わたしは、いまだ「はとバス」に乗ったことがない。いつか一度は乗ってやろうと思うのだが、いままでその機会がついぞなかった。東京駅の中央郵便局前から乗る「はとバス」は、ひょっとするとわたしがふだん気づかない、この街の別の顔を見せてくれるのではないか?・・・、あるいは、「東京」という街のイメージをどのような風景で“演出”し、実際の地元の暮らしとどれほどの乖離感があるものなのか?・・・というようなことを、確かめてみたい気持ちもあったのだ。
 以前、戦後の戸山ヶ原Click!に建設された戸山アパートを取材レポートした、佐多稲子Click!の「ルポ・戸山アパート1953年」Click!をご紹介しているが、今度は彼女が「はとバス」に乗った面白い記事を見つけたのでご紹介したい。佐多稲子が、「はとバス」の夜のツアーに出かけたのは、1988年(昭和63)の晩秋で、亡くなる10年ほど前のことだ。夜のコースの料金は6,900円で、昼間のツアー料金が3,800円だった時代だ。1988年(昭和63)11月4日発行の『週刊朝日』に掲載された、佐多稲子「値段の風俗史<3>―東京定期遊覧バス乗車賃―」から引用してみよう。
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 東京に住んで七十年余り、私はこの方面の東京にはすっかりなじんでいるのだが、今宵はいつもとちがっている。いつもなら、何かの用事で、行先きも決まっているが、今宵は、どこを廻るというのは自分たちで決めたにしろ、乗り降りは「あなた任せバス任せ」である。その気分はいつもとちがう。呑気なことで、街の眺めさえ変った感じがする。
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 当時、東京遊覧バス(はとバス)の夜のコースには、「夜のディズニーランド」「夜の六本木と浅草」「夜の六本木と新宿」「デラックス赤坂ナイト」などの各コースがあったらしいが、佐多稲子が選んだのは「夜のお江戸」コースだった。ちなみに、近所で気軽な新宿はともかく、夜の六本木や赤坂にはほとんど興味がないけれど、「デラックス赤坂ナイト」というのはどのようなコースだったのだろうか? 1988年といえばバブル真っ盛りのころなので、赤坂山王町あたりの料亭に芸者を30人ほど呼んでの、大ドンチャン騒ぎコースだったのかもしれない。
 佐多稲子が選んだ「夜のお江戸」コースは、ほかの夜のコースに比べてずいぶんとしぶい内容だったようだ。食事は、「前川のうなぎ」か「駒形のどぜう」のどちらかが選べ、彼女は「駒形どぜう」を選んでいる。わたしも、どちらか選べといわれたら、いくら「う」好きでも現在の「前川」Click!は選ばないだろう。佐多稲子は、大正期に浅草で働いていたころから「駒形どぜう」には通っていたようなので、懐かしさも手伝ったのかもしれない。昔を思い出しながら、店の風情や味に「その頃と変ったようにもおもえない」と書いている。事実、わたしも「駒形どぜう」は昔ながらの味だと思う。
 
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 とにかく先ずおなかを満たし、そのあと浅草演芸ホールで独楽廻しの曲芸を見、落語を一席聴いた。落語を聴くのはゆっくりのときの方がいいのだろう。噺家さんは中年のえらい人に見え、噺も上手だったがその人の名前や、噺の筋を忘れた。が、寄席へ入るというのは、「江戸」気分のひとつにはちがいない。大分前の正月に寄席へ行ったきり、今はテレビですませているから、寄席の気分も「お江戸」である。当夜の浅草演芸ホールは、バスの客が入ると、大体いっぱいであった。
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 舞台で独楽廻しをしていたのは、「言わずば回れ」Click!の曲こま師・三増巳也さんのお父様ではないだろうか?w 芝居や寄席では、はとバスのお客さんがドッと入ってきて、舞台や噺の途中なのにもかかわらず無粋にドドッと出ていくのが、慌ただしくてうるさいと超不評なのは耳にしていたけれど、いまでも舞台や寄席の立ち寄りコースがあるのだろうか?
 きわめつけは、吉原の料亭「松葉屋」で行われていた「花魁ショー」の見学だ。松葉屋は、とうに店じまいをして現在はマンションになっているので、佐多稲子が観たのは客足が落ちはじめた最後のころの舞台だ。わたしは、親父の千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)時代の同級生だった柳橋芸者Click!の女性を含め、芸者さんには知り合いがいるけれど「花魁」は知らない。もっとも、職業としてマジに「花魁」をしていたら、いまなら売春防止法違反で即座に逮捕されるだろうが・・・。
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 タイムスリップという云い方があったっけ、とおもう。是非はともかく活力旺盛なこの東京は、江戸気分をも演出してくれて、その江戸は、夜のコースだから「花の吉原」となるのだろう。/松葉屋を出るとき、ここの女主人らしい着物姿の年配の人が、門のきわに立ってみんなを見送った。その女主人は、特に私を見て笑顔でおじぎをした。私も同じようにあいさつを返した。一行の中で、私ひとりが着物を着た年寄りだったから、松葉屋の女主人にそれが目についたのだろう。松葉屋の女主人のあいさつは、私に親しい感じがした。「夜のお江戸」コースはここで終る。出発点の東京駅前へ戻るまでの全部の所要時間は四時間位だったろう。
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 このとき、佐多稲子を見送ったのは、松葉屋の女将・福田利子だろう。もちろん、彼女は佐多稲子の顔を知っていたので、ていねいに挨拶をしたのにちがいない。
 
