのは事実で、夏場よりも冬のほうが客足は伸びたらしい。安藤広重Click!が描く、『名所江戸百景』Click!の第114景「びくにはし雪中」には、「十三里Click!」(焼き芋屋)の斜向かいに「山くじら」の看板を出した、いかにも厳寒期には流行りそうな“ももんじ屋”(屋号は不明)が見世を張っている。こちらは、京橋界隈にあったももんじ屋だ。
 
 豊田屋さんにうかがったら、1960年代には昼も夜も開店していたのだが、1970年代後半から夜だけの営業になり、現在は夜だけでなくランチタイムには再び営業をはじめているそうだ。わたしが、豊田屋さんへ最後に食べに寄ったのは、1970年代の半ばぐらいだったろうか? だから、1979年(昭54)に木造2階建ての店をビルに建て替えてから初めて出かけたわけで、およそ35年ぶりぐらいになる。それだけ、薄給のわたしには、いまや高級料理となってしまった“ももんじ”は、敷居が高かったわけだ。日本橋側の江戸すき焼き「鳥安」さんへは、最近までずっと途切れず出かけているので、本所側の豊田屋さんにはずいぶんご無沙汰をしてしまった。
 わたしが物心つくころ、昼下がりの豊田屋さんの2階からは大川(隅田川)が見え、川を上り下りするポンポン船の音が聞こえていたように思う。世界万国博覧会'40Click!のために造られた勝鬨橋Click!が、いまだ開閉していた時代だ。川端の柳が風にゆれ、広小路のクルマの音はそれほど気にならなかった。ところが、1964年(昭和39)の東京オリンピックで、周囲の風情は激変してしまう。関東大震災Click!の教訓から、防災インフラClick!として造られた大川端の火除け地や避難場所が、次々と高速道路に変わっていったのだ。おかげで、豊田屋さんは首都高の真下とはいわないまでも、とんでもなくクルマの騒音がうるさい店になってしまった。1979年(昭和54)に店舗をビルに建て替えるまで、店内には上を走るクルマの騒音がかなり響いていた。
 さて、久しぶりの江戸“ももんじ屋”なのだが、メニューが少し変わっていた。わたしが食べて、子ども心にも「超マズイ!」と思ったタヌキ汁がなくなり、代わりにクマ汁が加わっていた。タヌキは、誰が食べても臭くて脂っぽくてうまくないと思うので、だいぶ以前にメニューから外されたのだそうだ。再び余談だけれど、昨年の秋口から、うちの裏庭でタヌキが2~3匹、ガサゴソとうるさい会議を開いている。「タヌキは、まずくて食えないんだな・・・」といったのが聞こえて、「ここなら安心だポン!」と縁の下に巣穴か、トイレでもこしらえていなければいいのだけれど・・・。
 
 
 豊田屋さんで、昔どおりのシシ鍋コースを注文したところ、シカの刺身とから揚げ、それにクマ汁がついていた。わたしは淡白な赤身のニホンジカ肉と、対照的にこってりしたツキノワグマ肉の両方が大好きなので、さっそくワインもいっしょに注文する。クマ鍋も出しているそうだが、やはりシシ鍋のほうが数段うまい。クマ肉は、北陸の寿司屋がよくそうしているように、殺虫のためにルイペにして、刺身で赤みがさしたところを食べるのがいちばんうまいと思う。
 江戸のシシ鍋は、いわゆる「ぼたん鍋」のことではない。いま風にいうなら、すき焼きにもっとも近い料理のしかただ。あらかじめ、すき焼き風の鍋に醤油と甘味噌ベースの汁をうっすらと張るので、「シシすき」ではなく「シシ鍋」と表現される。ここでも、江戸期からの料理である“すき焼き”に関連して、明治期から普及した「牛すき焼き」と「牛鍋」との取りちがえによる混乱=料理名の珍現象は、さすがに江戸期からの老舗なので見られない。
 この街では、すき焼き鍋(鉄板)で肉を焼いてから食う(なぜか今日では「関西風」などと呼ばれてしまっている)のが、江戸からのすき焼き料理であり、あらかじめ少しでも汁を張れば「XX鍋」と呼ばれてきている。明治期に、東京じゅうで流行った牛鍋を称して、「東京のすき焼きは汁を先に張る」・・・などというトンチンカンな“解説”は、ももんじ屋の「薬食い」とまったく同様、少なくともこの街(城下町)のことを知っている人間の口から出た言葉ではないだろう。ついでに、「日本橋や銀座は下町じゃないですよ」にいたっては、もはやおきゃがれClick!もんで、なにをかいわんやだ。(城)下町Click!・銀座の岸田劉生Click!が聞いたら、即座に「バッカ野郎!」とぶん殴られるだろう。w
 
 豊田屋さんのシシ鍋は、昔と変わらず絶品だった。わたしは、「ぼたん鍋」風のシシ鍋は食べたくないけれど、江戸“ももんじ屋”ならではのシシ鍋だったら、佐伯祐三の下落合「すき焼き大会」Click!ではないけれど、冬なら毎週でも食べたい。(毎日はさすがに無理だ) わたしの記憶では、子ども時代のシシ鍋には、すき焼きとまったく同じ具が入ったように思う。すなわち、焼き豆腐に椎茸(ないしは榎茸)、長ネギ、春菊、しらたきだ。でも、当代の豊田屋さんではキノコが入らず、春菊の代わりに芹が入っていた。なるほど、春菊よりも芹のほうがシシ肉の味を引き立たせている。

◆写真上:すき焼きに似た昔ながらの鍋を用いる、ももんじ屋「豊田屋」の江戸東京風シシ鍋。
◆写真中上:左は、1979年(昭和54)にビルへ建て替えた豊田屋の見世先。右は、しばらく寝かせて食べごろになった野生のシシ肉。養殖ではなく三重、滋賀、兵庫などで獲られた野生イノシシしか仕入れておらず、養殖ものやブタ肉とは異なり脂身がしつこくなくあっさりとしている。
◆写真中下:上は、シカ肉の刺身(左)とから揚げ(右)。下左は、大橋(両国橋)の東詰め(本所側)。下右は、安政年間に描かれた安藤広重の『名所江戸百景』のうち114景色「びくにはし雪中」。ももんじ屋(肉料理店)は別にめずらしい見世ではなく、大江戸のあちこちに開店していた。
◆写真下:左は、鼈甲色になるまで煮こんだいちばんうまくて食べごろのシシ肉。右は、本所側から大川をはさんで日本橋側の薬研堀(東日本橋)あたりを眺めた夜景。ひときわ強いライトは日本橋中学校(旧・千代田小学校)の校庭で、その右手に見えるビルが旧・ミツワ石鹸Click!のあったカゴメビル。その右下には、震災復興計画で設置された元祖・すずらん通りClick!が見えている。