先日、ほとんど初めて西荻窪の街並みを散歩してきた。街全体の印象としては、どこか昔の(1960~70年代の)東京の匂いがただよう住宅街や商店街だったのだが、この感覚はわたしの世代以降のみのもので、親以上の世代ともなると、実はまったく異なる感想を抱くのだろう。おそらく、正反対の印象になるのではないだろうか?
 敗戦後、しばらく西荻窪の姉の家に住み、やがて下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)の家で暮らすようになる作家に、下落合とその周辺を物語の舞台に『虚無への供物』を書いた中井英夫Click!がいる。中井英夫は、少年時代から日記や創作ノートをつけており、召集されて市ヶ谷の陸軍参謀本部へ詰めていたときも、腸チフスにかかり陸軍病院へ入院中も、また同病院を退院して西荻にあった姉の家へ身を寄せていたときも、ずっと毎日欠かさず日記を書いていた。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、田端にあった実家が延焼して彼の膨大な蔵書や、それまでに書きためた日記やノートの類をすべて焼失している。
 東京生まれで東京育ちの中井英夫にしてみれば、東京市街から遠く離れた西荻窪での生活は不本意だったらしく、1946年(昭和21)1月24日付けの日記には以下のような記述がある。1983年(昭和58)に出版された、中井英夫『黒鳥館戦後日記』(立風書房)から引用してみよう。
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 どうせ東京に住むとならば、築地か人形町か薬研堀か、もしくは本郷、上野、浅草、それでなければ直次郎を気取つて駒込あたりに侘びずまひ、本当の江戸に生きぬきたい。もとより己が生得の田舎気質は、何遍お江戸の水で洗はうとあくのぬけるしろものではない乍ら、こんな西荻あたりは場末の面白さも見られず、ほとほとに愛想もつき果てた。今度の戦争で焼けなかつたその事自体が荻窪以西の如何に片田舎であるかを示してゐる。(中略)/東京に住むことのうれしさ、誰がクソ、どうあつても此処だけは離れぬ、ここだけは己のふるさと。さういへば今朝の新聞には、戦災者の麦ふみの写真など出てゐたけれども、何とそれが神田の町中での事だといふに、ふるさともあまりの土くささに、わびしさをもよほさずにゐられない。
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 おそらく、この感覚が親から上の世代にあたる東京人共通の“想い”であったろう。中井が挙げた街の名前は、大江戸(おえど)から東京を通じての典型的な(城)下町Click!であり、この地方では通りがいい街名のはずだった。だが、彼も日記の別の箇所で書いているように、それらの街は今度の戦争であらかた焦土と化し、「昔の東京」の残り香がかろうじて残っているのは、皮肉にも空襲を受けなかった東京郊外のエリアのみになってしまったのだ。
 この感覚は、1960年代に旧・日本橋区に住んでいた人々も盛んに口にしており、東京西部の山手線外側へ転居することを「郊外へ引っ越す」Click!と表現し、まるで“都落ち”するような暗くこわばった表情をしていた。わたしには、もはやそのような感覚は皆無なのだが、中井英夫の世代、そして東京オリンピックを境に下町が敗戦につづき、二度目の“町殺し”Click!の破壊をこうむる様子を目の当たりにした、中井よりあとの親たちの世代までは、確かに活きていた感覚なのだろう。
 さて、わたしの感覚は、彼らの世代とはまったく正反対になる。むしろ、東京郊外のほうが東京オリンピックによる破壊や高度経済成長期の乱開発、80年代のバブル期の地上げなどをかろうじてまぬがれており、わたしが子どものころに味わった東京の街の感覚が、いまだうっすらと香っている地域・・・というような位置づけになってしまうのだ。西荻窪を歩いていて感じたのは、昔の東京っぽさがどこか底流で地下水脈のように感じられる街並みということだ。
 
 
 荻窪界隈は、早くから中央線(甲武鉄道)が通じていたせいで、大正末あたりからまとまった郊外住宅地が各地に建設されている。いわゆる「荻窪文化村」または「杉並文化村」と総称される分譲地だが、1927年(昭和2)に西武電鉄Click!が開通すると、井荻界隈を中心に住宅街の形成に拍車がかかった。それらの住宅地に新居をかまえ、下落合から転居した画家たちの物語はすでにご紹介Click!したとおりだ。空襲をほとんど受けていないせいで、当時の文化住宅と呼ばれた西洋館や和洋折衷住宅、あるいは戦前の古いタイプの日本家屋があちこちに残っているのも、昔日の落ち着いた東京山手のような雰囲気を感じるゆえんだろう。
 住宅の耐久年数がすぎたものか、あるいは相続税の課題が重くのしかかったものか、大正末から昭和初期に建設された家々は、年々解体され建て替えられているけれど、それでも築垣や垣根、屋敷林などに昔日の面影が宿り、空も広く落ち着いた街並みをなんとか保っている。もっとも、地元でずっと暮らしてきた方々にしてみれば、80年代あたりを境に風景が激変しているといわれるかもしれない。下落合も同様、おそらく西荻窪以上に街並みの変貌が著しい地域だ。
 
 
 中井英夫が、下落合で自宅をかまえた位置が興味深い。彼は、山手空襲Click!で大きな被害を受けた近衛町Click!などの下落合東部ではなく、大半が炎上した目白文化村Click!のある下落合中部でもなく、ほとんど空襲被害を受けなかった下落合西部のアビラ村(芸術村)Click!の西端、目白学園近くに住んでいる。中井もまた、昔日の東京山手の面影を下落合に見いだし、どこか懐かしさを感じながら「落ち着く場所」として、住まいを選んでいるのではなかろうか? それとも、「己の名前と同じ最寄りの駅名が気に入つてゐる」・・・だったりしたら、もう笑うしかないのだが。w

◆写真上:西荻窪に現存する、大正末か昭和初期の建築と思われるみごとな西洋館。
◆写真中上:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる西荻窪。中井英夫は、この風景を眺めながら「亡国」陸海軍と大日本帝国への怒りの日々をすごしていた。画面中央は、善福寺川沿いに形成された段丘斜面の古墳地名「丸山」あたりで、明らかに円墳あるいは前方後円墳と思われるサークル状の丘が見えている。杉並区郷土資料館へ出かけると、西荻窪駅の周辺で少なくとも3ヶ所の大型古墳が確認されており、荻窪もまた古墳だらけの土地柄なのだが、そのほとんどはいまや住宅街の下になっている。下左は、1983年(昭和58)に出版された中井英夫『黒鳥館戦後日記』(立風書房)。下右は、東京都の登録有形文化財に指定されている松庵の水口家西洋館。
◆写真中下・写真下:昔の東京山手の匂いがする、西荻窪の街並み。