タイトルを見ただけで、「うるさいこと」を言われそうだ…と身がまえた、新宿区の「中村彝アトリエ記念館」Click!ご担当のみなさま、たいしたことはないのでご安心を。w わたしは、「タヌキの森」Click!のように新宿区建築課が行なった、違法かつまったく筋の通らないことには徹底してこだわり批判しつづけるけれど、今回の中村彝アトリエClick!の復元は非常に優れた仕事であり事業だと思うので、大きな賛辞を惜しまない。あとは、植えたばかりの緑が大きく育ち、生垣が伸びてこんもりとした下落合らしい風情になるのを待つだけだ。
 アトリエ前のアオギリに、二股に分かれた若木を植えたのにも思わずニヤリとさせられ、彝の生活を意識したキメ細やかな心配りを感じる。おそらく、アオギリがもう少し育って木陰をつくるようになったら、中村彝Click!がそうしたように鳥かごを吊るそう…と考えている方が、きっとご担当の中におられるのだろう。w また、芝庭の南端には、当初の植樹計画にはなかったツバキClick!もちゃんと植えられていて、思わず「あっ、ありがとう」とつぶやいてしまった。
 さて、その上でのご要望なのだが、彝アトリエの中に落合地域をめぐる画家たち(さまざまな芸術家も含まれている)のエリアマップが掲示されている。その中に、中村彝のかんじんな師匠である下落合753番地に住んだ満谷国四郎アトリエClick!の記載がない。太平洋画家会では、中村彝の直接の師であり、彝は房総の布良(めら)で制作した『海辺の村(白壁の家)』Click!を満谷のもとへ見せにいき、文展(文部省美術展覧会)への出品を強く奨められている。
 満谷国四郎Click!は当時の文展審査員であり、彝の『海辺の村(白壁の家)』や『田中館博士の肖像』Click!(特選)などを、鑑査を通じて選定した当事者でもある。また、『エロシェンコ氏の像』Click!の展示にも満谷は深くかかわっているだろう。つまり、中村彝が世に出るきっかけをつくり、またその作品へ常に注目し推薦していた、大正画壇のもっとも重要な人物のひとりだ。さらに、中村彝アトリエの近くに早くから住み、病気が進行した彝のアトリエにも、たまに足を向けていた記録が残っている。実際には病状の悪化で活動できなかったが、彝を文展審査員に推挙したのも満谷の力が大きいのだろう。そして、満谷は展覧会で「小使いさん」Click!とまちがえられた今村繁三Click!から、彝と同様に少なからぬ支援を受けていた画家でもある。
 満谷国四郎は、下落合西部(現・中井2丁目)に東京土地住宅Click!(島津家Click!や金山平三Click!も企画や開発に関連していただろう)によって計画され、画家たちが集合して暮らす予定だったアビラ村(芸術村)Click!の「村長」になるはずだった人物でもあり、中村彝アトリエ関連の地域マップには不可欠な存在だ。九条武子邸のすぐ上あたりに、ぜひ加えてほしい満谷国四郎アトリエだ。
 
 
 また、同マップに下落合1443番地の木星社Click!も加えていただけないだろうか。大正期の美術誌『木星』は、中村彝の動向を繰り返し取りあげており、彝に注目しつづけた美術出版社だからだ。中村彝が没した直後には、『みづゑ』240号(1925年2月号)と同様に『木星』(同年月)も、「中村彝追悼特集」号を発行している。マップの位置的には、すでに記載のある下落合1445番地の鎌田方に下宿していた松下春雄Click!の南側、当時の住民名でいうと鎌田邸の南隣りの小泉邸から、道をはさんだ斜向かいあたりに木星社の社屋は建っていた。
 ついでに、中村彝の弟子である下落合800番地Click!の鈴木良三Click!と、彝の少し後輩であり彝につづいて下落合にアトリエを建てている同時代の画家、大久保作次郎Click!の記載もないので加えていただければと思う。鈴木良三は、マップの下落合804番地に記載の鶴田吾郎アトリエClick!に隣接する区画で、中村彝が関東大震災Click!のときに一時避難Click!して暮らしていた家でもある。また、鈴木良三は中村彝会の会長を長くつとめていた重要な人物のひとりだ。大久保作次郎は、中村彝がアトリエをかまえてから2~3年後、目白通りの北側へ三角に出っぱったエリア=下落合540番地へ、すでに1919年(大正8)から住んでいるのが確認できる。また、大久保アトリエの近くに、一時期だが友人の小出楢重Click!が百姓家を借りて暮らしていたのもご紹介Click!済みだ。
 さらにもうひとつ、佐伯祐三Click!や山田新一Click!とは東京美術学校の入学時におけるクラスメイトであり、彝アトリエのすぐ西にアトリエを建てて彝のもとへ通っていた二瓶等(二瓶徳松)Click!の記載もほしい。二瓶は、師である中村彝自身から作品を直接購入していると思われ、おそらく佐伯もそれを観ているはずで、佐伯祐三と中村彝とを結ぶ重要な存在だ。二瓶自身も、近衛町をスケッチするなど多数の「下落合風景」作品Click!を残している。
 さて、彝アトリエに掲示された芸術家マップへのご要望は以上なのだが、新宿歴史博物館Click!で開催されている「中村彝―下落合の画室―」展の図録のほうは、ちょっと“重症”だ。それは、図録に掲載されている寄稿論文に大きな錯誤がみられるからだ。お相手が早稲田大学Click!の教授なので、指摘させていただくのは心苦しいのだけれど、画家たちが集合した下落合と長崎アトリエ村Click!をめぐる、明らかな誤りなのであえて書かせていただきたい。同図録に掲載された、中川武「落合のアトリエ建築について」から引用してみよう。
 