 「花魁ショー」は、1961年(昭和36)から松葉屋でスタートしており、日本へ観光に訪れる欧米人たちには大人気だった。「オイラン」や「ゲイシャ」、「ショーグン」がいた日本へ、イメージ先行の妄想を思いきりふくらませることができていた時代だ。ところが、現実には本で読んだ200年前の「日本」や「江戸」はどこにも存在せず、高層ビルと高速道路が林立し、もはや街中で「キモノ」姿の女性を探すことさえ困難になってくると、観光客たちはそれがとんでもない幻想だと気づき、日本のほかの文化や“風景”に目を向けはじめたのだろう。
 ましてや、欧米の有名なビルや土地、株、美術品などを片っ端から買いあさっていた、バブル絶頂期の日本資本の姿を目のあたりにして、女性がキレイでエキゾチックな東洋のつつましい島国イメージなど、すっかりどこかへ吹き飛んでしまったにちがいない。ちょうど、米国西部へ出かけて「インディアン」(先住民のネイティブ・アメリカン)の襲撃を逃れた幌馬車隊を探すようなもので、「あんた、何時代を生きてるの?」と言われかねないような、決定的な齟齬と幻滅を感じてしまったのだろう。松葉屋はバブル崩壊後、1998年(平成10)に店じまいをしている。
 現在のはとバス料金を改めて調べてみたら、コースにもよるけれど昼夜の別なくだいたい3,000~6,000円ぐらいの価格帯だった。もっとも安いコースには、2,800円というのもある。つまり、1988年(昭和63)当時とほとんど値段が変わっていないのだ。むしろ、6,000円以下のコースが増えているところをみると、佐多稲子がバスツアーに参加したこの年が、もっとも高かった時期なのかもしれない。1949年(昭和24)の250円からスタートしたはとバスだが、延々と値上がりしつづけてきた料金が、1990年(平成2)あたりを境に横ばい、あるいは下降をつづけていることになる。

 さて、下落合にも東京遊覧バス(はとバス)がやってきた時期がある。1955年(昭和30)からしばらくの間、日本の伝統的な版画美術を紹介する観光コースとして吉田博アトリエClick!が注目され、1日に100人前後の観光客が訪れていた。狭い「八島さんの前通り」Click!には、はとバスを停めておけるスペースはないので、国際聖母病院Click!の駐車場にでも入れておいたのだろうか? 

◆写真上:東京駅の南口に近い、中央郵便局の前から出発する「はとバス」乗り場。
◆写真中上:1923年(大正12)の撮影(左)と、1970年代に撮影(右)された佐多稲子。
◆写真中下:左は、1988年(昭和63)11月に松葉屋で上演されていた「花魁ショー」。右は、享和年間(1801~1804年)ごろに描かれた歌麿『青楼六家選』のうち「松葉屋/粧ひ」。当時の松葉屋は料亭ではなく、吉原へ登楼する客たちを迎える引手茶屋だった。
◆写真下:1949年(昭和24)から1988年(昭和63)まで、40年間の「はとバス」料金の推移。