子どものころから、この建物にはいったい何度遊びに出かけたことだろう。日本大通りにある神奈川県庁本庁舎、1950年(昭和25)に大学を出たばかりだった親父の勤め先だった。この年、神奈川県では急増する人口に対応するため、大学の理工系を出た学生たちを建築・土木の設計専門職員として多めに採用しており、先祖代々、寛永年間から江戸東京をかつて一度も離れたことのなかった家の親父が、のちに一時的にせよ同県の海辺Click!に住むきっかけとなった年でもある。
 もちろん、当時はこの建築のことを「キング」などと呼ぶ人間はひとりもおらず、「ホンチョーシャ」が通称だった。1966年(昭和41)に新庁舎が完成すると、さっそく親父は冷暖房完備の「シンチョーシャ」のほうへ移って喜んでいたが、50歳を迎えるころから再び「ホンチョーシャ」勤務へともどっている。新庁舎が完成したとき、小学校では神奈川県庁の本庁舎と新庁舎を空撮した“下敷き”が配られたのを憶えている。下敷きには県歌が印刷されていて、「♪光あらたに~雲染めて~」といまでも唄えるのは、このときに親父から習ったせいなのだろう。ちなみに、神奈川県歌は4番まであるのだけれど、通常は3番までしか唄われない。4番は、どこか公害問題を連想させるような歌詞だったため県にクレームが寄せられ、以降は唄われなくなってしまった。
 森鴎外Click!が作った横浜市歌、「♪わが日の本は島国よ~朝日輝ふ海に~」が歌えるのは、母方の売れない画家であり書家だった祖父Click!が横浜に住んでいて教えてくれたからだ。親父の勤め先へ遊びに出かけ、ついでに祖父の家へ立ち寄る・・・あるいはその逆のコースを、子どものころに何度も歩いた。港の山下公園や、横浜市庁舎前の横浜公園では、よくアイスクリームを買ってもらって食べたものだ。横浜スタジアムができる前の横浜公園は、地味で静かな公園だったが明るくて気持ちのいい場所だった。この公園が、明治の最初期から存在していたのをつい最近知った。
 また、本庁舎や新庁舎の地下にはいくつかの商店が入り、そこのカメラ屋で初めて一眼レフカメラを買った想い出もある。小遣いをためて買ったのは、当時は「世界最小・最軽量」とうたわれた、オリンパスのM-1だ。いまだ、「OM」シリーズにならない最初期のモデルだった。
 さて、このころの親父の仕事はたいへんだったろう。「ドーナッツ化現象」という言葉が生まれたころで、東京を囲むように人口の密集地帯が形成されようとしていた時期と重なる。ちょうど、横浜市の人口が250万人からすぐにも300万人を超えようとしており、大阪市を抜いて日本第2の都市になろうとしていた。さまざまな公共インフラが、造っても造っても絶対的に不足していた時代だった。下水道はおろか、上水道がまったく不足しており、住宅の建設に水道の敷設が追いつかないありさまだった。「飲み水がない!」という基本的な生活インフラの課題が、県内各地で起きていた。
 
 飲料水の確保のため、ダムや貯水池、浄水場の設計・建設に親父は忙殺されていた。親父が初めて手がけたのは、相模ダム(相模湖)の建造につづいて計画された、津久井ダム(城山ダム)と津久井湖の建設だった。飲料水不足を解消するために企画された「相模川総合開発」と呼ばれる一連の事業に、親父は20年以上もかかわっていたように思う。役所の勤務時間内では、とても仕事が終わらないので、家にまで大量の設計図面や青焼きが持ちこまれ、計算尺を片手に徹夜仕事がつづいていたようだ。当時、家の2階には図面が散乱していたのを憶えている。わたしは、不要になった古い青焼きを大量にもらっては、その白い裏面に絵を描いて遊んでいた。
 相模川総合開発は、わたしが高校生になるころには一段落したようで(確か第5~6次開発まであったように思う)、神奈川県の東部が水不足になることはほとんどなくなっていた。逆に、あまった水道水を、水不足が深刻な東京の西部市街地へ援助給水するまでになっていた。これは現在でもつづけられており、東京の西部住民は利根川水系でも多摩川水系でもなく、神奈川県の丹沢山塊から湧く相模川水系の水を飲んでいることになる。
 横浜市を中心とする、神奈川県東部の水不足は解消されつつあったけれど、神奈川県西部の上水道は相変わらず不足していた。そこで、相模川につづいて「酒匂川総合開発」がスタートするのだが、親父はこの事業にそれほど深くはかかわっていなかったようだ。もっとも、仕事の最前線である“現場”を歩きながらキツイ設計実務をこなす年齢をとうにすぎて、管理職になっていたせいもあるのだろう。酒匂川に関連した設計図を、家に持ち帰ったことは一度もなかったように思う。神奈川県の西には、箱根の大きな芦ノ湖があるので、その貯水を活用すればとても水不足など起こりそうもないのだが、芦ノ湖の水は神奈川県の所有物ではなかった。芦ノ湖という容れ物は、なるほど神奈川県の箱根にあるのだけれど、その中身の水の所有権および利用権は、長期にわたり静岡県にあった。「芦ノ湖の水が使えればなぁ~」と、親父は県西部の水不足が深刻化するたびにこぼしていた。
 