 
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 この地域で最初に注目を集めたのは、後に池袋モンパルナスと呼ばれた長崎アトリエ村である。大正期から戦前、戦後にかけて、池袋から長崎町周辺に沢山の芸術家たちがアトリエ付住宅に住み、一種の文化圏をつくり、アトリエ村と呼ばれた。現在のJR山手線池袋駅周辺にかつて映画館や喫茶店が多く集まる街区があり、そこが池袋モンパルナスと呼称されていたことに因んで、隣接地も含めて「すずめが丘」、「さくらが丘」などの各アトリエ村を総称して池袋モンパルナス文化圏というかなり広域的な地域イメージを形成していった。目白文化村は池袋モンパルナスの発展の気運に触発された面がかなりあるが、大正11年(一九二二)の第一文化村から同14年の第四文化村まで、箱根土地株式会社(後の国土計画、コクド)によって郊外住宅地として分譲されている。和洋折衷式の、三角屋根、洋瓦葺の外観が多い文化住宅であったこの目白文化村を挟むように近衛町の旧近衛邸跡地と現中井二丁目付近が、スペインのアビラの風光と似ていることを理由にアビラ村(別名芸術村)が、東京土地住宅株式会社により分譲開発が計画された。
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 下落合にお住いのみなさんのみならず、豊島区側の目白や長崎地域にお住いの方々が読まれたら、「あれれっ?」となる表現だと思う。事実、中村彝アトリエ記念館で同図録を手にされた豊島区の美術家のおひとりは、「長崎アトリエ村の成立と、目白文化村の売り出しの時系列が逆なんだけどな」といわれた。そう、成立時期が逆さまなのだ。
 まず、大正初期から下落合に画家たちや美術関係者が集まりはじめ(長崎の下落合寄りにも大久保作次郎の親友である牧野虎雄Click!や、岸田劉生Click!が通ってきていた河野通勢Click!がいたが)、「目白バルビゾン」という呼称も生まれ、徐々に芸術家たちが多く住む街というイメージが形成された。1922年(大正11)に、下落合で目白文化村と近衛町の分譲地販売がスタートし、同時に満谷国四郎を村長とする下落合西部(現・中井2丁目)のアビラ村(芸術村)Click!の構想が明らかになると、さらに西洋画・日本画を問わず画家や彫刻家たちの集合に拍車がかかった。
 大正後期から昭和初期にかけ、落合地域はアヴァンギャルドな村山知義Click!グループや1930年協会Click!(のち独立美術協会Click!)、プロレタリア美術Click!、また逆に官展を舞台に活動する画家たちの一大芸術拠点のような様相をていするようになる。やがて、落合地域や池袋駅周辺の様子を横目で見つつ、画家たちを相手にアトリエ付き住宅を建てれば入居者が多く集まる…というマーケティングを行ない、のちに「アトリエ村」と呼ばれる住宅群を地主たちが長崎地域へ建てはじめるようになる。長崎アトリエ村の存在が顕著になるのは、1930年(昭和5)以降のことだ。
 
 
 図録の論文は個人の方の文章でもあるし、印刷物なのでこれからの訂正はむずかしいのかもしれないが、中村彝アトリエ記念館の壁に設置されたマップのほうは、epsかai形式のデータ出力だと思われるので、ぜひ中村彝ゆかりの人物たちが暮らしたポイントを、イラレ(Illustrator)で追加していただければ幸いだ。細かいことをいえば、彝のパトロンである今村繁三Click!も、晩年は下落合の聖母坂の下、徳川邸の近くに住んでいたのだが…。
 このほかにも、彝アトリエに掲示されている落合地域のマップと、中川論文の佐伯祐三関連の記述にはいろいろ気になる点があるので、また改めてつづきの記事をアップしたいと考えている。

◆写真上:中村彝アトリエの内部で、鈴木誠アトリエ時代に増築のため幅が狭められていた東側の壁Click!が、もとの幅にもどされている。彝は、ここに楕円形の鏡を吊るしていた。
◆写真中上:彝アトリエの古材があちこちに用いられ、また保存・展示されているアトリエ内部。建築材には「へ」に「吉」の焼印が残されているので、「やまよし」という店名だろうか。落合地域かその周辺域に、この名の材木商が確認できれば、同一の材木を用いた建築の存在や請け負った工務店、設計者など新たなことが判明するかもしれない。数十年後、解析技術や近代建築関連のDBがもっと進歩・充実すれば、さらにいろいろな細かい情報がわかるだろう。
◆写真中下:上は、中村彝にゆかりが深い下落合753番地の満谷国四郎アトリエ(左)と、下落合1443番地の木星社(右)の位置。下は、中村彝の愛弟子だった下落合800番地の鈴木良三宅(左)と、彝のすぐあとにアトリエを建てた下落合540番地の大久保作次郎アトリエ(右)の位置。
◆写真下:上左は、二股に分かれたアトリエ前面のアオギリ。上右は、徳川邸近くの聖母坂界隈に住んでいた今村繁三。下左は、「中村彝―下落合の画室―」展図録。下右は、通常はこちらが出入口だった彝アトリエの勝手口で、カキの木Click!もちゃんと復活して植えられている。