 
 芦ノ湖の水利権が静岡県のものになったのは、実は江戸時代の初期に行なわれた深良隧道(箱根用水)工事に起因している。1660年代に、駿河の深良村で水田開拓の計画が持ちあがり、山の下にえんえんとトンネルを掘って芦ノ湖の水を活用することが決まった。芦ノ湖側と深良村側から、手掘りで同時にトンネルを掘りはじめ、4年後にはわずか1mほどの段差のまま、両者は暗闇の中で出会っている。江戸期の土木工事の精密さを裏付けるエピソードだが、それ以来、芦ノ湖の水利権は駿河国(静岡県)が握ることになってしまった。
 子どものころに一度だけ、芦ノ湖のモーターボートを雇ってなにもない湖畔で水の中に入り、親父とともに深良水門から中を見たことがあるけれど、手掘りのノミの跡も生々しい江戸期の面影そのままだったのを憶えている。親父も、ふんだんにある芦ノ湖の水を利活用できない要因を、一度自分の目で確かめてみたくなり、家族を連れて出かけたくなったのだろう。
 県庁の本庁舎を見るたびに、慢性的な上水道不足にあえいでいた当時の神奈川県の姿が思い浮かぶ。もっとも、そんなイメージができあがったのはかなり後年のことで、当時のわたしは本庁舎や新庁舎からの眺望も大きな楽しみのひとつだった。横浜港をはじめ、吉武東里Click!が設計したグリーンのドームが美しい横浜税関Click!や、レンガ色も鮮やかな開港記念会館、世界一高い灯台だったマリンタワーなど、中区の主要な市街地を一望することができた。桜木町の海側は、運河と倉庫と水上生活者の街で、MM21が存在しなかった当時は怪しい街角に見えたものだ。
 
 先日、横浜を歩いてずいぶん懐かしい風景に出逢ったのだが、マリンタワーが赤と白のカラーリングからシルバーになったのは、いつからなのだろう? ついでに、わたしが子どものころの氷川丸は、船体が淡いグリーンに塗られていたけれど、黒く塗られるようになったのはいつごろからなのだろう? 昔の情景が、アタマの中を次から次へと駆けめぐったのだが、元町の喫茶店でカウンターのアルバイトをしながら、横浜のJAZZ喫茶やライブハウスを片っ端からハシゴしてまわるのは、もう少しあとの時代になってからのことだ。でも、それはまた、別の物語・・・。

◆写真上:古い建築のせいか、知事室も会議室もあまり豪華に感じない神奈川県庁本庁舎。
◆写真中上:左は、本庁舎を南側の角から。右は、本庁舎前にある横浜開港資料館。
◆写真中下:上左は、マリンタワーの展望台から眺めた懐かしい山下公園から大桟橋方面の風景。上右は、わたしには目新しかった銀色に輝くマリンタワー。下左は、子どものころ船内で嵐の大波によるローリングの体験シミュレーションができた日本郵船の氷川丸。下右は、2008年までギネスブックにも登録されていた世界一高かったマリンタワー灯台の照灯。
◆写真下:左は、吉武東里の横浜税関本関庁舎。右は、結婚式もできる横浜開港記念会館。